王の決断
玉座の間は、静かだった。
高窓から落ちる光が大理石の床を細く裂く。その上を歩くリリアの靴音だけが、薄い音を引きながら玉座へと伸びていく。心臓は一拍、二拍と重く鳴り、最上段に辿り着く頃には、声が震えぬよう、喉を極限まで閉じていた。
聖王都へ戻ってきたはずなのに、肺にまだあの遺跡の空気が残っている気がした。ヴァレンタインの最後の言葉。仲間たちの声。そしてあの“言葉”。全てが重りとなって胸の底に沈んでいた。
いけない、とリリアは顔を上げる。
玉座には聖王アルセリア13世が静かに座していた。細い金冠を戴き、姿勢は真っ直ぐ。瞳は深く、智慧が力を制すると疑わぬ者の目だった。
「リリア・ベルク。神罰の遺跡における遭遇の件、報告に参りました」
リリアは膝をつき、額を床に落とす。声が震えぬよう、舌の裏をそっと噛んだ。
「ご苦労だったな。顔を上げよ」
低く柔らかな声からは恐れではなく、受け止める意志の響きを感じた。リリアが顔を上げると、聖王の瞳は逃さず、しかし責めずに彼女を見つめていた。
「お前の見たものを順に。憶測は後でよい。事実だけを話せ」
リリアは息を整え、ひねり出すように語った。遺跡を包むねじれた風。消えた鳥。黒い影と言葉。次々と押し寄せた暴力の波。そして、ヴァレンタインの最期の判断。
それに聖王は一度も言葉を挟まない。ただ時折頷き、侍従が横で記録を取る音だけが淡く響く。
報告が尽きた。 数拍の静寂。聖王はゆっくりと目を閉じ、息を吐いた。
「…ヴァレンタインは帰らぬな」
言葉の表面とは裏腹に冷たさのない声。そこには静かな敬意があった。その穏やかさが逆に、リリアの胸を抉った。抑えてきた涙が、こぼれた。喉が震え、言葉が砕けそうになる。リリアは歯の裏でそれを押し潰すように飲み込み、息を吸い直した。
「副団長は…私に“次の勝ちのために持ち帰れ”と」
「うむ。ヴァレンタインは勝ちの意味を取り違える男ではない」
聖王は、玉座から立ち上がらずに決断した。
「聖騎士団全軍を北方へ。総動員。聖王都の守備は第三兵団のみ残し、残余すべてを遺跡へ回す。危険度は最大。制圧と観測、そして撤退路の確保に同等の重きを置け。……以上!」
リリアは思わず顔を上げた。
「お、王都守備は第三兵団だけで……?」
言いかけたリリアへ、聖王は静かに視線を返した。
「危険度は最大とする。王都の守りは…いまは二の次だ」
その瞳に迷いはなかった。国家の重みと未来を両の秤に乗せ、揺るぎなく決めた者の目。
その決断は、国力で勝る近隣諸国にもない速さだった。迷わない。迷う時間が、もっとも多くの命を奪うと知っている者の判断だった。
しかし、そんなアルセリア13世とのやり取りの中、リリアには一瞬だけ感じられた。王の心のどこかが、キリ、と音を立てて軋んだことを。
(…聖王様、日常を差し出されるのですね…)
リリアは頬の内側を噛み、黙って頷いた。
「リリア・ベルク!」
「はっ!」
「剣聖リオネル・ファーレンハイトの側で動け。ヴァレンタインの意思を継ぎ、次の勝ちに繋げよ」
***
謁見の間を出てすぐ、聖騎士団の軍議が開かれた。
地図卓には北方の街道、河川、森と山脈。
そして赤墨で記された“遺跡”。
軍師たちは駒を置きながら、短い言葉で状況を積み上げていく。
「フェルドランの冒険者組合には打診済み。だが派遣は最短でも十日後だ」
「ズィルヴァリアとの紛争が響いている。即応は難しいだろう」
「陛下は至急とのご判断だ。十日は待てぬ」
「ならば自軍のみで対処するしかあるまい」
議論は自然と収束していく。
「敵は一体。報告の通りなら、前衛三列で押し立て、治癒班を中央に――」
そこで、一人の軍師が言葉を差し込んだ。
「だが、副団長の評価では……敵はドラゴンと同格だ」
空気がわずかに揺れる。
「過大ではないか?」
「単独個体でドラゴン級など――」
視線が集まる。
リリアは、静かに一歩前へ出た。
「過大ではありません」
短く、はっきりと。
「副団長は実際に剣を交え、その上で判断しています」
若い軍師が眉を寄せる。
「リリア殿。君の報告の精度は理解している。しかし――」
「恐怖による誤認、ということか」
別の軍師が補足する。
リリアは首を振った。
「いいえ。副団長は恐怖では判断を誤りません」
一拍。
「退くべき場で退き、次に勝つために判断した結果です」
その言葉に、場の温度がわずかに変わる。
――そのとき。
「そこでやめておけ」
低く、澄んだ声が割って入った。
それだけで、場が静まる。
卓の中央に座していた男が立ち上がる。
剣聖リオネル。
無駄のない動きで、地図の前へ歩み出る。
一度だけ、リリアを見る。
「……いい報告だ」
それだけで十分だった。
リオネルは視線を地図へ落とす。
「前提を置く。敵はドラゴン級」
誰も異を挟まない。
「正面は取らない。受ければ砕かれる。
前衛は“受ける”のではなく、“逸らせ”」
指が地図をなぞる。
「斜線で削る。動きを止めるな。
隙は必ず生まれる」
その一点を、静かに叩く。
「そこを私が斬る」
簡潔で、無駄がない。
それで戦術は成立していた。
軍師たちが息を呑む。
別の一人が、なおも慎重に問う。
「しかし……本当にドラゴンと同等であるならば――」
「ヴァレンタインは誤らない」
リオネルの声は静かだった。
だが、それで十分だった。
「私が剣なら、あいつは目だ。
その目が見たものを、疑う理由はない」
一瞬の沈黙。
「討てると判断したなら、討つ。
退くと判断したなら、それもまた勝ちだ」
リリアの胸の奥が、熱を帯びる。
(この人は……拾ってくれる)
副団長の残した判断を、まっすぐに。
リオネルが顔を上げる。
「ベルク」
「は、はい!」
「私の左後方三歩につけ。
見たものを、そのまま渡せ。余計な解釈はいらない」
「……了解です!」
「出撃は明夜。各自、備えよ」
それで軍議は終わった。
迷いは、どこにもなかった。
***
軍議が散じたころ、廊下には夕光が差していた。
リリアはその足で、大聖堂の祈りの間へ向かった。
聖油の匂い。柔らかな光。
「リリア……?」
振り向くと、メリナがいた。
顔を見た瞬間、すべてを察したように、目を細める。
「メリナ……副団長が……」
言葉が続かない。
メリナは何も聞かなかった。
ただ、静かに抱き寄せる。
「いいよ。言わなくて」
それだけでよかった。
リリアの肩が震える。
押し殺していたものが、あふれる。
メリナは何も言わず、ただ支え続けた。
大聖堂には、かすかな嗚咽だけが残った。
【次の話】
第7話「黒鉄の狂宴」
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