最強の猫先生は、手袋をしない
手袋職人が来た。
革の匂いがする。
魚の匂いではない。
俺には関係がない。
エレノアは椅子に座り、机の上に並べられた手袋を見ている。
リナは、その少し後ろだ。
「聖獣様」
職人が俺に頭を下げた。
頭を下げるなら、魚を持ってこい。
俺は長椅子の端で目を閉じた。
「こちらは、前のものより指先を少し詰めております」
エレノアが手袋をはめた。
指を伸ばす。
曲げる。
俺も、前脚を伸ばした。
爪が出た。
しまった。
「まだ少し余りますわね」
「では、こちらを」
別の手袋が出てきた。
エレノアは最初の手袋を外し、机の端に置いた。
白い。
細長い。
俺は前脚を入れた。
……入った。
思ったより、入った。
奥まで、入った。
「ところで」
職人の声がした。
「先日、ある商会の方から、妙なことを尋ねられまして」
「商会?」
職人が名を言った。
聞いたことのない名前だ。
名前は食えない。
エレノアは何も言わなかった。
リナが手帳を開いた。
俺は前脚を上げた。
手袋も上がった。
下ろした。
手袋も下がった。
邪魔だ。
これは、俺の前脚だ。
今は、手袋だ。
「公爵閣下は、お屋敷にいらっしゃることが多いのか、と」
エレノアの手が止まった。
エレノアは、しばらく職人を見ていた。
「……商品の話では、ありませんわね」
手袋を振った。
取れない。
「それで、何とお答えに?」
「存じません、と申し上げました」
「客先のことでございますので。一応、お耳に入れておいたほうがよいかと」
「……ご苦労でしたわね」
ご苦労なのは、俺の前脚だ。
職人がもう一度、頭を下げた。
エレノアは俺の前脚を取った。
手袋を引く。
抜けた。
職人は見ていない。
見ないふりをしている。
賢い。
「では、続きを」
「はい」
次の手袋が差し出された。
エレノアが手を入れる。
職人が指先を確かめた。
「こちらはいかがでしょう」
エレノアは指を曲げた。
少し開いて、また閉じる。
「……分かりませんわね」
職人の手が止まった。
エレノアは手袋を見た。
「手袋のことではありませんわ」
「……失礼いたしました」
また指を曲げる。
「こちらにいたしますわ」
「ありがとうございます」
職人が手袋を箱へ戻していった。
俺は前脚を振った。
何もついていない。
これでいい。
*
職人が帰った。
エレノアが、玄関まで見送りに出た。
机の上に、白いものが一つ残っていた。
手袋だ。
片方だけ。
職人が、箱に戻し忘れたらしい。
白い。
細長い。
……入る。
前に、入った。
俺は机に乗った。
前脚を入れた。
入った。
抜こうとした。
抜けない。
前より、きつい。
振った。
手袋も振れた。
この手袋は、指先が詰めてある。
さっき、職人がそう言っていた。
詰めるな。
噛んだ。
革だ。
まずい。
もう一度、振った。
机の端の、インク壺が揺れた。
止まった。
インクは、もうこりごりだ。
手袋をはめたまま、机の上を歩いた。
ぽふ。
ぽふ。
音が違う。
……悪くない。
戸口のほうで、足音がした。
俺は、前脚を背中に隠そうとした。
隠れなかった。
「先生」
エレノアが、戸口から戻ってきた。
俺を見た。
手袋を見た。
「……また、ですの」
また、だ。
「先生、手袋がお気に召しましたの?」
召していない。
抜けないだけだ。
エレノアは椅子に座り、俺の前脚を取った。
手袋の先をつまむ。
引く。
抜けない。
「……詰めてありますものね」
知っている。
エレノアは、もう一度引いた。
ゆっくり。
指が、途中で止まった。
「……お屋敷にいらっしゃることが、多いのか」
小さな声だった。
俺に言ったのではない。
手袋に言ったのでもない。
知らん。
抜け。
「リナ」
「はい」
「お父様は、今、どちらに」
「……伺っておりません」
リナが、少しだけ首を傾げた。
「そう」
エレノアは、手袋の先を見たまま言った。
「私も、ですわ」
父親の居場所を、娘が知らない。
猫も、知らない。
この家では、それで話が済むらしい。
指が、また動いた。
手袋が、抜けた。
前脚が、すうすうする。
自由だ。
手袋のない前脚は、いい。
「これは、明日お返しして」
「かしこまりました」
リナが手袋を受け取った。
手帳を開いた。
「手袋、片方。……聖獣様の前脚、入り」
書くな。
「本日、二度目」
数えるな。
リナは、手帳を閉じた。
エレノアは、窓の外を見ていた。
しばらく、見ていた。
窓の外には、何もない。
鳥もいない。
何を見ている。
知らん。
エレノアが、こちらを向いた。
「先生」
何だ。
「手袋は、もうおやめになって」
やめる。
……たぶん。
俺は、前脚を舐めた。
革の味がする。
魚の味は、しない。




