天を穿つ咆哮
魔神の奥で、重い音が続いた。
肩の装甲がせり上がり、背部に並んだ噴射口が開いていく。傷口から漏れていた黒煙が、内側から溢れ出す光に押し流された。
豪級帝羅我威都が、両腕を胸の前で組んだ。
膝が曲がる。
地を踏み締めていた巨足が浮き、腹の下へ折り畳まれていった。
座禅。
本来は、姿勢と呼吸を整え、己の心と向き合うための行いである。雑念に追われることをやめ、ただ静かに坐る。
だが、アンドリュー・ジャスティス・ガイツのそれは、まったく意味が違う。
己を見つめるつもりなどない。
その赤い眼が捉えているのは、これから殴り飛ばす相手だけだ。
それは、単なる果たし状だった。
てめえをぶっ飛ばす。
ただそれだけの、単純明快な宣告を、黄金の巨体で空へ突きつけていた。
「離れて!」
メリナは叫んだ。
魔道具を握る手が震えていた。忘れられるはずがない。あの姿のあとに何が起こるのかを、彼女は知っている。
背部から炎が噴き出した。
石畳を這った熱風が、放置された盾を転がしていく。魔神は低く浮き上がり、広場に残った瓦礫が、その正面から両脇へ押し退けられた。
だが、竜王はそこにはいなかった。
アウレリウスは高い空を旋回している。魔神が向いているのは、その遥か下。城壁へ続く、無人の大通りだった。
レオナルトは眉を寄せた。
「……どこを狙っている」
「マイフレンッ! 地面に座標がなければ、空に置けばいい!」
ワンブリッジの声が響いた。
グレイテスト・トランクの上に、男が立っていた。
吹き荒れる風に上着の裾を翻し、黄金の指揮棒を空へ掲げている。未来的な眼鏡の表面を、魔神の放つ光が滑っていった。
「虚数空間カタパルトとは、距離という退屈な概念から我々を解き放つ翼! ならば固定された聖遺物など、いつまでも必要とする理由はないのさ!」
黒い船体から、三つの光が飛び出した。
それぞれが魔神の進路へ散り、空中で止まる。光と光を結ぶ細い線が三角形を描くと、その内側で、向こうに見えていた街並みが歪んだ。
レオナルトの背筋が冷えた。
あの光を、知っている。
遠いフェルドランにいた男の意識が、流れ込んできたとき。
バルムド・アークヴェインが、その最期を越えて力を託してきたとき。
世界の隔たりを破ったものだ。
「虚数空間カタパルト……!」
「ご存じとは光栄だ!」
ワンブリッジが指揮棒を振った。
「同じ場所に門を開き続けるなら、頑丈な錨も必要だろう。だが、我々が欲しいのは、彼が通り抜ける、ほんの一瞬!」
アウレリウスの前方で、金色の粒が瞬いた。
「左へ!」
レオナルトの声に、竜王が翼を傾ける。
光は薄れた。
そして、その旋回先で再び集まり始めた。
追ってきている。
魔神が現れる場所そのものが、竜王の行く手へ置かれようとしていた。
地上で加速し、その先を、空へつなぐ。
レオナルトは、ようやく敵の狙いを理解した。
「優雅だねぇ、マイフレンド。最短距離とは、常に直線であるべきだ」
ワンブリッジは、光に包まれた魔神を見下ろした。
「ただし、その直線が、同じ空間に収まっている必要はない」
ガイツが笑った。
『聞いたか、空の王様よォ! 俺が上がれねぇなら、道のほうに下りてきてもらうって寸法よッ!』
噴射炎が膨れ上がった。
魔神の下で石畳が剥がれ、宙へ浮いた破片が砕けて散った。
『豪級帝羅暴流斗――ッ!』
黄金の巨体が、突進した。
光が広場を横切る。
引き剥がされた敷石が、その通り道を追って帯状に舞い上がった。
「そして、移動先へ運ばれるものは、質量だけではない」
ワンブリッジが指揮棒を振り下ろした。
「速度も、そのままお届けしよう!」
魔神が、三角形の内側へ突っ込んだ。
轟音が途切れた。
王都から、黄金の巨体が消えた。
舞い上がった瓦礫だけが、主を失った勢いのまま広場を転がっていく。
レオナルトの視界に、文字が走った。
【最適未来指標】
『選択肢A:上昇――生存率0%』
『選択肢B:急降下――生存率0%』
「右へ回れ!」
アウレリウスが旋回する。
金色の粒が、その鼻先へ集まった。
『選択肢A:右旋回継続――生存率0%』
『選択肢B:左へ反転――生存率0%』
レオナルトは奥歯を噛んだ。
巨体の向きを変えるための踏み直しも、拳が戻るまでの間も、もう存在しない。
空を飛べぬという弱点を、ワンブリッジは空そのものにつながる門で埋めてきた。
あの突進が、目の前に現れる。
見てから避けるには、近すぎる。
先に逃げても、その先へ出口を置かれる。
竜王の背を掴む爪が、鱗の隙間へ食い込んだ。
どこへ行く。
どちらへ逃れる。
目の奥が焼けるように痛んだ。文字を押し退けて、その先を見ようとした。
「レオナルト」
アウレリウスが呼んだ。
声は静かだった。
「覚えておるな」
風の中で、レオナルトは息を止めた。
***
あの事故のあとも、二人は訓練を続けていた。
八騎の竜騎兵を救い、岩場へ戻った日の夕暮れ。
レオナルトが乾いた鼻血を拭っていると、アウレリウスが不意に言った。
「お前にも、感じられたか」
「何をだ」
「あの者たちの下へ、飛び込んだときだ」
竜王は片翼を持ち上げた。
薄い夕日が、その縁を透かしていた。
「風を掴むより先に、身体が引かれた」
レオナルトは、布を持つ手を止めた。
自分も、同じものを感じていた。
選んだ未来へ進もうとする瞬間、そちらから手を伸ばされたような感覚。
先の光景が見えただけならば、説明がつかない。声をかける間もなかった一拍を、竜王は確かに埋めていた。
「貴様が、私の動きを読んだのかと思っていた」
「そこまで器用であれば、訓練など要らぬ」
その日から、二人は確かめ始めた。
岩峰の間を抜け、谷から吹き上げる風を渡った。レオナルトが道を選び、アウレリウスが翼を操る。
望んだからといって、あの感覚が戻るわけではなかった。
無理に危険へ飛び込めば、ただ傷が増えた。竜王は岩肌に翼を擦り、レオナルトは何度も背から振り落とされかけた。
それでも、二度目はあった。
抜けるはずだった岩の間を崩落が塞ぎ、左右へ逃れる道を失ったときだ。
レオナルトは、落ちてくる岩の一つが砕ける未来を見た。その隙間へ飛び込めと叫んだ。
アウレリウスは、問い返さなかった。
翼を畳み、まだ塞がっている場所へ身を投じた。
その瞬間、二人は感じた。
崩落の向こうへ、身体の芯を引かれる力を。
岩が割れた。
開いた隙間と、そこを通る竜王の巨体が、寸分違わず重なった。
岩峰を抜けたあと、アウレリウスは長く黙っていた。
「……見えた未来へ、我らが引かれておる」
レオナルトは頷いた。
ただ無事に帰る道を探している間は、現れなかった。
逃れようのない光景を前に、それでも何かできるはずだと探し続け、選んだ先へ二人で踏み込んだときにだけ、その力は応えた。
絶望すれば、そこで線は途切れる。
だが、希望を捨てずに手を伸ばせば、届く未来がある。
「希望だけで、助かるわけではない」
レオナルトは言った。
「だが、助かる道がないと決めれば、もう何も選べなくなる」
アウレリウスは、獅子の男を見下ろした。
「ならば、最後まで探せ」
琥珀色の眼に、揺らぎはなかった。
「貴様が見つけた道を、我が通る」
***
金色の光が、空へ広がっていた。
レオナルトは、その中心を見据えた。
バルムドも、最後まで探していた。
自分が生き残るための道を失ってなお、誰かへ届く道を。
だから、この力はここにある。
握り締めていた爪を、わずかに緩めた。
「アウレリウス。貴様の最強の一撃を用意しろ」
竜王の喉が、低く鳴った。
「ようやく、我の出番か」
「撃つ場所と、時は私が決める」
「よかろう」
アウレリウスが、旋回をやめた。
大きく翼を広げ、何もない空へ向き直る。
船上で、ワンブリッジの指揮棒が止まった。
「……ほう?」
レオナルトは目を凝らした。
逃げる先へ出口を置かれるならば、逃げ続けては間に合わない。
姿を現してから撃っても、突進を受ける。
ならば、出てくる前に。
あの巨体が通り抜けようとする門を、開く瞬間に撃ち抜く。
【最適未来指標】
『選択肢A:離脱継続――生存率0%』
『選択肢B:出現地点への先制攻撃――生存率37%【推奨】』
あった。
レオナルトは、その未来を選んだ。
視界の奥に、細い線が伸びた。
まだ何もない空へ向かい、その一点で止まる。
「首を、少し右へ」
アウレリウスが顎を動かす。
「そこだ」
線の先に、黄金の眼が見えた。
組まれた両腕。
座禅を組んだ巨体。
背後から溢れる、凄まじい光。
まだ現れていない魔神が、こちらへ突っ込んでくる。
レオナルトの鼻から血が落ちた。
いまではない。
顎の下の鱗が、一枚ずつ光を帯び始めていた。
アウレリウスが息を吸う。胸が膨らみ、広がった翼の先から白い火がこぼれた。
風が変わった。
広場を流れていた煙が、空へ引き上げられていく。
南口へ退いていた兵たちが、頬を撫でる熱に顔を上げた。
竜王の牙の奥に、小さな光が生まれていた。
その輝きが増すにつれ、周囲の空が暗く見えた。
陽光を返していた鱗も、雲も、遠い山並みも、開かれた顎の奥へ色を吸われていく。
レオナルトは、背を伝ってくる熱を感じた。
二千年を生きた竜の力が、いま、一つの吐息へ絞り込まれている。
「一度しか、撃たぬぞ」
「一度でよい」
返した声は、もう震えなかった。
そのとき、胸の奥が引かれた。
あの岩峰の間で感じたものと、同じだった。
竜王の首が、ほんのわずかに下がる。
レオナルトが命じるより早く、照準が線の先へ重なった。
二人の呼吸が合った。
まだ、何もない。
だが、見えていた。
そこに開く門も、抜けてくる巨体も、たった一度の機会も。
ワンブリッジの笑みが、深くなった。
「……見えているのかい?」
三つの光が、竜王の前で止まった。
結ばれた線の内側が窪み、青空が裏返った。
その奥から、黄金の光が噴き出す。
『待たせたなァ、空の王よッ!』
ガイツの声が、開きかけた門から響いた。
『優雅に! 堂々と! 真っすぐに――』
レオナルトは叫んだ。
「いまだッ!」
未来が、二人を引いた。
「天穹終焉――」
アウレリウスの顎が開き切る。
「アストラル・エンド!」
白金の奔流が、空を貫いた。
開きかけた転移門へ、竜王の息吹が突き刺さる。
半ば姿を現していた魔神の胸が、その光に呑まれた。
黄金の装甲が白く灼けた。
巨体を包む突進の光と、正面から叩き込まれたブレスが、狭い出口でぶつかった。
魔神は止まらない。
虚数空間の奥から押し出される質量と速度が、出口へ殺到する。そこへ竜王の力が流れ込み、三角形の輪郭が激しく震えた。
船上の表示盤が、赤く染まった。
【出口座標――保持不能】
【転送ベクトル――異常】
ワンブリッジの眼鏡に、警告が幾重にも映った。
「オゥ……!」
空中の一点が、弾けた。
転移門を支えていた光の一つが砕け、残る二つが引きずられる。出口の面が傾き、そこを通ろうとしていた魔神の向きが、強引にねじ曲げられた。
レオナルトには、その先が見えていた。
「左へ抜けろ、アウレリウス!」
竜王が息吹を断ち、翼を打った。
身体が横へ流れる。
その鼻先を、黄金の巨体が掠めていった。
激突は、しなかった。
壊れた出口は、魔神を竜王のいた場所へ送り出せなかった。
突進の向きだけが跳ね上げられ、その先にあったのは、雲さえない遥かな空だった。
【位相補正限界】
【転送経路――崩壊】
魔神の背部で、推進炎が膨れた。
速度は、失われていなかった。
『ぬおおおおおおッ!?』
黄金の光が、空を駆け上がる。
ガイツが機体を捻ろうとした。
だが、傷ついた姿勢制御機関では、全開の推力を御し切れない。回りかけた巨体がさらに傾き、尾を引く炎が大きく弧を描いた。
『こいつぁ――』
声が、急速に遠ざかっていく。
『景気がよすぎるぜぇぇぇぇぇッ!』
光は小さくなった。
王都を覆っていた巨体が、山並みよりも遠く、雲よりも高い場所へ運ばれていく。
やがて一粒の金色になり、それさえも青空へ溶けた。
遅れて、崩れた転移門の轟音が王都へ届いた。
誰も、声を上げなかった。
魔神が消えた空を、ただ見ていた。
グレイテスト・トランクの表示盤に、文字が並ぶ。
【豪級帝羅我威都】
【座標――観測圏外】
再検索。
応答はない。
【状態――LOST】
ワンブリッジは、空を見上げていた。
掲げたままの指揮棒の先から、金色の粒が一つ、剥がれ落ちた。
***
レオナルトは、竜王の背で膝をついた。
視界に浮かんでいた文字が消える。
支えを失ったように身体が沈み、鱗を掴んだ腕が辛うじて上体を留めた。
血が、顎を伝っていた。
アウレリウスの呼吸も荒かった。
牙の間から白い蒸気を吐き、翼を大きく、ゆっくりと動かしている。全身を満たしていた光は薄れ、首筋の鱗に残った熱だけが、陽炎となって揺れていた。
「……通ったな」
竜王が言った。
レオナルトは、血に濡れた口元を拭った。
「ああ」
それ以上は、言葉にならなかった。
下から、声が届いた。
「魔神が……」
広場の南口で、一人の兵が槍を持ち上げていた。
「魔神を、退けたぞ!」
その声を、隣の者が受けた。
盾を叩く音がした。
槍が掲げられ、押し殺していた息が、いっせいに歓声へ変わった。
傷ついた仲間を背負った兵が、泣きながら笑っていた。
熊族の重装兵が大盾を下ろし、その場へ腰を落とした。担架を運んでいた狼族の一人が空へ吼え、背負われたまま意識の戻らないヴォルクへ、隣の兵が何度も呼びかけている。
メイジャーは剣を下げた。
ベアードが、長く息を吐いた。
メリナは、魔道具を胸に抱いていた。
フェルドランでは、止められなかった。
立ち向かった男も、その男が守ろうとした街も、あの光に呑まれた。
だが、すべてが消えたわけではなかった。
バルムドが遺したものを、受け取った男がいる。
その男を信じ、ともに飛んだ竜がいる。
あの日、途切れたと思った道が、いま、王都の空まで続いていた。
「……ありがとう」
誰へ向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。
頬を、涙が伝った。
そのときだった。
歓声の向こうから、拍手が聞こえた。
一度。
間を置いて、もう一度。
レオナルトが顔を上げた。
焼けた王城の跡に、黒い巨艦が鎮座していた。
その上で、一人の男が手を叩いている。
ワンブリッジ。
男は、笑っていた。
レオナルトは、血に濡れた手で鱗を握り直した。
残るは、グレイテスト・トランク。
そして、あの男だ。




