最強の猫先生は、手伝わない
朝、寝台の脇で寝た。
平たいものの上だった。
四角くて、少し温かい。
エレノアが夜のうちに置いていったものだ。
よく眠れた。
*
今日は、あの女が来ている。
俺は窓辺にいた。
日が当たっている。
動く理由はない。
「クロちゃん、こんにちは」
あの女が、俺に手を振った。
振り返す手はない。
俺は目を閉じた。
「……ありませんわ」
エレノアの声がした。
何がだ。
片目を開ける。
エレノアが、部屋の真ん中に立っている。
「本ですわ。昨日、読みかけていたものが」
「本ですか」
「ええ」
エレノアが、部屋の中を見回した。
「昨日は、どこで読んだのだったかしら」
「探し物ですか? 手伝います!」
あの女が、もう立ち上がっている。
エレノアが、少しだけ迷う顔をした。
「……お客様に、そのようなことは」
「大丈夫です! 探し物、得意なんです」
本当か。
自分の馬車が分からなくなる女だぞ。
「……では、お願いしますわ」
二人が、部屋を出ていった。
リナが、手帳を持ってついていく。
部屋が静かになった。
暇だ。
俺も行く。
*
廊下の奥の、小さな部屋。
椅子が一つと、低い棚が一つある。
窓も小さい。
「ここで、少し読みましたの」
エレノアが、椅子の下を見た。
棚の上を見た。
棚の中を見た。
「……ありませんわね」
あの女は、窓の外を見ていた。
「何をしていらっしゃるの」
「本が、外に落ちてないかと思って」
「窓は、閉まっていましたわ」
「あ、そうですね」
俺は、戸のそばに座った。
ここは、日が当たらない。
次だ。
*
廊下の台の下を、エレノアがのぞいた。
公爵令嬢が、床に膝をついている。
あの女も、隣でのぞいている。
二人並んで、台の下をのぞいている。
何もない。
埃があるだけだ。
「……ありませんわね」
「ありませんね」
二人とも、顔を上げた。
鼻の頭に、同じ埃がついていた。
リナが、手帳に何か書いた。
書くな。
*
納戸は、屋敷の裏手の、少し暗いところにある。
戸が開いていた。
中で、使用人が一人、布を畳んでいた。
エレノアは、そのまま棚の前へ行った。
棚には、どこから来たのか分からない物が並んでいる。
あの女は、使用人のほうへ行った。
「すみません。ここに、本って来てませんか?」
使用人が、棚のほうを一度見た。
「本は……来ておりません」
「来てないそうです!」
「聞こえていますわ」
エレノアは、上の段から順に見ていく。
棚の下のほうから、古い匂いがする。
俺は鼻を近づけた。
いい匂いだ。
古い木と、古い布と、何かの干したもの。
もう少し奥。
くしゅ。
あの女が、振り向いた。
「クロちゃんも、探してくれてるんですね!」
違う。
匂いを嗅いでいるだけだ。
「先生は、ご自分のご用ですわ」
エレノアが、棚を見たまま言った。
……半分は、合っている。
「ご自分のご用って、何ですか?」
「さあ。先生のことは、先生にしか分かりませんもの」
分かっている。
干したものの匂いだ。
本は、なかった。
*
部屋へ戻った。
エレノアが、ため息をついて寝台に腰を下ろした。
そして、止まった。
寝台の脇に、本があった。
「…………」
「ありましたね!」
あの女が、手を叩いた。
エレノアは、黙って本を拾った。
表紙を見た。
表紙に、白と黒の毛がついている。
エレノアが、ゆっくりとこちらを見た。
俺は、窓のほうを見た。
知っていた。
朝、その上で寝ていた。
聞かれていない。
「……先生」
聞かれていない。
俺は、窓辺に戻って丸くなった。
*
日が傾いた。
「そろそろ、失礼します」
あの女が立ち上がった。
「今日は、帰りに間違えないようにしないと」
「何をですの」
「馬車です。よそのお屋敷だと、どれが自分の馬車か、分からなくなるんです」
「……ご自分の馬車を覚えればよろしいのでは?」
「それが、覚えられないんです」
どうやったら自分の馬車が分からなくなるのか。
分からない。
エレノアが、少しだけ黙った。
それから、立ち上がった。
「……こちらですわ」
「え?」
エレノアは、もう扉のほうへ歩いている。
あの女も立った。
リナも立った。
客を見送るのは、使用人の仕事だ。
こいつは、自分で先に立って歩いている。
暇だ。
俺も行く。
*
馬車が並んでいた。
裏手には、荷馬車も一台止まっている。
出入りの者が、袋を下ろしていた。
エレノアは、一台の馬車の前で足を止めた。
「こちらが――」
「あ」
あの女は、隣の馬を見ていた。
大きい。
「この子、こんにちは」
あの女は、馬の鼻先に手を出した。
「この子は、初めてです」
次の馬へ行く。
「この子は、前にも見ました」
次。
「この子も、前にも見ました」
次。
「この子も、前にも見ました」
次。
「この子は……初めて、かな」
次。
「この子は前にも見ました。たぶん」
厩の馬。
客の馬。
荷馬車の馬。
あの女は、全部に挨拶している。
エレノアは、途中から聞いていない。
馬丁が、こちらに気づいて頭を下げた。
俺は少し離れたところに座った。
馬が俺を見た。
俺も見た。
鼻息が来た。
俺は一歩下がった。
もう一頭も、俺を見た。
鼻息が来た。
もう一歩下がった。
下がる場所がなくなった。
「この子を覚えたほうが早くないですか?」
あの女が、最初の馬のところへ戻ってきた。
「馬車を覚えるのではありませんでしたの?」
「でも、この子なら顔があります」
「つなぐ馬は、日によって替わりますわ」
「えっ」
「じゃあ、どうやって覚えればいいんでしょう」
「ご自分の馬車を覚えなさい」
「それができないんです」
話が戻った。
*
「今日はありがとうございました!」
「気をつけてお帰りなさい」
馬車が出ていった。
荷馬車も、少しして出ていった。
馬の顔は、どれも同じに見える。




