最強の猫先生は、バカにされていない
暖炉の前。
今日は、腹から焼く。
昨日は背中からだった。
順番は大事だ。
暖炉の上には、あの箱がある。
まだ、誰も開けていない。
光るものは、上でいい。
今朝、知らせが来た。
昼過ぎに、あの女が来るらしい。
エレノアは、机に向かっている。
名簿の束が、端に寄せてある。
その横に、封筒が一通。
名簿の紙ではない。
昨日の夜、エレノアが一人で書いていたものだ。
ペンを置いては、また持った。
俺は二回寝て、二回起きた。
まだ書いていた。
最後に、封をした。
宛名を書くところは、見ていない。
寝ていた。
封筒は、名簿の束の下に入ったり、上に出たりしている。
エレノアの指が、ときどきそれを動かす。
何をしている。
「お嬢様。男爵家のお嬢様が、お着きです」
リナが言った。
エレノアは、封筒を名簿の下に入れた。
名簿の束ごと抱えて、茶の卓へ移った。
客がいても、夜会の支度は終わらないらしい。
*
「寒いですね!」
あの女が入ってきた。
冷たい風と、焼き菓子の匂いがした。
それと、干物の匂い。
「これ、お土産です。こっちはクロちゃんの」
干物の包みは、まっすぐエレノアの手に渡った。
俺を通せ。
茶が出た。
菓子も出た。
あの女は、よく喋る。
「エレノア様。すごい夜会があるって、町でも噂です!」
「……そう」
「隣の国の、偉い方がいらっしゃるって。お料理も、すごいって」
「どなたから、お聞きになりましたの」
「パン屋さんです」
パン屋は、何でも知っているらしい。
エレノアの手が、名簿の束のほうへ伸びた。
封筒の端が、出た。
「お花も、帝都中から集めてるって聞きました」
入った。
「そんなに集めておりませんわ」
「あ、そうなんですね」
また、出た。
「蝋燭を、何百本も灯すって」
「……数えておりませんわ」
また、入った。
「どんな方が、呼ばれるんでしょうね」
出た。
出すのか。
出さないのか。
どっちだ。
あの女は、菓子の端をかじっている。
何も見ていない。
エレノアの指が、封筒の上で止まった。
「……あなたも」
「はい?」
「……あなたも、いらっしゃいませんこと?」
あの女の手が、菓子を持ったまま止まった。
「いいんですか!」
声が大きい。
暖炉の火が揺れた気がした。
エレノアは、封筒を卓の上に置いた。
指で、少しだけ押した。
封筒が、卓の上を滑った。
あの女は、それを両手で持った。
「私に、ですか」
「……ほかに、どなたがいらっしゃいますの」
「開けてもいいですか」
「お帰りになってからになさい」
「はい!」
あの女は、封筒を窓の光にかざした。
「……透かしても、見えませんわよ」
「あ、そうですね」
かざしても、魚は入っていない。
あの女は、封筒を膝の上に置いた。
それから、急に顔を上げた。
「何を着ていけばいいんでしょう」
「……舞踏会のときのもので、十分ですわ」
「あれで、いいんですか」
「ええ。あれで、十分」
あの女は、封筒をもう一度、両手で持った。
リナが、一歩前に出た。
「……お嬢様。お席を、一つ」
「ええ。お願い」
リナが、手帳に何か書いた。
これは、書くらしい。
リナも、知らなかったらしい。
*
あの女が、暖炉のほうを見た。
俺を見た。
「クロちゃん、暖炉に溶けてますね」
溶けていない。
焼いている。
今は、腹の番だ。
あの女が、暖炉のそばにしゃがんだ。
手は出さない。
待っている。
相変わらず、こいつは分かっている。
だが今は、腹の番だ。
エレノアも、俺を見た。
「……本当に」
小さく言った。
「先生、最近ずいぶん暖炉と一体化していらっしゃいますわね」
言った。
言ってから、エレノアが固まった。
口が、少し開いたまま止まっている。
あの女が、エレノアを見た。
エレノアは、あの女を見なかった。
こいつまで。
『今お前、バカにしにゃ……しなかったか』
…………。
今のは、違う。
「……先生」
「…………」
「……今、噛みました?」
『噛んでない』
「クロちゃん、何か言いました?」
あの女が、首を傾げた。
こいつには、ニャとしか聞こえていない。
それでいい。
「……いいえ。何でもありませんわ」
エレノアは、茶碗を持ち上げた。
口元が、少しだけ震えていた。
笑うな。
バカにされてはいない。
俺は、焼いているだけだ。
*
エレノアが、席を立った。
机へ行く。
名簿の束をしまうらしい。
引き出しを開けた。
名簿を入れた。
手が、中で止まった。
紙を一枚、半分だけ引き出した。
紙だ。
古い紙だ。
字は読めるが、興味がない。
俺が上で寝たことのある紙かもしれない。
紙の上では、よく寝る。
どの紙かは、知らん。
エレノアは、暖炉の前のあの女を見た。
あの女は、俺の尻尾を見ていた。
エレノアは、紙を引き出しに戻した。
引き出しを閉めた。
静かに閉めた。
席に戻ってきた。
何も言わなかった。
*
「クロちゃんも、夜会に出るんですか?」
あの女が、しゃがんだまま聞いた。
「先生次第ですわ」
「クロちゃん、出ます?」
腹が熱い。
焼きすぎた。
俺は、寝返りを打った。
「出るって!」
違う。
暑くなっただけだ。
「エレノア様、今の、出るってことですよね!」
「……先生次第、と申し上げましたわ」
「だから、出るって!」
話が戻った。
リナが、また手帳を開いた。
「聖獣様、ご出席。……男爵家のお嬢様の、お見立て」
書くな。
*
日が傾いた。
あの女は、封筒を胸の前で持って立ち上がった。
帰りは、迷わずに馬車へ行けるらしい。
リナがついていくからだ。
「夜会、楽しみにしてます!」
「……遅れないように、いらっしゃいまし」
「はい!」
扉が閉まった。
エレノアは、しばらく扉のほうを見ていた。
それから、机に戻った。
引き出しに、手をかけた。
開けなかった。
しばらくして、リナが戻ってきた。
「お見送りいたしました」
「ご苦労さま」
「……馬車は、お間違えになりませんでした」
「そう」
エレノアの口の端が、少しだけ上がった。
馬車を間違えないのは、普通だ。
人間は、普通のことで笑う。
夜会には、客が来る。
料理が出る。
魚も出る。
俺は、暖炉が楽しみだ。




