二千一年目の空
未来が、見えなかった。
レオナルトは瞬きをした。目の奥が痛む。それでも、視界に文字は浮かばなかった。
グレイテスト・トランクの口が開いている。
巨大な黄金の顔。その奥に幾重もの環が並び、ゆっくりと角度を変えていた。環を渡る白い火花が、砲口の奥へ吸い込まれていく。
あれが放たれれば、王都は消える。
逃れる道も、食い止める手も、最適未来指標は示さなかった。
「……どうした?」
背の下から、アウレリウスの声が響いた。
「見えぬ……」
答えた唇に、鼻から落ちた血が触れた。
竜王は何も言わなかった。街路に下ろしていた爪を立て直し、頭を持ち上げる。
その動作だけで、肩の傷から血が滲んだ。
魔神を退けた天穹終焉。
あの一撃に注いだ力は、まだ戻っていない。
炎を吐くことはできる。だが、砲口に集まっている力を、いまのブレスで押し返すことはできなかった。砲口そのものを壊そうにも、正面は厚い装甲に覆われている。射線を支える機構は、そのさらに内側だった。
レオナルトは血を拭った。
考えろ。
アウレリウスは、まだ動ける。爪にも、翼にも、力が残っている。
自分にできることも、まだあるはずだった。
『主砲への全動力接続を開始』
船から、平坦な声が流れた。
黒い外殻に並ぶ灯が、船尾から順に消えていく。機械兵が楽器を抱えたまま俯き、甲板の昇降機が途中で止まった。
代わりに、船体を走る幾筋もの光が輝きを増した。
すべてが、黄金の顔へ集まっていた。
レオナルトは振り返った。
広場の南口で、担架が一つ、瓦礫に引っかかっていた。
運んでいた兵が屈み込む。別の兵が駆け寄り、二人で挟まった石を取り除いている。その傍らを、幼子を抱いた女が通り過ぎた。女の裾を、もう一人の子供が握っていた。
まだ、逃げている。
この高さからでは、声は聞き取れなかった。それでも、互いを呼んでいることはわかった。振り返り、手を伸ばし、一人では進めない者を連れていこうとしている。
「アウレリウス……」
「ああ」
「一人でも、多く」
竜王の胸が、深く膨らんだ。
「言わずとも、わかっておるわ」
レオナルトは、背の下の鼓動を感じた。
アウレリウスも、街を見ていた。
長い歳月を一頭で生き、己の領域へ踏み入る者を拒んできた竜が、名も知らぬ者たちの避難を見守っている。
あの担架が、次の角を曲がるまで。
あの親子が、安全な場所へ辿り着くまで。
あと一人でも、多く。
同じ願いを抱いた、その瞬間だった。
二人の眼に、同じ光景が開いた。
黄金の口。
その内側へ飛び込む、竜の姿。
環の裏へ爪を掛け、肩を押し入れる。
砲口の奥から、白い光が迫る。
巨体がそれを受け止め、環を持ち上げる。
光が、空へ逸れた。
レオナルトは息を止めた。
いま見たものを、アウレリウスも見ている。
背の上へ伝わってきた緊張で、それがわかった。
「……見えたか?」
「ああ」
竜王の瞳が、砲口を捉えていた。
訓練のときにも感じた、あの引力があった。
選んだ未来へ、身体の奥から引かれていく。今度は、二人とも同じ場所へ引かれていた。
厚い装甲に守られた収束環。その背面へ回り込み、支えを壊す。内側から持ち上げれば、射線を変えられる。
だが、環は巨大だった。
傷ついた竜の力をもってしても、容易には動かない。
見えた未来の中で、最後にそれを押し上げていたのは――。
「我も行く」
レオナルトは鱗を掴んだ。
「中へ入れば、また先が見える。帰る道も、我が見つける」
アウレリウスは首を巡らせた。
琥珀色の眼が、彼を見た。
「……頼もう」
レオナルトは頷いた。
その言葉を、疑わなかった。
***
『蓄積エーテル、主砲へ転送』
船の奥で、重い金属音が響いた。
音は船首へと近づき、そのたびに足元の石畳が震えた。
割れた窓枠が鳴り、倒れた槍の穂先が地面を擦った。
砲口の奥に、白い点が生まれた。
目を逸らしても、瞼の裏に光が残った。
「建物の陰へ! 頭を下げて!」
メイジャーの声が飛んだ。
ベアードが担架の上へ大盾を傾ける。
メリナは動けずにいた兵の腕を掴み、崩れ残った壁の裏へ引き込んだ。
船の頂で、ワンブリッジが両腕を広げていた。
白衣の裾が風にはためいている。頬の血は乾き、その上を新たな血が一筋、伝っていた。
「さあ、諸君」
彼は楽しげに告げた。
「諸君らは本当に美しい!」
『収束環、最終位置へ移行』
砲口の中で、環が重なり始めた。
アウレリウスの翼が開く。
「まだだ……ッ!」
レオナルトは囁いた。
いま飛び込めば、動いている環に胴を挟まれる。
だが、重なり切ってからでは、内側へ抜ける隙間がなくなる。
二人の眼には、通り抜けるべき場所と、その瞬間が見えていた。
『射軸固定』
「――行けッ!」
竜王が、地を蹴った。
踏み切った石畳が砕けた。翼が街路を打ち、伏せていた兵たちの頭上を黄金の巨体が駆け抜ける。
メリナは顔を上げた。
竜王が、船へ向かっていた。
あの口へ。
「え…? レオナルトさん……?」
声は、翼の起こす風に掻き消された。
アウレリウスは砲口の下縁へ前脚を掛けた。装甲に爪を立て、その力で巨体を内側へ引き込む。
眼前で、環が回った。
「左を畳め!」
言い終わる前に、左翼が閉じていた。
縁を走る白い火花が、翼の膜を焼く。焦げた鱗がレオナルトの頬を打った。
「その奥だ!」
竜王の角が、環の背面へ入った。
装甲の陰に隠れていた支持腕を捉える。
前脚の爪が、その根元へ食い込んだ。
船が震えた。
『主砲臨界』
奥の白い光が膨らんだ。
レオナルトの眼に、再び未来が走った。
地上を焼く光。空へ逸れる光。その狭間で、爪を掛け直す竜の姿。
帰る道は、まだ見えなかった。
「もう少しだ。ここを――」
「レオナルト」
背の鱗が、持ち上がった。
彼は手に力を込めた。
「何をするッ?」
「ここまででよいのだ」
竜王が身を捻った。
レオナルトの身体が浮いた。
鱗を掴む爪が滑り、それでも片手だけで縋りついた。
「待て!」
アウレリウスは、彼を見なかった。
前脚を環の裏へ掛け直し、後脚で床を踏み締めている。
砲口のさらに奥から、白い光がその顔を照らしていた。
「帰る道を、探すと言っただろう!」
「ならば、見つけよ」
低い声だった。
「貴様を待つ者たちのところまでのな」
レオナルトは牙を食いしばった。
「私一人で帰って、どうするというのだ!」
竜王の喉が、かすかに鳴った。
「我は、二千年を生きた」
「ならば、まだ生きろ!」
声が裏返った。
「二千一年でも、二千二年でも! 貴様が飽きるまで生きればよいではないか!」
アウレリウスは何も答えなかった。
首が動いた。
襟元を牙が引っかけた。鱗から手が剥がれ、レオナルトの身体が砲口の外へ放り出される。追うように翼が風を送り、彼を船から遠ざけた。
手を伸ばした。
指先は、何にも届かなかった。
「二千一年目の空は――」
アウレリウスが、振り返った。
「貴様が拓け、レオナルト・アークヴェイン!」
***
砲口の中で、竜王が立ち上がった。
角を環の下へ差し込み、肩を押し当てる。
後脚の爪が床を貫いた。
鱗の隙間から、黄金の火が立ち上った。
ワンブリッジは眼を細めた。
竜は、己の命を燃やしていた。
使い果たした力を、残された命で補っている。
「……ああ」
白い手袋が、胸へ添えられた。
「これは…これは訂正しなければならないネ」
船が警告を発した。
『収束環に位置異常』
『射軸保持、補正開始』
環が竜王の肩を押し戻す。
爪の下で床が裂け、前脚の関節が軋んだ。
アウレリウスは顎を上げた。
砲口の奥を見据え、咆哮した。
「君たちはまだその先を見せてくれるのだね!
素晴らしいなんて言葉ではもう君たちを飾ることは投擲できやしないだろう!」
ワンブリッジは笑った。
「私が閉じようとした棺へ、自分から飛び込んで!
その蓋を、こじ開ける!まさか、まさか、まさかだ!」
頬の傷が開いた。
彼は気にも留めなかった。
「君たちはまったくもって完成などしてはいなかったんだ!
私は何という早とちりをしてしまったのだろうね!」
逃げられぬと悟っても、二人は諦めなかった。
見つけた手段が命を求めるものでも、竜は引き返さなかった。その背にいた男を逃がし、いまもなお、街を救うために力を尽くしている。
ワンブリッジは、その姿を見つめていた。
「ならば、どこで完成と呼べる。どこで蓋を閉じればよい!」
白い手が、大きく広げられた。
「無限大!無限大だぁ!」
彼は、心の底から嬉しそうだった。
「まさに、無限大じゃあないか!」
『全蓄積エーテル、放出準備完了』
船体の光が消えた。
黄金の顔の奥にだけ、白が残った。
唸り続けていた機関の音が途絶える。
砕けた装甲の一片が落ち、床を打った。
ワンブリッジは指を揃えた。
黄金の火に包まれた竜王へ、深く頭を下げる。
「ありがとう!」
顔を上げた。
「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」
その声は、震えるほどの歓喜に満ちていた。
「その黄金の意思へ、最大の敬意を!」
両腕を広げ、いまなお環を持ち上げようとする竜を迎える。
「我々の理解を越えて続く進化へ、最高の敬意を!」
砲口の白が、彼の眼鏡を染め上げた。
「グレイテスト・バスター・キャノン――」
白い手が、振り下ろされた。
「発ッ射ッ!」
光が、竜王を呑んだ。
最初に、背の鱗が剥がれた。
翼が焼け落ちた。首が仰け反り、開かれた顎から、声にならない息が噴き出した。
それでも、前脚は離れなかった。
竜王の身体が奔流を受け止めた。
その背を押す力を、爪を打ち込んだ後脚で堪える。巨体が前へ押され、環の下に差し入れた角と肩が、その下縁を押し上げた。
支持腕が、曲がった。
アウレリウスは、残された力をそこへ注いだ。
骨が軋み、爪が裂ける。
崩れかけた四肢を、黄金の火が包んだ。
竜王は、身を起こした。
環が持ち上がった。
『射軸補正――不能』
支持腕が、折れた。
収束環が上を向いた。
その角度に沿って、白い奔流が傾く。
竜王の身体を焼きながら、王都へ向かうはずだった光が、砲口の上縁を抉った。
黄金の額に亀裂が走る。
次の瞬間、船の頭上へ、巨大な光柱が突き抜けた。
雲が吹き散らされた。
遥かな高みまで、白い光が続いていた。地上の建物も、瓦礫も、伏せた人々も、その下で一斉に照らし出された。
メリナは壁の陰で、兵の頭を抱き寄せた。
瞼を閉じても眩しかった。
地面が揺れ、頭上から石の粉が降り続けた。
だが、抱いた身体には、まだ重みがあった。
その兵の手が、メリナの袖を掴んでいた。
ベアードの盾の下で、負傷者が咳き込んだ。
メイジャーが隣の騎士を押さえ、崩れ落ちた壁から庇った。
担架を運んでいた兵たちは、その場に伏せ、乗せられた者を腕の下へ抱き込んだ。
光は、彼らの頭上を越えていった。
砲口の中で、竜王の身体が崩れていく。
それでも、光が街へ戻らぬよう、最後まで環を支えていた。
砲口の下に、街路が見えた。
人々が伏せていた。
その中に、抱き合う親子の姿があった。
アウレリウスは、さらに肩を押し上げた。
収束環の外枠が上方へ食い込み、ひしゃげた装甲の間に噛み込んだ。戻ろうとする機構が空転し、砕けた歯車を吐いた。
射線は、空を向いたまま動かなくなった。
黄金の火の中で、竜王の爪が、静かにほどけた。
***
レオナルトは、落ちながらそれを見ていた。
船の口から溢れた白い光。
その中に、ほんの一瞬だけ残った、巨大な頭の輪郭。
名を呼んだ。
自分の声は聞こえなかった。
あの竜は、訓練のたびに文句を言った。指示が遅いと怒り、言葉が多いと笑い、何度も同じ旋回をやり直した。
背に跨がることを許したくせに、爪を立てれば痛いと叱った。
明日も、そうするものだと思っていた。
もう一度呼ぼうとしたとき、光の中から、その輪郭が消えた。
遅れて、爆風が来た。
レオナルトの身体が翻る。右肩を焼かれ、鬣に火が移った。それでも、伸ばした手を戻すことができなかった。
グレイテスト・トランクの主砲は、船に蓄えられた力を吐き続けていた。
すべて、空へ。
やがて光柱が細くなった。
最後の光が空の彼方へ消えたあとにも、レオナルトは、その場所を見ていた。
青空があった。
竜の姿は、なかった。
低い金属音が、王城跡から響いた。
黄金の顔が、ゆっくりと沈み始めていた。
焼けた砲口が外殻の奥へ収まっていく。額から剥がれた装甲が足元へ落ちた。側面が動き、頭巾を形作っていた構造が順に畳まれていった。
再び、黒い船体が現れた。
長大な、窓のない外殻。
王城の跡を占める、巨大な棺。
その頂に、白衣の男はいなかった。
最後の装甲が閉じる音を境に、グレイテスト・トランクは黙り込んだ。
王都には、音が残った。
崩れる石の音。
誰かを呼ぶ声。
泣き声と、咳と、瓦礫を踏む足音。
メリナは顔を上げた。
焼け跡の向こうに、街があった。
屋根を失った家も、折れた門柱も、逃げ遅れた人々も、そこにあった。
抱いていた兵が、震える息を吐いた。
「……生きてる」
誰へともなく、彼は言った。
メリナは頷いた。
頷きながら、空を見た。
レオナルトの眼に、細い光が浮かんだ。
落下する身体の先から、街路へと続いている。こちらを見上げ、翼を広げる鳥人たちの姿が、その先に見えた。
生きて帰る道だった。
レオナルトは歯を食いしばった。
伸ばしたままだった手を、こちらへ飛んでくる者たちへ向けた。
帰らなければならなかった。
頬を打つ風に、焦げた匂いが混じっていた。何度瞬きをしても、空は青かった。
その空の下で、人々が互いの名を呼んでいた。
返事が、あちこちから上がっていた。
レオナルトは、もう一度だけ、竜の名を呼んだ。




