最強の猫先生は、匂いを気にしない
朝から、暖炉の前に大きな板が来た。
屏風というらしい。
絵が描いてある。
鳥と、花と、水。
魚はいない。
使用人が二人がかりで、俺の前に立てようとした。
俺は、動かなかった。
火が見えなくなる。
熱も来なくなる。
使用人が、屏風を持ったまま止まった。
顔を見合わせた。
屏風は、少し横へずれた。
もう少し、ずれた。
俺の分だけ、暖炉が空いた。
それでいい。
夜会は、今日らしい。
屋敷じゅうが、昨日より走っている。
俺は、昨日より動かない。
釣り合いは、取れている。
*
昼、裏口のほうで車輪の音がした。
魚の匂いもした。
行った。
荷馬車が止まっていた。
見たことのない荷馬車だ。
降りてきたのも、見たことのない男だった。
「今日は、代わりの者が参りました。魚屋の親方は、腰を痛めまして」
料理長が出てきた。
男を見た。
荷馬車を見た。
眉が、一度だけ寄った。
「……それは、難儀なことだ」
料理長は、籠を受け取った。
「籠をお返しいただくまで、裏で待たせていただきます」
男が、頭を下げた。
手が白い。
昨日の男の手は、赤かった。
どうでもいい。
籠だ。
俺は、籠に駆け寄った。
泥と水草の匂い。
昨日と同じだ。
魚の匂い。
これも同じだ。
その奥に、もう一つ。
……知っている。
前に、どこかで嗅いだ。
俺は、男の手を嗅いだ。
手ではない。
籠を嗅いだ。
籠でもない。
魚だ。
魚から、する。
……。
知らん。
魚は魚だ。
一匹、よこせ。
その時、荷馬車の馬が首を下げた。
俺の頭の上で、鼻を鳴らした。
生温かい風が来た。
一歩、下がった。
馬が、俺を見ている。
俺も、馬を見た。
馬の顔は、どれも同じだ。
*
エレノアが、裏口に出てきた。
リナも一緒だ。
料理長が、小さな声で何か言った。
代わりの者、と聞こえた。
エレノアは、荷馬車を見た。
男を見た。
男は、頭を下げたままだった。
籠を見た。
何も言わなかった。
「リナ」
「はい」
「見たままを、書いておいて」
それだけだった。
リナが、手帳を開いた。
書きながら、小さく読み上げている。
「昼。裏口。荷馬車、いつもと違う。お届けの方、代わりの方。親方は、腰」
俺は、籠のまわりを歩いていた。
一周。
二周。
三周。
籠には、蓋がしてある。
開かない。
料理長が、腕を組んだ。
「……聖獣様が、魚の出来を見てくださっている」
違う。
一匹よこせ。
出来は、食べてから言う。
「聖獣様、三周」
書くな。
*
昼過ぎ、あの女が来た。
早すぎる。
夜会は、夜だ。
俺は、まだ裏手にいた。
籠は、もう厨房の中だ。
だが、空いた籠が荷馬車に戻ってきている。
空いた籠にも、魚の匂いは残る。
残りの匂いを、嗅いでいた。
あの女は、馬車を降りるなり、厩のほうへ来た。
「こんにちは!」
馬に言っている。
「この子は、初めてです」
次の馬へ行く。
「この子は、前にも見ました」
次。
「この子も、前にも見ました」
次。
荷馬車の馬だ。
鼻を鳴らした馬だ。
「この子、前にも見ました」
次。
「この子は……初めて、かな」
知らん。
俺は、籠を嗅いでいる。
足音がして、エレノアが来た。
使用人が知らせたらしい。
「……お早いですわね」
「遅れないように、って言われたので!」
「夜ですわ」
「はい! だから、今から来ました!」
「……中へ、お入りなさい」
エレノアは、もう屋敷のほうへ歩いている。
馬の話は、聞いていなかった。
俺も、聞いていなかった。
空いた籠は、魚の匂いしかしない。
つまらん。
俺は、暖炉へ帰った。
*
あの女は、しばらくして居間にも来た。
舞踏会のときと同じ服だった。
暖炉のそばに、しゃがんだ。
「クロちゃん、今日もおめかし――……してませんね」
していない。
焼いている。
「先生は、いつもどおりで結構ですのよ」
エレノアが言った。
いつもどおりだ。
あの女は、手を出さずに待っていた。
俺は、腹を向けなかった。
今日は、背中の番だ。
*
夕方、客が着き始めた。
玄関が、ずっと開いたり閉まったりしている。
風が入る。
閉めろ。
ヴェルナー伯爵家の一行が来た。
前に、俺が菓子の皿を落とした女がいた。
扇の陰から、暖炉の前の俺を見た。
俺は、見なかった。
外務の役人たちが来た。
紙の匂いがする。
ローデン子爵、と呼ばれた男も来た。
次の客が来た。
客は、居間に入るたびに暖炉のほうを見る。
「……あれが」
「暖炉の前に」
「本当に、いらっしゃるのね」
いる。
ここは、俺の場所だ。
春まで、ここだ。
*
少しして、玄関が静かになった。
男が、エレノアの父と並んで入ってきた。
知らない服だ。
知らない土の匂いがする。
後ろに、何人かついている。
剣を下げた男も、二人いる。
隣の国の使節、というやつらしい。
使節は、居間を見回した。
暖炉の前で、目が止まった。
「これが、噂の聖獣殿か」
俺は、背中を焼いていた。
見ない。
今は、背中の番だ。
使節が、しばらく俺を見下ろしていた。
俺は、目を閉じた。
後ろの随員が、小さく言った。
「……微動だにされぬ」
「我が国の将軍でも、使節様の御前では、ああはいかぬ」
将軍は知らん。
背中を焼いている。
随員たちが、なぜか深くうなずき合った。
*
皇太子が着いた。
帝国の名代、というやつだ。
前より、服が重そうだ。
皇太子は、使節に挨拶をした。
エレノアの父に挨拶をした。
エレノアに、短く何か言った。
それから、暖炉のほうを見た。
目が、暖炉の上の箱で一度止まった。
それから、俺に来た。
目が合った。
一度だけ。
皇太子は、何も言わなかった。
指も鳴らさなかった。
すぐに、使節のほうへ向き直った。
……今日も、言わなかった。
*
日が落ちた。
使用人が、燭台に灯りを入れていく。
一つ。
また一つ。
壁際から、卓の上へ。
入口から、奥へ。
何百本も、ではない。
……たぶん。
居間が、少しずつ明るくなる。
暖炉の火が、少しだけ小さく見える。
厨房から、魚を焼く匂いがする。
最後の燭台に、灯りが入った。
夜会が、始まる。




