最強の猫先生は、考えていない
蔵の前にいる。
扉は閉まっている。
この中に、干物がある。
前に、山ほど届いた魚の残りだ。
エレノアが「保存できるものは、蔵へ」と言って、入れた。
俺は見ていた。
忘れるものか。
扉の隙間から、かすかに匂いがする。
俺は座った。
朝の魚は、今日も小さい一匹だった。
昼は、ない。
間には、何も。
そういう決まりになっている。
決めたのはエレノアだ。
俺は決めていない。
だから、ここで待つ。
そのうち開く。
鳥が来た。
蔵の屋根にとまって、俺を見下ろした。
今日は、お前ではない。
鳥は、どこかへ行った。
昼が過ぎた。
誰も来ない。
日が傾いた。
影が伸びた。
腹が鳴った。
俺が鳴いたのではない。
腹が、勝手に鳴った。
扉は、開かなかった。
*
「ねえ。聖獣様、朝からずっと蔵の前にいらっしゃるの」
「お昼も?」
「お昼も。ぴくりともなさらないのよ」
「……瞑想、かしら」
「瞑想?」
「聖獣様ですもの。何かお考えになっているのよ」
「それとも、蔵をお守りになっているとか」
「蔵を? 何から?」
「さあ……」
*
二日目。
蔵の前にいる。
瞑想ではない。
魚だ。
守ってもいない。
開けろ。
年配の使用人が通りかかった。
俺の前で足を止め、扉を見て、俺を見た。
それから、深く頭を下げた。
礼はいらん。
鍵を持ってこい。
使用人は、何も言わずに去っていった。
昼過ぎ、若い使用人が来た。
前に、柱の陰から魚をくれた奴だ。
見込みのある奴だ。
手に、小さな包みを持っている。
匂いがする。
俺は腰を上げた。
若い使用人は、包みを差し出しかけて、止まった。
あたりを見た。
包みを見た。
「……お嬢様を、通さないと」
小さな声だった。
包みは、ポケットに戻っていった。
待て。
お前には見込みがあった。
若い使用人は、俺に頭を下げて、足早に去っていった。
見込みは、なかった。
扉は、開かなかった。
*
三日目。
足音がした。
エレノアが来た。
リナも一緒だ。
「今日で、三日目です」
リナが言った。
「朝から、日が落ちるまで、でございます」
「……三日とも?」
「三日とも」
エレノアが、俺の横に立った。
俺は扉を見ていた。
「……先生、お魚のことしか考えていませんわね」
ほかに何を考える。
「……保存食ですもの」
「いざというときのためのものですわ」
今だ。
今が、いざというときだ。
開けないのか。
開けないらしい。
廊下のほうから、誰かがリナを呼んだ。
リナが行って、戻ってきた。
何か抱えている。
四角い。
厚い。
「お嬢様。こちらは、どういたしましょう」
「……何ですの、それは」
「聖獣様へのお供えだそうです」
「食べ物ではありませんわね」
食べ物ではないのか。
帰れ。
「お嬢様がお決めになることになっておりますので」
教会が、そう決めた。
俺に来るものは、まずエレノアのところへ行く。
魚でなくても、行くらしい。
エレノアが、それを見た。
俺を見た。
扉を見た。
また、俺を見た。
「……お使いになるかしら」
知らん。
俺は扉を見ている。
「……ここへ」
「ここ、と申しますと」
「ここですわ」
エレノアが、蔵の前の石を指した。
俺の、すぐ横だ。
「外に、でございますか」
「先生は、そこにいらっしゃいますもの」
リナは少しだけ黙って、それから石の上にそれを置いた。
手帳を開いて、何か書いた。
「お供え、設置。……成立」
成立するな。
俺は、扉を見た。
クッションを見た。
乗った。
柔らかい。
石の冷たさが、上がってこない。
日も当たっている。
……悪くない。
ここから動かない理由が、一つ増えた。
「先生、お気に召しまして?」
気に召してはいない。
乗っているだけだ。
俺は目を閉じた。
エレノアは、しばらくそこに立っていた。
「……待つのも、修行ですものね」
小さな声だった。
修行ではない。
干物だ。
開くまで、ここにいるだけだ。
エレノアは、それから戻っていった。
リナが、黙ってついていく。
*
「蔵の前に、聖獣様の御座所ができたんですって」
「お嬢様が、ご自分でお決めになったそうよ」
「外に置きなさい、っておっしゃったんですって」
「外に? 聖獣様のお席を?」
「では、あの蔵の中には……」
「何か、尊いものが」
「……昔の聖遺物とか」
「しっ」
*
中身は、干物だ。
何日か過ぎた。
蔵の前を通る者が、少しずつ頭を下げていくようになった。
扉は、開かない。
その日の昼。
敵が来た。
この男は、前にも来た。
魚を減らせと言った男だ。
あの日から、俺の魚は小さい。
クッションの上で寝ていたところを、抱え上げられた。
部屋へ運ばれる。
男の手が、俺の体に触れている。
腹。
背中。
また、腹。
触るな。
「お食事は」
「朝と夕に、決まった分を。間には、何も」
エレノアが答えた。
何も、のところだけ、少し声が大きい。
「運動は」
「朝に、猫じゃらしを」
付き合ってやっているだけだ。
手が離れた。
男が、鞄を閉じた。
「お嬢様の管理が、よろしいのでしょう」
「先生のお教えですわ」
エレノアが、すまして言った。
「己を律せよ、と」
言っていない。
毛づくろいをしていただけだ。
「……はあ」
男は、俺を見た。
俺も、男を見た。
この男だけは、分かっている顔をしていた。
「もう、問題ありませんね」
……終わりか。
終わったのか。
ならば、魚が戻る。
昼の分も戻る。
蔵も開く。
干物だ。
俺は立ち上がった。
尻尾も立った。
「……このままで、よろしいのね?」
「はい」
俺は、立ったままだった。
このまま。
このまま、とは何だ。
エレノアが俺を見下ろして、小さくうなずいた。
先生のためにそう決めた、という顔をしている。
俺には、そう見える。
見えるだけだ。
俺は、座った。
エレノアがかがんで、俺を抱き上げた。
「では先生、お戻りになりましょう」
どこへだ。
エレノアは、廊下を抜けて、裏手へ出た。
蔵の前で、俺を下ろした。
クッションの上だった。
……そこへ戻すのか。
知っているのか。
エレノアは何も言わずに、屋敷へ戻っていった。
*
夕方。
蔵の前。
クッションの上。
扉は、開かない。
クッションは、暖かい。
このまま。
……このままでも、いいか。
いや。
よくない。
魚を寄越せ。




