最強の猫先生は、動かない
「殿下がお見えになるそうよ」
「今日?」
「もう、いらしているって」
「お嬢様に?」
「さあ」
*
蔵の前。
クッションの上。
日が当たっている。
扉は、今日も開かない。
匂いは、今日もする。
鳥は、来ない。
今日は、鳥ではないものが来た。
足音がした。
エレノアと、リナ。
その後ろに、もう一人。
背が高い。
服に、金の糸が入っている。
前に見た。
広いところで、人がたくさんいた夜に見た。
眉が動く男だ。
男は、蔵を見た。
クッションを見た。
俺を見た。
「……あれか」
「先生ですわ」
「聖獣の御座所が、蔵の前とはな」
「先生が、そこにいらっしゃいますので」
男は、少しだけ眉を動かした。
やはり、動く。
「少し、借りるぞ」
「……先生次第ですわ」
男が、エレノアを見た。
エレノアは、目をそらさなかった。
「よかろう」
エレノアとリナが、屋敷へ入っていった。
リナが一度だけ振り返った。
エレノアは、振り返らなかった。
*
屋敷の廊下で、リナが小さく言った。
「……よろしいのですか」
「先生次第、と申し上げましたもの」
「殿下が、お一人で」
「ええ」
エレノアは、廊下の窓の前を通り過ぎた。
一度も、外を見なかった。
「お茶の支度を。殿下がお戻りになったら、お出しして」
「かしこまりました」
*
皇太子が、俺の前に立った。
三歩ほど離れたところだ。
それ以上は、来ない。
しゃがみもしない。
上から、俺を見ている。
「クロ」
呼ばれている。
知らん。
「……クロ」
知らん。
二度呼んでも、知らん。
皇太子が、指を鳴らした。
ぱちん。
耳だけが、そちらを向いた。
耳は勝手に向く。
俺が向けたのではない。
「来い」
行かん。
ここは暖かい。
皇太子は、黙った。
怒った顔はしていない。
何かを考えている顔だ。
それから、手を一度打った。
ぱん。
耳が、また向いた。
だから、勝手に向くのだ。
「私が呼べば、人は来る」
皇太子が言った。
俺にではなく、自分に言っているようだった。
「馬も来る。犬も来る。鷹も来る」
猫は来ない。
「……なぜ来ない」
暖かいからだ。
「日が陰れば、来るのか」
日が陰れば、もっと暖かいところへ行く。
お前のところではない。
*
皇太子は、屋敷の窓を見上げた。
誰もいないのを、確かめたらしい。
それから、咳払いを一つした。
猫相手に、咳払いか。
「いいか」
皇太子が言った。
猫に、いいか、と言う男を初めて見た。
「私は、ここにいる」
知っている。
「お前は、そこにいる」
知っている。
「私が、お前を呼んだ」
聞こえていた。
「ならば、お前がこちらへ来る。違うか」
違う。
「私がそちらへ行けば、呼んだことにならない」
来ればいい。
クッションは一人用だが。
「分かるな」
分からん。
俺は、前脚に顎を乗せた。
尻尾の先が、一度揺れた。
皇太子の目が、それを追った。
「……今、返事をしたな」
違う。
蠅だ。
蠅は、尻尾の先から飛んでいった。
皇太子は、蠅を目で追わなかった。
俺を見ていた。
皇太子は、指を折った。
「名を呼ぶと、耳が向く。指を鳴らすと、耳が向く。手を打つと、耳が向く」
三本。
「……耳は、来るのだな」
耳しか来ない。
皇太子は、怒らなかった。
呼んで、来なくて、怒らない。
変な男だ。
この屋敷には、変な男が増えた。
「よかろう。もう一度、説明する」
まだあるのか。
*
廊下の窓のところを、使用人が一人通りかかった。
蔵の前に、皇太子が立っている。
猫に向かって、何か話している。
使用人は、そこで止まった。
頭を下げた。
下げたまま、横歩きで窓の外から消えた。
見なかったことにしたらしい。
賢い。
*
「私は、ここにいる」
さっきより、ゆっくりだ。
「お前は、そこにいる」
さっきより、ゆっくりだ。
「私が、お前を呼んだ」
日が、背中に当たる。
「ならば、お前がこちらへ来る」
暖かい。
「違うか」
……何がだ。
まぶたが、重い。
この男の声は、低くて、平らだ。
眠くなる。
「分かるな」
この話を聞くのは、二度目だ。
二度聞いても、分からん。
……いや。
一度目から、分かってはいた。
分かったうえで、行かんのだ。
寝る。
*
風が吹いた。
蔵の扉の隙間から、匂いが流れてきた。
干物だ。
俺の鼻が、そちらを向いた。
目も開いた。
首も、少しだけ伸びた。
皇太子が、一歩踏み出しかけた。
止まった。
俺の鼻は、扉を向いている。
皇太子のほうではない。
皇太子は、俺の鼻の先を見た。
扉を見た。
また、俺を見た。
「……蔵か」
干物だ。
「呼んでも来ず、匂いには向くか」
当たり前だ。
「では、私が蔵から何か持ってくれば――」
皇太子は、そこで止まった。
「……いや。それは、呼んだことにならない」
なる。
魚を持ってくる奴のところへは、行く。
来い。
干物を持って来い。
皇太子は、長いこと黙っていた。
出しかけた足を、元の場所へ戻した。
三歩ほど離れたところ。
最初と同じ場所だ。
*
日が、少し傾いた。
皇太子は、クッションを見下ろした。
「……一人用だな」
そうだ。
皇太子は、上着の襟を直した。
踵を返した。
屋敷のほうへ歩きだす。
帰るのか。
帰れ。
屋敷で、茶でも飲むのだろう。
茶は、いらん。
干物を出せ。
皇太子が、止まった。
一度だけ、振り返った。
俺は、まだ扉を見ていた。
「……もう一度だ」




