最強の猫先生は、字を書かない
トーマが来た。
リナの弟だ。
前に見たときより、少しだけ背が伸びている気がする。
右手には、紙の束を持っていた。
前に巻いていた包帯は、もうない。
それと、木の匂いがした。
「こ、公爵令嬢様。お久しぶりでございます」
「ええ」
エレノアは答えた。
トーマは頭を下げた。
前ほど固くはない。
たぶん。
俺は長椅子の上で丸くなった。
今日は暖かい。
寝るにはいい日だ。
「それは何ですの?」
エレノアが聞いた。
トーマが、手にしていた紙を見た。
「あ……仕事の、書付です」
「書付?」
「はい。親方から、注文の控えくらい、一人で書けるようになれ、と……」
エレノアが手を出した。
トーマが紙を渡す。
読む気はない。
だが。
ずいぶん散らかっている。
紙のあちこちに、黒い線が飛んでいた。
「……これは」
エレノアの眉が寄った。
トーマの肩が少し上がった。
「『椅子、脚、三』……椅子の脚が三本ですの? 椅子が三脚ですの?」
「……椅子が三脚で、脚を一本ずつ直して……」
「書いてありませんわ」
「す、すみません」
「なぜあなたが謝るのです」
「え」
「私に提出するものではないのでしょう?」
「あ……はい」
エレノアはもう一度、紙を見た。
「まず、依頼した方のお名前が必要ですわ。それから品物と数量。どのような仕事なのかも明記して、材料についても――ああ、期日がここではいけません。最初に整理して、それから――」
「はい」
「ですから、こちらを先にして――」
「はい」
「その下に、こちらを――」
「はい」
分かっていない顔だ。
エレノアが止まった。
「……分かりましたの?」
「はい」
「では、書いてみなさい」
「はい」
トーマが机に向かった。
紙を置く。
ペンを持つ。
止まった。
エレノアが見ている。
トーマも紙を見ている。
ペンは動かない。
「……なぜ書きませんの?」
「ええと……」
「今、説明したでしょう?」
「はい」
「では」
「……」
エレノアの眉が、また寄った。
「……なぜ分かりませんの?」
知らん。
俺は目を閉じた。
しばらくして、視線を感じた。
片目を開ける。
エレノアがこちらを見ていた。
何だ。
眠い。
エレノアは何も言わなかった。
またトーマを見る。
「……これを読むのは、どなた?」
「親方です」
「親方は、何を知りたいの?」
トーマは考えた。
「……ちゃんと仕事をしていること、でしょうか」
「…………」
エレノアが黙った。
トーマも黙った。
俺も黙った。
眠いからだ。
「……では」
エレノアが言った。
「親方は、これを読んだあと、何をなさるの?」
「え?」
トーマは自分の紙を見る。
「……材料を、揃えます」
エレノアは何も言わなかった。
トーマが、最初の紙と新しい紙を見比べた。
「……何を、いくつ。いつまでに……」
ペンが動いた。
今度は止まらなかった。
エレノアは横から見ている。
口が少し動いた。
「そこは――」
止まった。
トーマは書き続ける。
エレノアの指が一度上がった。
下がった。
また上がった。
トーマは気づかない。
とうとうエレノアの指が、紙の一箇所を指した。
「……そこ」
「あ」
トーマが書き直した。
しばらくして、ペンが置かれた。
最初の紙よりは、ずいぶん静かになっている。
中身は知らんが。
エレノアが紙を見る。
上から下まで見て、少しだけ顎を上げた。
「……先ほどよりは、書付らしくなりましたわね」
「ありがとうございます」
トーマが笑った。
それから、こちらを見た。
「……クロ様は、字を書けるのですか?」
俺か。
書けん。
読むだけなら、読める。
肉球だぞ。
「先生ならば、もちろん――」
エレノアが止まった。
俺を見る。
前脚を見る。
「…………」
何だ。
トーマも俺の前脚を見た。
何なんだ。
「リナ」
「はい」
「紙とインクを」
なぜそうなる。
しばらくして、俺の前に紙が置かれた。
その横にインクがある。
二人とも俺を見ている。
知らん。
俺は降りることにした。
「あっ」
前脚に何か冷たいものがついた。
そのまま紙を踏んだ。
ぽん。
黒い跡がついた。
トーマがのぞき込む。
「……聖獣様の、ご署名……」
トーマが、紙の前で背筋を伸ばした。
「足跡ですわ」
エレノアが言った。
そうだ。
足跡だ。
……こいつと意見が合うのは、珍しい。
「では、クロ様も字は苦手なのですね」
苦手ではない。
必要がないだけだ。
俺は猫だ。




