最強の猫先生は、寄り添わない
昼の一刻だけ、蔵の前が暖かくなる。
朝は霜が降りている。
夕方は風が来る。
だが昼の一刻だけ、蔵の白い壁に日が当たって、石段に溜まる。
暖炉より、暖かい。
俺は、暖炉の前から出張した。
廊下は寒い。
裏口は、もっと寒い。
それでも行く。
昼の一刻のためだ。
蔵の前。
クッションの上。
扉は、今日も開かない。
匂いは、今日もする。
これでいい。
*
「殿下が、また」
「三度目よ」
「今日は、何をお持ちかしら」
「さあ……」
*
足音がした。
エレノアと、もう一人。
背が高い。
眉が動く男だ。
皇太子は、三歩ほど離れたところで止まった。
前と同じ場所だ。
覚えているらしい。
「……先生次第ですわ」
皇太子が何か言う前に、エレノアが言った。
「分かっている」
エレノアは、盆に載せてきた茶を石段の端に置いた。
「冷めないうちに、どうぞ」
それだけ言って、屋敷へ戻っていった。
振り返らなかった。
前と同じだ。
こいつも、覚えているらしい。
*
皇太子は、上着の内から何かを出した。
小さな箱だ。
開ける。
中で、何かが光った。
首輪だ。
細い革に、青い石がいくつも並んでいる。
日を受けて、きらきらする。
「お前に、と思ってな」
光る。
食えない。
俺は、目を閉じた。
「……宝石だぞ」
知っている。
食えない。
皇太子は、首輪を俺の鼻先まで近づけた。
嗅いだ。
革の匂いだ。
手袋と同じだ。
前脚は、入れん。
「お前がこちらへ来たら、これをやる」
食えないものは、いらん。
「……いや」
皇太子は、自分で首を振った。
「それも、呼んだことになるな」
なる。
なるから、やめておけ。
皇太子は、しばらく首輪を差し出したままでいた。
それから、箱にしまった。
ぱちん、と蓋が閉まった。
耳が向いた。
勝手に向くのだ。
怒った顔は、しなかった。
箱を、石段の茶の盆の隣に置いた。
茶のほうが、まだましだ。
あれも、飲まんが。
*
「クロ」
呼ばれている。
知らん。
皇太子が、指を鳴らした。
ぱちん。
耳が向いた。
だから、勝手に向くと言っている。
聞いていないのか。
「いいか。私は――」
皇太子は、そこで止まった。
口を開けたまま、止まった。
何かを言いかけて、やめた。
風が、蔵の屋根を撫でていった。
皇太子は、口を閉じた。
「……いや」
小さく言った。
それきり、何も言わなかった。
*
皇太子が、動いた。
近づいてはこない。
三歩の場所のまま、膝を折った。
蔵の前の石段に、腰を下ろした。
公爵家の蔵の前の石段に、皇太子が座っている。
そこは、俺の石段だ。
昼の一刻だけ。
屋敷の窓のところで、何かが動いた。
使用人が二人、窓からのぞいていた。
一人が、もう一人の肩につかまって、よろめいた。
二人とも、窓から消えた。
皇太子は、気づいていない。
空を見ている。
呼ばない。
指も鳴らさない。
ただ、座っている。
黙っていると、普通の男に見える。
……いや。
普通の男は、ここには座らない。
蔵の屋根に、鳥が来た。
前に、俺が外した奴かもしれない。
顔では分からん。
皇太子が、鳥を見上げた。
俺も、見上げた。
二人で、鳥を見た。
鳥は、降りてこなかった。
どこかへ行った。
皇太子は、また空を見た。
……変な男だ。
前から変だったが、今日は別の変さだ。
*
日が、動いた。
蔵の屋根の影が、ゆっくり伸びてくる。
クッションの端にかかった。
半分にかかった。
尻が冷える。
影の中のクッションは、ただの布だ。
俺は、顔を上げた。
日が当たっているのは、もう石段の一角だけだ。
皇太子の、隣だ。
……。
俺は、クッションから降りた。
石段を、三歩ぶん歩いた。
こいつが、一度も詰めなかった三歩だ。
皇太子の隣の、日の当たっているところに座った。
丸くなった。
石が、温まっている。
悪くない。
来たのではない。
日が、そっちへ動いた。
*
皇太子は、動かなかった。
息も、止まっているようだった。
しばらくして、目だけが下を向いた。
俺を見た。
手が、少しだけ浮いた。
俺の背中の上で、止まった。
触れなかった。
触れていたら、出ていくところだった。
手は、皇太子の膝の上へ戻っていった。
「……来たのか」
低い声だった。
来たのではない。
日が動いただけだ。
「呼ばなければ、来るのか」
知らん。
皇太子は、長いこと俺を見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
口の端が、少しだけ動いた。
笑ったらしい。
この男が笑うのを、初めて見た。
笑うと、眉は動かないらしい。
皇太子の息が、ゆっくりになった。
俺の息も、ゆっくりになった。
……寝ていない。
*
窓のところに、また使用人が戻ってきていた。
今度は、三人だった。
「……殿下が」
「聖獣様に、お膝をお貸しに……」
違う。
膝ではない。
石段だ。
三人とも、また窓から消えた。
*
足音がした。
エレノアが、冷めた茶を下げに来た。
石段の手前で、止まった。
皇太子と、その隣の俺を見た。
しばらく、そこに立っていた。
何も言わなかった。
皇太子が、顔を上げずに言った。
「……夜会には、私が出る」
「殿下が、ですの」
「帝国の名代として。父上の言いつけだ」
「……かしこまりましたわ」
皇太子は、俺を見下ろした。
「この猫も、出るのだろう」
「先生次第ですわ」
「……そうだな」
「殿下。お茶が、冷めてしまいましたわ」
「……すまない」
謝った。
この男が。
皇太子は、立ち上がった。
俺は、動かなかった。
石が、まだ温かい。
皇太子は、首輪の箱を拾い上げかけて、やめた。
箱は、石段に置いたままになった。
エレノアが、それを見ていた。
茶は、最後まで飲まれなかった。
*
皇太子が、帰っていく。
屋敷のほうへ。
門のほうへ。
振り返らなかった。
……今日は、言わなかった。
もう一度、を。
日が、また動いた。
石段の一角も、影に入った。
俺は、暖炉へ帰った。
*
夜。
暖炉の上に、小さな箱が置いてあった。
エレノアが置いたらしい。
開けてはいない。
光るものは、暖炉の上でいい。
俺は、暖炉の前でいい。




