最強の猫先生は、気づかない
庭に、鳥がいた。
植え込みの際で、何かをついばんでいる。
小さい。
茶色い。
丸い。
うまそうだ。
朝の魚は、今日も小さかった。
このままだそうだ。
ならば、自分で獲る。
猫は、そういうものだ。
俺は、低くなった。
耳を、前へ向ける。
ひげも、前へ向ける。
尻尾は、動かさない。
尻尾が動くと、ばれる。
そういうものだ。
一歩。
止まる。
鳥が、顔を上げた。
俺は石になった。
鳥が、またついばみ始めた。
庭師が、熊手を引きずって通っていく。
ざり。
ざり。
鳥は、逃げなかった。
庭師も、俺を見なかった。
見るな。
今は、俺も植え込みの一部だ。
……よし。
もう一歩。
*
門の外に、人が三人立っていた。
一人が、門のそばの使用人に声をかけた。
「猫、見られますか」
使用人は、困った顔をした。
「……そこからでしたら」
三人は、門の格子に顔を寄せた。
「どれだ」
「……あれじゃないか」
芝の上に、白黒の猫が一匹、低く伏せている。
「お嬢様が頭を下げる聖獣様、ってやつだろ」
「俺は、お嬢様が猫で気が触れたって聞いたぞ」
「どっちだよ」
「蔵の前に、お席まであるとか」
「蔵に?」
「……普通の猫だな」
*
門のほうが、少しうるさい。
どうでもいい。
鳥だ。
尻を上げる。
まだだ。
まだ。
鳥が、植え込みの奥へ一歩跳ねた。
遠くなった。
待て。
お前が動くな。
俺は、さらに低くなった。
腹が芝につく。
冷たい。
知らん。
鳥だ。
最強の矛だった俺が、腹を芝につけている。
誰も見ていない。
見ていないなら、いい。
*
植え込みのほうから、小さな鳥が飛び立った。
三人とも、それを目で追った。
庭に目を戻すと、猫はどこにもいなかった。
「……いないぞ」
「でも、見たぞ」
「見たな」
三人は、満足そうに帰っていった。
*
跳びかかった。
鳥は、もう上にいた。
俺は、植え込みの中にいた。
枝が、顔に刺さる。
葉が、頭に載る。
鳥は、蔵の屋根にとまった。
俺を見下ろしている。
降りてこい。
降りてこなかった。
屋根は高い。
矛なら、届く。
鳥一羽に、矛か。
……やめた。
腹が減るだけだ。
俺は、植え込みから出た。
門のそばの使用人が、こちらを見ていた。
目が合った。
使用人は、ゆっくりと門のほうを振り返り、それからまた俺を見た。
「……聖獣様が、見物の方々から、お姿をお隠しになった」
小さな声だった。
感心している。
違う。
鳥を追った。
外した。
それだけだ。
俺は、頭を振った。
葉は落ちなかった。
*
昼過ぎ。
蔵の前の、クッションの上。
鳥が、また蔵の屋根に来た。
さっきの奴だ。
顔で分かる。
……分からん。
鳥の顔は、どれも同じだ。
鳥は、屋根の端を行ったり来たりしている。
俺は、下から見ている。
鳥も、上から見ている。
どちらも、動かない。
日が当たる。
クッションは暖かい。
……今日のところは、見逃してやる。
俺は目を閉じた。
鳥が、どこかで鳴いた。
笑ったように聞こえた。
気のせいだ。
*
夕方。
エレノアの部屋で、俺は長椅子の端にいた。
頭には、まだ葉が載っている。
取れない。
エレノアが本から顔を上げた。
「先生、頭に――」
手が伸びてくる。
俺は首を引いた。
取られるのは、何か違う。
手が止まった。
「……そのままで、よろしいのね」
よろしくはない。
自分で取る。
そのうち。
扉が叩かれた。
使用人が来て、門の見物人のことを話した。
町の者が三人。
猫を見たいと言った。
格子越しに見て、帰っていった。
「……普通の猫だな、と申しておりました」
「普通の猫?」
エレノアの眉が上がった。
「先生に向かって? 失礼ですわね」
失礼ではない。
普通の猫だ。
「それで?」
「それで、帰りました」
「そう」
エレノアは、それだけ言った。
使用人は、まだ立っている。
口が、少し開いて、閉じた。
「……ほかにも、何か?」
「いえ、その……」
「言いなさい」
使用人は、目を伏せた。
「聖獣様を見た、と言う者と……」
「ええ」
「お嬢様が、その……猫で、気が触れた、と言う者が、おりまして」
部屋が静かになった。
リナが、手帳の上でペンを止めた。
俺は、葉を取ろうとして前脚を上げた。
届かない。
エレノアは、しばらく黙っていた。
前のこいつなら、ここで何かを投げている。
クッションか、扇か、怒鳴り声を。
エレノアは、何も投げなかった。
少しだけ考えて、言った。
「……どちらも、間違ってはいませんわね」
「お、お嬢様」
「門の方々は、追い払わなくてよろしいわ。ただし、中へはお通ししないこと」
「か、かしこまりました」
「……お通ししないのですか」
リナが聞いた。
「先生は、見せ物ではありませんもの」
そうだ。
……魚を持ってくるなら、見せてやらんこともない。
使用人は、頭を下げて出ていった。
リナが、ペンを動かした。
「門、見物の方、三名……」
書きながら、小さく読み上げている。
「お嬢様、お怒りにならず」
書くな、そんなこと。
「……何も、お投げにならず」
それも書くな。
間違っている。
俺は聖獣ではない。
こいつは、気が触れていない。
……少ししか。
エレノアが立ち上がって、長椅子のそばに来た。
かがんで、俺の頭から葉をつまみ上げた。
「先生。狩りは、いかがでした」
知らん。
聞くな。
エレノアは、指先の葉を見て、それから俺を見た。
口の端が、少しだけ上がった。
「一日中、これを載せていらしたの?」
知らん。
載っていたのは、知っていた。
エレノアは、葉を窓の外へ捨てた。
鳥は、今日も上にいた。




