最強の猫先生は、火の番をしない
朝、居間の空気が変わった。
ぱち、と音がした。
暖炉だ。
この秋初めての火が入っている。
使用人が一人、膝をついて薪を組んでいた。
火が、小さく揺れている。
暖かい。
庭の木の葉は、ほとんど落ちた。
日向は、短くなった。
俺は、暖炉の前に座った。
ここだ。
今日から、ここだ。
春まで、ここだ。
使用人が立ち上がって、俺を見た。
俺も見た。
使用人は、そっと下がっていった。
*
昼前、薪を抱えた使用人が来た。
俺は顔を上げた。
薪が火にくべられる。
ぱち。
俺は、火を見た。
使用人は、俺を見た。
それから、もう一人の使用人と目を合わせた。
「……聖獣様が、火の番をなさっている」
「朝から、ずっとよ」
「火が消えないように、見ていてくださるのね」
違う。
暖かいところにいるだけだ。
火の番は、お前たちの仕事だ。
もっと足せ。
使用人は、薪をもう一本足した。
それから、なぜか俺に深く頭を下げた。
……分かっているではないか。
*
エレノアの机の上は、紙の山だった。
夜会の支度だ。
客の名前。
席の順番。
花の色。
皿の数。
前にも見た。
まだ増えている。
料理長が呼ばれてきた。
厨房の男だ。
魚を焼く男だ。
「お呼びでございますか」
「隣国の方のお料理のことですわ」
エレノアは、献立の紙を料理長のほうへ向けた。
「川の魚を一皿。それは決めました。あとの組み立ては、あなたに任せますわ」
料理長が、紙から顔を上げた。
「……私に、でございますか」
「あなたのほうが、お詳しいでしょう」
料理長は、しばらく黙っていた。
それから、紙を両手で受け取った。
「……かしこまりました。精一杯、務めさせていただきます」
声が、少し硬かった。
料理長は、紙を胸に抱えるようにして出ていった。
魚の皿を、もう一つ増やせ。
言い忘れた。
まあいい。
俺は暖炉の前に戻った。
*
午後、仕立屋が来た。
首に巻尺をかけている。
両腕に、白い布の山を抱えていた。
「お、お嬢様。夜会のテーブル掛けと、給仕の者の上着でございます」
布の山が、暖炉のそばの台に置かれた。
布が、暖炉の熱を吸っている。
……温まっている。
俺は、暖炉の前を離れた。
台に飛び乗る。
布の山の上に座る。
暖かい。
仕立屋が、固まった。
顔から、色が抜けていく。
「せ、聖獣様……」
巻尺の端が揺れている。
見ない。
今日は布だ。
「わ、私は……」
仕立屋の膝が、少し震えた。
「私は、その……」
エレノアが顔を上げた。
「何か、ございますの?」
「……な、何も、ございません……!」
仕立屋は、両手で巻尺を握りしめた。
「本当に、何も、ございません……! この度は、何一つ……!」
知っている。
布が暖かいだけだ。
「そう。では、仕上がりを見せてちょうだい」
「は、はい……!」
仕立屋は、俺の下から布を一枚ずつ引き抜こうとして、やめた。
俺の下にない布だけを、広げ始めた。
賢い。
「……よく、できていますわ」
エレノアが、上着の縫い目を指でなぞった。
「あ……ありがとう、ございます……!」
仕立屋の肩から、力が抜けた。
白状することがない日は、こいつも普通の仕立屋だ。
*
夕方。
リナが、名簿を読み上げていた。
俺は、暖炉の前に戻っていた。
背中が熱い。
腹も向けた。
「隣国の使節様、ご随員の方々」
「ええ」
「外務のお役人の方々。旦那様のお知り合いの方々」
「ええ」
「ローデン子爵家ご当主様」
「ええ」
「……ヴェルナー伯爵家ご夫妻、ならびにご令嬢マルグリット様」
エレノアのペンが、止まった。
マルグリット。
前に、俺が菓子の皿を落とした女だ。
端にあったから落としただけだが。
エレノアは、しばらく紙を見ていた。
「……お招きしないわけには、いきませんわね」
「旦那様のお仕事の、お付き合いのお家でございますので」
「ええ。分かっていますわ」
ペンが、また動いた。
リナが、次の名前を読み上げる。
また次。
また次。
知らん。
名前は食えない。
……いや。
名前が増えると、皿が増える。
皿が増えると、魚も増える。
名前は、少しだけ食える。
俺は、暖炉のほうへ寝返りを打った。
*
日が落ちるころ、書状が届いた。
封に、見たことのない印が押してある。
エレノアが封を切って、読んだ。
「……隣国の使節様から、ですわ」
声に出して読む。
「『夜会へのお招き、ありがたく。つきましては、噂に名高い聖獣殿にも、ぜひお目にかかりたく』」
エレノアが、紙から顔を上げた。
「……先生に、ですの」
俺は、暖炉の前から動かなかった。
噂など、知らん。
会いたいなら、ここへ来い。
暖炉の前は、空いている。
少しだけ。
……やはり、空いていない。
エレノアは書状を置き、席次の紙を広げた。
前に、俺が座った紙だ。
四角が、たくさん描いてある。
エレノアは、紙と俺を見比べた。
俺は、動かなかった。
紙は平たい。
暖炉は暖かい。
暖炉の勝ちだ。
「……先生が、紙より暖炉をお選びに」
リナが、手帳に何か書いた。
書くな。
*
夜、客用の椅子が運び込まれた。
十脚。
二十脚。
壁際に、ずらりと並ぶ。
俺は、暖炉の前を一時だけ離れた。
一脚目に乗る。
硬い。
二脚目。
少しましだ。
三脚目。
脚がぐらつく。
降りる。
四脚目。
五脚目。
六脚目。
人間は、なぜこんなに椅子を作る。
使用人が二人、戸口から見ていた。
「……聖獣様が、お客様のお席を、一つずつ」
「清めて、いらっしゃるのかしら」
違う。
座り心地を見ているだけだ。
ぐらつく椅子は、直しておけ。
最後に、一脚だけ離れて置かれた椅子があった。
背もたれが高い。
座面が厚い。
金の糸で、縁取りがしてある。
「それは、使節様のお席でございます」
使用人が、小さな声で言った。
知らん。
乗った。
沈んだ。
……これは、いい。
俺は、丸くなった。
*
気がつくと、居間は静かだった。
椅子の上で、目を開ける。
暖炉の前で、エレノアが名簿を見直していた。
火が、小さくなっている。
客が来る。
料理が出る。
魚も出る。
……暖炉は、ここにある。
俺は椅子から降りて、暖炉の前へ戻った。
エレノアが、名簿から顔を上げた。
俺を見た。
火を見た。
薪を一本、足した。
分かっているではないか。




