神罰の遺跡
空が裂けていた。
裂け目の向こうに出現していたのは、黒曜石にも似た艶を放つ巨大構造物だった。
壁面には見たこともない幾何紋が浮沈し、ときおり青白い光が表皮を走る。
光は飾りではなく脈だ。規則がある。生き物の呼吸のように、間合いがある。
丘の上、部隊の先頭に、風を裂いて立つ二つの影が並ぶ。
【氷刃】ヴァレンタイン・クローバー。
そして、その左後方に控える新兵、リリア・ベルク。
リリアは、遺跡を見下ろした。
幼さの名残が消えない顔立ちの奥で、眼差しだけが鋭い。新兵であるリリアがヴァレンタインの横に並ぶのには、彼女の『観察眼』が理由だ。
騎士団訓練校を首席で卒業した彼女は、聖王国史上最高と呼ばれる『観察眼』を有している。今回の作戦は未知なるものとの会敵。情報が鍵を握る。だからこそ、彼女の目が必要だった。
「……近づくほどに、風が重くなります」
リリアは外套の留め金を指で押さえた。
草の匂いに混じって、金属が雨に濡れたような匂いが鼻を刺す。風の音は素直じゃない。どこか歪に鼓膜を揺らした。
彼女は目を細める。遺跡周辺に点在する人影。動きはない。
時間が止まったように。
「遺跡周辺に複数の人影。……動きはありません。先遣隊かと」
ヴァレンタインは視線を落とさずに言った。
「明らかに空気が乱れている。音も曲がり、匂いが騒ぐ。……やはりあれは“在ってはならないもの”なのだろう」
先遣の三十名は連絡を絶ち、聖都まで生還したのはただ一人。
彼は決死の覚悟で聖都へ辿り着き、恐怖を持ち帰り、言葉を遺して死んだ。
ヴァレンタインは低く呟く。
「……ナムサン。ショギョウムジョウ」
意味のない音にしたくなかった。
だが、意味を与えるには情報が足りない。足りないまま前へ出るしかない。
「古代碑文にも該当がない。……そして、その言葉を叫ぶ謎の『巨人』の存在」
「……オーガでしょうか。しかし、魔物が言葉を使うとは……」
「報告では、オーガ並みの巨体とまでしかわからない。巨人は、素手で騎士を叩き潰し、笑いながら踊っていた、と」
巨人は踊っていた。その言葉にリリアは目線を下に切った。
悔しさか恐怖か、判断のつかない感情を押し殺すように唇を噛む。
踊っていた――その事実は重い。重すぎる。
「戦を『愉しむ者』の所作だ」
ヴァレンタインの声は冷たい。
「最も敵にしたくはない相手だ」
風が遺跡の角を啼かせた。
ヒュウ、と低い笛鳴りが草原を這い、陣の旗をぱたぱたと震わせる。
遠見の兵が叫ぶ。
「鳥が……消えました!」
遺跡上空を掠めた黒燕の群れが、影のようにすっと薄れ、次の刹那には空気に溶けた。
戻ってこない。羽音も、死骸も、何も残らない。
リリアは無意識に胸元のペンダントに触れた。
訓練学校で暗唱した聖典の一節が自然と口をつく。
(天より棺降り、理を壊す者現るとき――祈りは試される)
この場にぴたりと嵌まる言葉。
だが、彼女の手は祈りではなく剣へ伸びる。
彼女はこう学んだ。祈りは剣を導く。
そして、聖騎士は剣であれと。聖王の唯一の剣であれと。
「リリア」
ヴァレンタインの声に、彼女は背筋を伸ばす。
「はい」
「怖いか」
「はい。ですが、退く理由にはなりません」
「よろしい」
ヴァレンタインは頷き、地図板に指を走らせる。羊皮の上に木炭で素描した遺跡周辺図。
声量は大きくない。だが通る声で、的確に指示が落ちる。
「ここからは三つに分かれる。第一と第二は右翼左翼に分かれ、接近して周辺調査。可能なら外壁素材の採取」
「……第三は」
「第三分隊は私と共に正面から盾の構えを保ち、先遣隊が戦闘した区域まで向かう。……リリアと私は相手の『声』を探る」
「『声』…?」
「あれはただの遺跡ではない。あれは息をしている。何かを呼び、何かに応えている。言葉を持たない存在かもしれないが、対話の試みは必要だ」
リリアは思わず上官を見た。
聖王国の近代史に名を刻むであろう偉人。その背中を追いかけたくて、彼女は聖騎士に志願した。
その偉人と共に戦える喜びよりも今は不安が勝っていた。得体の知れない大きな不安が。
前を見据えるヴァレンタインの手には、聖王からの命が記された書が握られていた。
『調査し 敵は封じよ 不能なれば 滅せよ』
短い言葉に、筆致は強く、揺れない。
夜のうちに決まり、朝に出て、夕方にはここにいる――この国は、迷う暇を自分に与えない。
陣では手早く準備が進む。鋲打ちの革籠手に補強を増し、盾の縁金を仮止めし、樹脂の香りが鼻をくすぐる。
魔導測定器の水銀柱は脈を打つように上下し、祈祷師たちが淡い聖油を刃に塗り込める。
馬の鼻息が白く、各班長が短く合図を交わすたび、鎧の留め具がわずかに鳴った。
伝令が駆け寄る。
「両翼展開が完了しました。副団長の動きに合わせて両翼動きます」
「よし。両翼、補給して持たせろ。敵影が確認されたら、できるだけ交戦は避けよ」
ヴァレンタインは細部まで指示を飛ばし、ふと空を見上げた。
薄雲の切れ間に、早い星が走った。
遠くから眺めた時とは違い、それは明らかだった。
(やはり、星の並びがズレている…!)
リリアは空に浮かぶズレを、昨日の夜明け前と重ねる。
近くで見てわかった。まるで遺跡の上一帯の空がそのまま切り取られたように、頭上に本来輝くはずの星々の姿が見当たらなかった。
リリアはヴァレンタインに問う。
「もし、名前の通りの『神罰』であるなら。私たちは赦しを乞うべきでしょうか。剣を取るべきでしょうか」
ヴァレンタインは短く考え、静かに答えた。
「私たちは聖王様の剣。剣を振るうのは聖王様だ。役目を違えるな」
「はい」
リリアは短く頷いた。
***
第三分隊が先遣隊の戦場跡へ足を踏み入れた、そのときだった。
神罰の遺跡――その腹が、ぼう、と淡く脈動した。
外皮の光紋が同調し、平原の空気が一瞬だけ逆流する。
遠見の兵が叫ぶ。
「音です! なにか……言葉のような……!」
風が運ぶ。
確かに、耳には聞き慣れぬ節回し。それは獣の咆哮ではない。人が人に向かって投げる、乱暴な言葉の響き。確かな意思を持った言葉。
陣にざわめきが走った。祈祷師は聖典を抱き、騎士の何人かは剣の柄を強く握る。
盾持ちたちの両脚は強く大地を踏みしめる。
リリアは呑み込んでいた唾をそっと喉に戻し、呼吸を整えた。
(聖語でもない。古代語でもない。でも、言葉だ。強い意志を持った言葉だ)
ヴァレンタインは静かに鞘から剣を抜き、一言だけ、いつも通りの声で言った。
「ヴァレンタイン・クローバー、参る」
合図の角笛が、冷たい空気を裂いた。
号令に合わせ、行軍列が滑るように動き出す。旗が翻り、馬蹄が土を打つ。
祈りの言葉が短く唱えられ、油を塗った鎧が月光を跳ね返す。金属がぶつかり合う粗雑な音と、聖騎士たちの声。
リリアは小さく息を吐き、前を向いた。
ヴァレンタインの後方三歩にぴったりとつく。
遺跡が深く呼吸をしたような気がした。
あたりに響く奇怪な言葉は、彼らの耳に張り付いていた。
「……ナムサン! ショギョウムジョウ……」
この時点では誰も知らない。わからない。
それがこの世界の言葉ではなく、遠い宇宙から転がり込んだ狂人の口癖だということを。
そして、その狂人たちのただの思いつきが、この国にとっての厄災となることを。
隊が掲げていた聖王国の旗は、黒い塔の影へと飲み込まれていった。
胸の奥で何かが縮む。リリアは再び無意識に胸の聖印に触れ、短く祈りを結んだ。
祈りは風に解け、星へ届かず、空へと散った。
「全隊、気を引き締めろ」
ヴァレンタインの声が周りに響いた。
常に冷静に戦況を見定め、最適な決断を下す【氷刃】。そんな百戦錬磨の男ですら、内側に見えない糸が張られているのが分かった。
「リリア、目を使え。見たものを声に変えろ」
「はい」
膝裏の筋がわずかに震える。深呼吸を一つ、二つ。掌が汗で湿って、籠手の内側が冷たい。心臓が熱い。
遺跡の前の何もない平地。そこが突如、膨らんだ。
いや、正確には膨らんだように見えた。月明かりの薄皮を押し上げるように、黒い塊がゆっくりと起き上がる。
魔物か。
動物か。
違う。
肩があり、腕があり、歩幅があった。そこには明らかに高度生命体の意思が内在している。
空気を切り裂くように、見えない影の先に黒い笑顔が見えた気がした。
「敵、来ます……!」
ひねり出したリリアの声は、思っていたより落ち着いていた。視界の端で、ヴァレンタインが剣の柄に親指をかけ、わずかに鞘を押し上げる。
「弓、第一射準備。……合図で放て」
こちらを認識した影はすぐに行動に移った。草原の波が巻き上がり、土が爆ぜる音が遅れてくる。あたり一面砂煙にまかれる。肉眼で確認することは困難だが、確実に気配は大きくなる。
迫りくる巨大な影が、こちらへ真っ直ぐに!大地がねじれ、風が道を開けた。
リリアの耳にあの言葉が刺さった。
「…ナムサン…ショギョウムジョウ…!」
(これは言葉だ。私たちが知らない言葉だ。動物のそれとは明らかに違う。明確な意思がそこにはある!)
それは笑いの調子を帯びた、乱暴な響き。その響きをかき消すかのようにヴァレンタインが指示を出した。疾風のように矢が鳴り、光の矢束が影に吸い込まれるように放たれた。矢の嵐による攻撃。「倒したか?」という期待が一瞬にして戦列を駆け巡った。
だが、期待とは裏腹に、巨影はまったく止まらない。矢は弾かれたのか、逸れたのか、見届ける暇もなく、影は隊列の最前線まで迫っていた。
土煙の向こうから、拳が飛んだ。正確には誰も見届けることはできなかったが、それは確かに拳であると誰もが確信した。
音が追い越してくる。前列の盾が弾け、男が二人、糸の切れた人形のように宙を舞った。直撃はしていないはずなのに、拳の衝撃が隊列全体に染み込む。軋む鎧の音がそれを物語る。
リリアは踏み込み、刃を斜めに立てて衝撃を逃がす。鉄と骨の擦れる鈍い感触。腕に痺れが走り、足元の土が沈む。
(なんて重さなの!?これは“人”の重さじゃない)
隊列全員に戦慄が走る中、氷刃は冷静だった。隊列が乱れる中、一人影に向かって駆ける。
空気を切る音。火花。鉄臭い風。それらが同時に辺りに舞った。
ヴァレンタインの打ち込んだ剣の先、そして、巨影の体表から、皮膚とは思えぬ硬さが伝わる。
リリアは我に返り、ヴァレンタインの後方3歩につく。見て、声に変える。リリアの仕事は、見ること。そして、見たものを「状態/指示」のかたちで、剣を振るう人間に渡すこと。
「重心右、崩れ/左薙ぎ払い」
指示を聞き、ヴァレンタインは寸分違わぬ薙ぎ払いを影にぶつける。攻撃は弾かれる。影からの攻撃がヴァレンタインを襲う。
「重心さらに右/左に3歩後退」
おそらく直撃をしていたら絶命を免れないであろう暴力をかわし…。
「重心右のまま/左振り下ろし」
ヴァレンタインは剣をふるった。リリアは足の指で土を掴むようにして、半歩、半歩…。ヴァレンタインにつかず離れず、目を声に変えた。
ヴァレンタインの刃は通っていた。だが、効いていない。切断の手応えがまったくない。まるで大岩に剣を打ち付けているような感覚。
リリアの力で、放たれた拳はすべてかわしていた。だが、彼は気が付いてしまった。
直撃は免れている。だが、その余波が確実に自分の命を蝕んでいるという事実に。
対して、巨影は笑い、踊る。息をするたび、熱い鉄の匂いが胸を刺し、月光に白い蒸気が立つ。そして、あの言葉が再び、影の奥で弾ける。
「…ナムサン! ショギョウムジョウ、ダゼ!」
(“ダゼ”?“だぜ”?意味は取れない。だが、愉悦の抑揚だ!楽しんでいる者の音だ!)
リリアは唇をかみしめる。そして、ヴァレンタインが、一拍だけ動きを止め、下がる。刃の手ごたえ、相手の筋肉・体幹、踏み砕かれる地面の硬度、跳ね返る衝撃の質。この戦場の全てを、一息で咀嚼した。そして短く、リリアにだけに聞こえる声で言った。
「リリア、奴はドラゴンだと思え」
その言葉に背中の汗が冷える。
ドラゴン――それは天災。相手をするには、武力ではなく、軍事力を必要とする存在。全生態系の頂点であり、破壊そのもの。かつてこの地に現れたドラゴン1頭に対して、聖王国は百人規模の犠牲を支払った。
(それが本当なら、私たちでは、全滅だ…)
次の瞬間、ヴァレンタインが何かを覚悟したように静かに言った。
「リリア、聞け」
「は、はい」
「これより、お前の生還を最優先とする。合図したら―退け。二度は言わん」
「し、しかし、副団長―」
「持ち帰れ、次の勝ちのために」
目が合う。氷の刃のような眼差し。なのに、不思議と温かい火が底で燃えている。リリアはすべてを悟った。悟ってしまった。
巨影が一歩、踏み込む。大地が低く沈み、音は遠雷のように唸った。一歩踏み出してくるたびに、影の奥からジャラジャラとした遺物音が耳を奪う。
「弓、間断なく射撃!祈祷師、エンチャントを施せ!盾、構え!」
ヴァレンタインの指揮は淀みない。この混沌の只中で、最短で私を生かす線だけが無駄なく引かれていく。
「全体、リリア・ベルクの帰還を第一優先に置く!」
ヴァレンタインの言葉、そしてそれを受け入れる部隊に一切の動揺はなかった。それだけ彼らは深い信頼で繋がれている。幾度も死線を潜り抜けてきた経験が、理解までの時間を限りなくゼロにした。
リリアは歯を食いしばった。それでも、命令は命令だった。
部隊とは逆方向へ走る。
すれ違う騎士たちの顔を、見ることができなかった。
見てしまえば、足が止まる。
足が止まれば、ヴァレンタインの命令が死ぬ。
「頼んだぞ、リリア――」
誰かの声が背中に刺さる。
彼女は返事をしなかった。
返事をする代わりに、走った。
一瞬だけヴァレンタインは目を閉じた。かつて戦いの中で自分を守り散っていった同志に思いを向けた。
(友よ…あの時の借りをいま返す…!)
ヴァレンタインが剣を構える。
対して、巨影が笑う。
ヴァレンタインの刃が夜を割り、巨影の目に光を叩きつける。
衝撃音が走る。それがリリアの心に鞭を振るった。後ろで続く、鉄と骨がぶつかる大きな音。誰かが叫ぶ。祈祷の節が上がり、矢の雨が再び唸る。破裂音、絶叫、次第に戦場音は恐怖をはらんでいく。振り返りたい衝動が、喉までせり上がる。
(だめだ。見るな。絶対に持ち帰るんだ!)
足元の草が泣き、森が口を開ける。走った。
森の奥にたどり着いたころ、音はすっかりなくなっていた。戦いは終わった。終わってしまった。それが意味することは分かっていた。
背後で、あの声が風を裂いた。
「ナムサンッ!…ショギョウムジョウダゼ…!」
リリアは下唇をかみしめ、走り続けた。聖都へと持ち帰るために。
【次の話】
第6話「王の決断」
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