最強の猫先生は、口を挟まない
エレノアの部屋の床に、日だまりがある。
四角い。
窓の形をしている。
俺は、その真ん中にいた。
扉が叩かれた。
リナが入ってきた。
外の匂いがする。
石畳と、人ごみと、焼き菓子の匂い。
「お嬢様」
エレノアが、机から顔を上げた。
「声をかけられました」
エレノアのペンが、止まった。
「……前と、同じ方でした」
「そう」
「また、お屋敷のことを知らせるように、と」
部屋が、少し静かになった。
窓からの日が、床の上で少しずれていた。
俺も、少しずれた。
「それだけ?」
「それだけでございます」
リナは、手帳を胸の前で持っていた。
開いてはいない。
「手帳には、書いておりません」
エレノアは、リナの手帳を見た。
それから、リナの顔を見た。
「……こちらからは、何もしなくてよろしいわ」
「かしこまりました」
リナが、下がった。
エレノアは、ペンを持ち直した。
ペンは、動かなかった。
しばらくして、動いた。
日が、またずれた。
俺も、ずれた。
*
何日か過ぎた。
屋敷が、騒がしくなった。
銀の食器が、箱から出されて並べられている。
大広間の床が、また磨かれている。
燭台が、数えられている。
客が来るらしい。
前に、あの男がそう言った。
エレノアの机の上は、紙だらけになった。
客の名前。
席の順番。
花の色。
皿の数。
どれも、知らん。
席の順番の紙には、四角がたくさん描いてある。
俺は、その上を歩いた。
「先生、そこは――」
真ん中あたりの四角の上で、止まった。
座った。
「……そこは、隣国の方のお席ですわ」
知らん。
ここが、いちばん平たい。
エレノアは、紙と俺を見比べた。
「では、先生のお席は、そのお隣にいたしましょうか」
リナが、ペンを止めた。
「……聖獣様の、お席を」
「冗談ですわ」
冗談らしい。
エレノアは、紙を俺の下から抜かなかった。
机の端に、一枚だけ、別の紙がある。
料理の紙だ。
字は読めるが、興味がない。
……魚、と書いてある。
そこだけは、興味がある。
俺は、紙の上に座った。
「先生。そこは、献立ですわ」
知っている。
魚のところだ。
「お退きになって」
退かん。
ここに魚がある。
エレノアは、紙を引き抜こうとして、やめた。
俺の尻の下から、魚の字だけがのぞいている。
「……先生も、気になさるのね」
気にしている。
とても気にしている。
*
料理長が来た。
厨房の男だ。
魚を焼く男だ。
俺は、紙から降りた。
話の分かる男が来たら、そちらへ行く。
「お嬢様。隣国のお客様のお料理について、伺いたいことが」
「ええ」
「出入りの魚屋が申しますには、あちらの方々は、川の魚をお好みになるとか」
「……魚屋が?」
「はい。あちらにも、品を卸しているそうで」
「そう。では、川の魚を。ありがとう、助かりますわ」
「恐れ入ります」
料理長は、深く頭を下げて出ていった。
川の魚。
俺は、川の魚も好きだ。
海の魚も好きだ。
魚なら、何でもいい。
料理長の足元に座ってみた。
料理長は、俺を見て、小さく頭を下げた。
それだけだった。
この屋敷の者は、頭は下げるが、魚は出さない。
*
その日の夕方。
リナが、また入ってきた。
外の匂いがする。
この前と、同じ匂いだ。
「お嬢様」
「……ええ」
「また、声をかけられました」
エレノアが、ペンを置いた。
「……まだか、と」
「まだか」
「はい。なぜ何も知らせてこないのか、と」
リナは、少し間を置いた。
「それから……」
「言いなさい」
「旦那様は、いつまでお屋敷にいらっしゃるのか、と」
エレノアが、止まった。
しばらく、動かなかった。
「……手袋の方と、同じことを」
小さな声だった。
リナが、うなずいた。
手袋。
前に、俺が前脚を突っ込んだやつだ。
抜けなくなった。
関係ない話か。
関係ない話だな。
俺は、日だまりの端へずれた。
「……こちらからは、何も――」
エレノアが言いかけて、止まった。
口を閉じた。
リナを見た。
「あなたは、どうしたいの」
リナの目が、少し大きくなった。
「わ、私は……」
「ええ」
「お嬢様の、お役に立ちたいです」
「私の役に立つかどうかは、私が決めますわ」
エレノアは、ふん、と鼻を鳴らした。
「あなたは、どうしたいの」
リナは、黙った。
手帳を握る指が、白くなった。
部屋が、静かになった。
リナの目が、床を這って、俺のところで止まった。
俺を見ている。
俺は、日だまりを追って、そっぽを向いた。
俺を見るな。
日が動いただけだ。
リナの目が、俺から離れた。
エレノアのほうへ戻った。
それから、顔を上げた。
「……次に聞かれたら、旦那様のご予定は存じません、と答えます」
声は、小さかった。
でも、震えてはいなかった。
「手袋職人の方と、同じように」
エレノアは、リナを見ていた。
長いこと、見ていた。
「では、そうなさい」
それだけだった。
「……はい」
リナは、手帳を開いた。
ペンを持った。
何も書かずに、閉じた。
書かないのか。
……口を挟む気はない。
俺には関係ない。
リナが、下がった。
扉が閉まった。
エレノアは、しばらく扉を見ていた。
それから、献立の紙を引き寄せた。
俺は、もうそこにはいない。
魚の字が、出ている。
エレノアは、その字を指でなぞった。
「……川の魚、ですわね」
そうだ。
魚だ。
*
日が、またずれた。
俺も、ずれた。




