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最強の猫先生は、訂正しない

朝から、廊下を磨いている者がいる。

 花瓶の花が、替えられている。

 使用人が、早足で行き来する。

「旦那様が、お戻りに」

 誰かが言った。

 騒がしい。

 俺は廊下を歩いた。

「せ、聖獣様、そちらは磨いたばかりで……」

 知らん。

 俺の通り道だ。

 歩いた。

 振り返ると、床に足跡が四つ、点々と続いていた。

 使用人が、雑巾を握ったまま固まっている。

「……聖獣様の、御足跡」

「拭くの?」

「拭いて、いいのかしら」

 拭け。

 ただの足跡だ。

「旦那様が、お通りになるのよ」

「……そうよね」

 結局、拭かれた。

 拭くのか。

 それはそれで、何か違う。

*

「隣国とのお話し合いから、ようやくお戻りなんですって」

「今度は長かったわね」

「また、すぐにお発ちになるのかしら」

「今度は、しばらくお屋敷にいらっしゃるそうよ」

「まあ。じゃあ、お食事の支度も」

「ええ。忙しくなるわ」

*

 玄関。

 使用人が並んでいる。

 エレノアが、その前に立つ。

 背筋が伸びている。

 いつもどおりだ。

 リナは、少し後ろだ。

 俺はエレノアの足元にいた。

 扉が開いた。

 男が入ってきた。

 見たことはある。

 あまりいない男だ。

 遠くの匂いがする。

 知らない土の匂いと、馬の匂いと、長く閉じこめられた紙の匂い。

 魚の匂いは、しない。

「お帰りなさいませ、お父様」

「変わりはないか」

「ございませんわ」

「そうか」

 男の目が、下へ動いた。

 俺で止まった。

「……それが、聖獣か」

「先生ですわ」

「そうか」

 土産はないらしい。

 男は奥へ歩いていった。

 使用人たちが、散っていった。

 玄関から、人が引いた。

*

 午後。

 蔵の前は、日が陰った。

 日は、居間に移っていた。

 俺も移った。

 居間の窓際に、大きな椅子がある。

 背が高い。

 肘掛けがある。

 座面が深い。

 そこに、日がまっすぐ落ちている。

 いちばん良い椅子だ。

 乗った。

 沈んだ。

 暖かい。

 ……これは、いい。

 俺は丸くなった。

 蔵の前のクッションには悪いが、これはいい。

*

 足音で、目が覚めた。

 男が入ってきた。

 紙の束を抱えている。

 まっすぐ、こちらへ来る。

 椅子の前で、止まった。

 俺を見下ろした。

 俺も、見上げた。

 どかん。

 ここは暖かい。

 男は、しばらく動かなかった。

 紙の束を持ち直した。

「……そうか」

 男は、隣の小さな椅子に座った。

 背が低い。

 肘掛けがない。

 日も当たっていない。

 男は、何も言わずに紙をめくり始めた。

 紙か。

 字は読めるが、興味がない。

 俺は、目を閉じた。

*

 居間の戸の外で、使用人が二人、立ち止まっていた。

「……ねえ、見た?」

「見たわ」

「旦那様の、お席に」

「聖獣様が」

「旦那様が、聖獣様にお席をお譲りになった……」

「あの旦那様が」

「お帰りになって、まだ半日よ」

 二人は、そっと戸の前を離れた。

*

 違う。

 譲られていない。

 暖かいから、どかなかっただけだ。

 あの男も、譲ったのではない。

 隣が空いていたから、座っただけだろう。

 ……たぶん。

 男は紙をめくっている。

 一枚。

 また一枚。

 ときどき、ペンで何か書く。

 こちらは見ない。

 一度だけ、紙の上から目が来た。

 俺を見た。

 何も言わなかった。

 俺も、何も言わなかった。

 目は、紙へ戻った。

 どかせとも言わない。

 変な男だ。

*

 軽い足音がした。

 エレノアが、戸口で止まった。

 俺を見た。

 椅子を見た。

 隣の小さな椅子の男を見た。

 顔から、少し血の気が引いた。

「お父様。せ、先生が――」

「そうか」

 男は、紙から目を上げなかった。

 エレノアは、口を開いて、閉じた。

 俺を見た。

 どけ、とは言わない。

 抱き上げもしない。

 少し間があった。

「……先生は、その椅子がお好きなのですわ」

 男のペンが、止まった。

 そう長くではない。

 ひと呼吸ぶんだけだ。

「そうか」

 ペンが、また動いた。

 エレノアは、それ以上何も言わなかった。

 頭を下げて、戸口へ戻りかけた。

「エレノア」

 男が呼んだ。

 紙を見たままだった。

「はい」

「近いうちに、客を迎える」

「お客様、ですの」

「隣国の方だ。この屋敷で、もてなす」

「……夜会を、ですの」

「そうだ。支度を頼む」

 エレノアの背筋が、もう一段伸びた。

 もともと伸びているのに、さらに伸びた。

「かしこまりましたわ」

 エレノアが出ていった。

 足音が、行きより少し速かった。

*

 夕食。

 長い卓の端と端に、エレノアと男が座っている。

 俺は、卓の下にいた。

 男の皿には、魚がある。

 白い。

 厚い。

 いい匂いだ。

 男の足元に座ってみた。

 見上げてみた。

 男は、魚を切って、自分の口に入れた。

 もう一度、見上げてみた。

 自分の口に入れた。

 ……やはり、変な男だ。

「変わりはないか」

 男が言った。

「ございませんわ」

「そうか」

 さっきも聞いた。

 玄関で聞いた。

 エレノアは、少しも気にしていない。

 男も、気にしていない。

 この家では、これで話が済むらしい。

「お父様」

「何だ」

「隣国の方は、どのようなお料理がお好みですの」

「知らん」

 気が合うな。

「……では、こちらで考えますわ」

「任せる」

 エレノアのナイフが、一度だけ止まった。

「……はい」

 それきり、二人とも黙って食べた。

 男の皿から、俺の分は出てこなかった。

 朝と夕に、決まった分を。

 間には、何も。

 卓の下の魚は、間に入るらしい。

*

 夜。

 居間の、大きな椅子。

 日は、もうない。

 それでも、少し暖かい。

 昼のぶんが、残っている。

 廊下を、足音が通った。

 戸口で止まった。

 あの男だ。

 椅子の上の俺を見た。

 しばらく見ていた。

「……そうか」

 足音は、行ってしまった。

 何が、そうか、なのか。

 知らん。

 客が来るらしい。

 客が来ると、料理が出る。

 料理が出ると、魚も出る。

 ……悪くない。

 俺は寝た。



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