文明はなぜ棺を作るのか
「たとえば、花だ」
ワンブリッジは、何もない掌を上へ向けた。
「死者には、その香りがわからない。どれほど丹念に選ばれた花でも、瞼を開けて眺めてはくれない。添えた手紙も読まないし、好物を供えたところで、腹を空かせて起きてくるわけでもない」
焼けた王都に、男の声が響いていた。
船腹では、楽器を抱えた機械兵が止まっている。火の残る足場から、焦げた譜面が一枚、剥がれ落ちた。
「それでも、供える」
ワンブリッジの指が、見えない花の茎を摘まんだ。
「返事がないことを知りながら話しかける。もう寒がらない身体へ、いちばんよい服を着せる。生きていた頃には喧嘩ばかりしていた相手のために、夜を徹して、別れの言葉を考える」
男は、その花を誰かの胸へ置くように、そっと手を下ろした。
「私は、これを無駄だとは思わない」
頬に乾いた血が残っていた。
笑うたびに、傷口がかすかに引きつれる。
その顔で、ワンブリッジは丁寧に言葉を選んでいた。
「死者に必要がなくなっても、生者には、まだ必要なのだ。何かを渡したい。何かを言い足したい。これで十分だったと、どうしても思えない」
メリナは、魔道具を握っていた。
すぐ後ろを担架が通っていく。横たわる兵の手から、ちぎれた革紐が垂れていた。何につながっていたのかは、見えなかった。
「だから、人は棺を作る。ただ土へ埋めるだけで済むものを、わざわざ囲い、飾り、名を刻む。花が枯れても、声を忘れても、せめて、その者がいた場所だけは残るように」
ワンブリッジは、自分の足元へ眼を落とした。
黄金の額。
その下に続く、巨大な死者の顔。
「箱に納められているのは、ただ一人の身体だ。しかし、その蓋を閉じる者にとっては、一人分の世界が丸々入っている」
男が顔を上げた。
「その違いを、私は尊いと思う」
黄金の唇が、ゆっくりと開いていた。
口内で、白と青の光輪が回る。
まだ薄かったその輝きの奥へ、王都の煙が細く流れ込んでいった。
「では、一つの文明が死ぬとき、その蓋は誰が閉じる?」
問いは、街の隅々へ届いた。
「最後の一人が死んだあとで、誰が名を刻むのか。誰が、その者たちに花を供えるのか」
返事はなかった。
ワンブリッジは急かさなかった。
答えを考える時間まで、講義の一部として用意しているようだった。
***
レオナルトは、男の足元を見ていた。
遮るものはない。
額の縁に立つワンブリッジは、相変わらず身を晒している。
そこまで届けば、終わらせられる距離だった。
アウレリウスの呼吸が、背を通して伝わってきた。
深く、長い。
ひと息ごとに、首筋の鱗から白い蒸気が上がっていた。
「あと、どれほどだ」
レオナルトは低く尋ねた。
「急かすな」
返る声に、いつもの張りはなかった。
竜王の爪が石畳を掴み、前脚へ力が籠もる。
だが、胸はまだ持ち上がらなかった。
レオナルトは、船上へ眼を戻した。
男は、こちらを見ていた。
「急ぐことはないよ、レオナルト・アークヴェイン。彼が息を整える間に、耳だけ貸してくれればよい」
牙が、噛み合った。歯ぎしりした。
あのいけ好かないクソ野郎から、まんまと時間を与えられている。
そのこと自体が、屈辱だった。
ワンブリッジは、軽く肩を竦めた。
「君たちにとって、我々は災厄だろう。暮らしを壊し、国を奪い、愛する者を殺した。弁解するつもりはない。事実を飾り立てると、記録の価値が下がってしまう」
白い手袋が、広場を示した。
「だが、災厄に遭った文明が、すべて同じ答えを出すわけではない」
その指が、ゆっくりと街路を辿った。
「隣国へ責任を押しつけるものがある。弱い者を差し出して、猶予を買うものがある。古い憎しみを捨てられず、最後まで別々に滅びるものもある」
担架を運ぶ兵たちの上で、指が止まった。
「だが、君たちは、手を組んだ。そう、君たちは、手を組んだのだよ」
声が、わずかに明るくなった。
「それまで握手をすることさえなかった相手と、同じものを持ち上げた。互いに何を恐れ、何を嫌っているのか、そのすべてが解決したわけでもないのにだ」
人間の兵と熊族の兵が、同じ担架を運んでいた。
段差へ差しかかり、熊族の兵が歩幅を縮める。
反対側の兵が頷いた。二人は、横たわる者を揺らさぬよう、ゆっくりとそこを越えた。
「見たまえ。いま、彼らが揃えているのは思想ではない。歩幅だ」
ワンブリッジは、眩しいものを見るように眼を細めた。
「それで、一人が運ばれていく」
メリナは、唇を噛んだ。
男は、見ている。
自分たちが何を守ろうとしているのか。
そのために、どれほど必死でいるのか。
男は、理解しているのだ。
そして、理解したうえで、そこに立っている。
「素晴らしいじゃあないか」
ワンブリッジが言った。
「美しさを語るために、磨かれた宮殿も、汚れのない旗も要らない。泥まみれの靴が二足、同じ速さで進む。それだけで、昨日まではなかったものが、この世界に生まれている」
男は、両腕を広げた。
「私は、それを持ち帰りたい」
***
黄金の口へ向かう風が、強くなっていた。
落ちた譜面が、再び浮いた。
船腹の残骸を擦り、文字のある面をこちらへ向けたまま、光の輪の奥へ吸い込まれていった。
「記録するだけなら……ッ!」
メリナは、魔道具を口元へ寄せた。
「見ていれば、いいでしょう」
ワンブリッジが、顔を向けた。
「私たちを殺さなくたって、覚えていられるじゃない」
「オフコーゥス」
男は、すぐに頷いた。
「だが、君たちは変わる」
白い手袋が、指を一本立てた。
「今日の勇者が、明日の支配者になる。命を預けた友が、分け前を巡って敵になる。助けてもらった恩は薄れ、助けた側の記憶だけが鮮明になる」
その言葉に、近くの兵が顔を上げた。
「焼けた家を、誰から直す。残った食糧を、誰へ渡す。戦死した者の遺族に、何をもって報いる。人間の子と亜人の子が、最後のパンへ同時に手を伸ばしたとき、誰の手が先に払われる?」
メリナは、答えられなかった。
まだ、そこまで辿り着いていなかったのだ。
辿り着くために、戦っていた。そんな答えを用意する余裕なんてなかった。
「勝利は、不思議なものだと思わないかい?」
ワンブリッジは、静かに続けた。
「手に入れるまでは、すべての願いが、そこへ向かっているように見える。ところが、いざ手にすると、人々は自分の願っていたものが、隣人のそれとは違っていたと知る」
風が、男の白衣を膨らませた。
「共通の敵が消えたあとにも、同じ歩幅で進めるだろうか」
メイジャーが、メリナの隣へ来た。
何も言わず、その肩へ一度だけ手を置く。
それから、騎士たちへ負傷者の搬送を続けるよう合図した。
「いま、君たちは美しい」
ワンブリッジの指が、再び担架へ向いた。
「だが、十年後には、その片方が、もう片方を助けたことを悔いているかもしれない。後悔した自分を正当化するために、今日の記憶を、少しずつ変えてしまうかもしれない」
男は、残念そうに息を吐いた。
「記憶は、持ち主に優しすぎる。耐えられない部分を削り、都合のよい理由を継ぎ足す。やがて、何があったかより、何があったことにしたいかを語り始める」
メリナは、運ばれていく兵を見た。
担架の上から、手が伸びた。
熊族の兵の袖を、弱く掴んでいる。
熊族の兵が耳を寄せた。
何を言われたのかは、聞こえなかった。
ただ、その口元がわずかに緩んだ。
「……それも、あの人たちのものよ」
メリナは言った。
ワンブリッジが、口を閉じた。
「今日のことを、明日どう思うかも。十年経って、何を覚えているかも。あなたのものじゃない」
喉が乾いていた。
こちらが言葉を探す間にも、男は待っている。
その辛抱強さにまで腹が立った。
「あの人たちは、きれいな思い出になるために運んでいるんじゃない。
生きて帰るために、運んでいるのよッ!」
魔道具を握る指が、白くなった。
「あなたが持ち帰りたいのは、あの人たちが手放したくないものなのよ」
風の中で、ワンブリッジは娘を見つめていた。
やがて、深く頷いた。
「そのとおりだ」
声には、感心した響きがあった。
「私が惜しんでいるものの正体を、君は、実に正確に言い当てた」
男の眼が、わずかに細められた。
「そう、そうともさ、メリナ・ハチミツ。君が信じているものと、我々が信じているもの。それは、同じなのだよ」
「……一緒にしないで」
「いま、そう思うのも無理はない」
ワンブリッジは、静かに答えた。
「ただ、どうか、そのまま信じていたまえ。君の信じるものが、君の知る姿を変えたとしても」
その声に、からかう響きはなかった。
傷ついた頬に残る笑みまで薄れ、男は、メリナの返事を待たずに小さく頭を垂れた。
メリナの背筋を、冷たいものが下りた。
届かなかったのではない。
しっかりと届いた。
あの男は、いまの言葉を受け取って、それでも変わらないのだ。
***
「我々は、数多くの終わりを見てきた」
ワンブリッジの声が、少し低くなった。
「最後の言葉を残す暇さえなかったもの。立派な歴史を持ちながら、誰もそれを読めなくなったもの。自らの名を永遠に刻んだつもりで、その石ごと失われたもの」
男は、空を仰いだ。
ガイツが消えた空だった。
「どれほど偉大なものでも、そこにあったという事実ごと消えることがある。あとには、空白が残る。そこに問いがあったことすら、誰にもわからない」
ひと呼吸、間があった。
「私は、その空白を惜しむ」
黄金の光が、頬の血を照らした。
「一つの文明が辿り着いた答えは、別の文明には、まだ生まれていない問いかもしれない。一人の生涯をかけた失敗が、遥か後に続く誰かの、最初の足場になるかもしれない」
ワンブリッジは、胸へ手を置いた。
「我々も、遺されたものから学んだ。我々の知識も、我々の技術も、無数の先人が積み上げたものの上にある。自分たちだけで賢くなったなどと、どうして言えよう」
その声から、大仰な調子が消えていた。
「まして、進化という御業を前に、我々の理解など、どれほどのものだろうね」
男が、頭を垂れた。
戦場へ向けた礼ではなかった。
ここには見えない、しかし彼にとっては確かに頭を下げるべきものへ、敬意を捧げる仕草だった。
「今日、君たちは私の予測を越えた。知らなかったものを、私へ与えた。ありがたいことだ。己の理解が足りぬと知るたびに、世界は、それまでより広くなる」
顔が、上がった。
「だから残すのだよ、美しいままね」
穏やかな笑みが戻っていた。
「我々の知る世界を広げた君たちを。今日という日に、ここまで届いた君たちを。いつか私の知らぬ誰かが、その記録から、私にも思いつかないものを見つけるように」
アウレリウスが、低く唸った。
「そのために、我らの先を絶つか」
「勘違いしちゃあいけない。君たちの終わりを、次へ渡すのだよ」
ワンブリッジは答えた。
「それが、私にできるただひとつのことだ」
竜王の爪が、石畳を削った。
レオナルトは、その背で身を低くした。
アウレリウスの胸が、わずかに持ち上がっていた。
長く伏せていた翼が、ゆっくりと開いていく。
もう少し。もう少しだ。
レオナルトは、黄金の口内を見据えた。
重なった光輪の奥に、何かが集まっている。
近づくべき場所を選ばなければ、一度きりの飛翔を失う。
ワンブリッジの話は、続いていた。
「しかして、君たちは、納得しないだろう」
男は、当然のこととして言った。
「明日も生きたい。子の育つ姿を見たい。失った家を建て直したい。あの畑へ戻りたい。まだ言っていない言葉がある。まだ食べていないものがある。実に多くの理由がある!」
両腕が、広がった。
「わかる!わかる!わかる!わかるぞォォォッ!」
ワンブリッジの目が光る。比喩ではなく。
「どれも、捨てがたいッ!」
声が弾んだ。
「その小さな理由が幾つも重なって、あの魔神を退けるところまで、君たちを運んできたのだろうね。名誉でも、大義でもなく、明日の食卓へ戻りたいというだけの願いが、あれほどの力へ変わったのかもしれない!」
メリナは、奥歯を噛んだ。
勝手に遠くへ置かれていく。
いま、自分たちの胸の中にあるものが、あの男の言葉を通るたび、眺めて楽しむものへ変えられていく。
恐怖も、怒りも、帰りたいという願いさえ。
「なら、帰してよ……」
メリナは言った。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
だが、魔道具は、その言葉を広場へ運んだ。
「そこまでわかるなら、私たちを帰してッ!」
ワンブリッジは、娘を見下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
その沈黙に、メリナは一瞬だけ、縋りかけた。
「……メリナ・ハチミツ」
男は、柔らかく名前を呼んだ。
「君がいま、それを望んだことも、私は忘れない」
メイジャーの手が、メリナの腕を掴んだ。
後ろへ引かれる。
メリナは逆らわなかった。
魔道具を下ろせないまま、足を動かした。
あの男の言葉には、終わりがなかった。
何を言っても、受け取られる。
叫んでも、憎んでも、懇願しても、そのすべてを大切そうに拾い上げ、棺へ納められてしまう。
わかり合えない相手ではなかった。
こちらが何を失うのかを、どこまでもわかっている相手だった。
***
「さて」
ワンブリッジが、右手を上げた。
船へ向かっていた風が弱まった。
浮いていた破片が落ち、甲板を転がる。
光輪の位置が変わり、口内の一点を取り囲むように並んだ。
「講義の終わりに、最初の問いへ戻ろう」
黄金の指揮棒を収めた胸元へ、白い手袋が触れた。
「文明は、なぜ棺を作るのか」
男は、ゆっくりと王都を見渡した。
剣を握る者。
仲間を運ぶ者。
倒れた者のそばを離れられない者。
最後に、再び身を起こそうとしている竜と、その背の獅子を見た。
「失われるものに、まだ渡したいものがあるからだ」
レオナルトは腰を落とした。
掌の下で、竜王の筋肉が張った。
翼が開く。石畳を掴む爪へ、力が集まっていく。
「君たちは、明日を望んだ」
ワンブリッジは、深く頷いた。
「その事実まで含めて、今日の君たちを残そう」
光が、巨大な顔の口内を満たした。
白とも、青とも呼べなかった。
見続けていると、その周囲にある景色まで、少しずつ色を失っていく。
「異なる者と歩幅を揃えた勇気へ。未来を手放さぬ意思へ。そして、我々の理解を越えて、なお歩み続ける進化へ」
男は、丁寧に頭を下げた。
「最大の敬意を」
レオナルトの視界に、文字が走った。
【最適未来指標】
彼は、眼を見開いた。
数秒先の王都が、白かった。




