反転
駄目だ。
メリナ・ハチミツは、心底そう思った。
幼いころ、近くの森へキノコを採りに行ったことがある。
籠が半分ほど埋まり、そろそろ帰ろうと顔を上げたとき、木々の間に魔物がいた。
姿の細部は、もう覚えていない。
ただ、こちらを見下ろす眼と、逃げようにも動かなかった自分の足だけは、いまもはっきりと思い出せる。
食べられるのだと、わかった。
不思議と、涙は出なかった。
助けを呼ぶことも、籠を投げ捨てることも思いつかなかった。考えるより先に、身体の奥深くで何かが諦めていた。
もう駄目なのだ。
自分よりも強いものに出会ってしまったのだから、仕方がない。
幸い、あのときは警備任務中の兵士に救われた。
抱き上げられ、森から遠ざかっていく魔物の姿を見て、ようやく泣いたことを覚えている。
いま、同じものが胸の奥へ降りてきていた。
黄金の腕がひと振りされただけで、兵の列が消えた。
あれだけの人々が立ち上がり、戦い、奪い返してきた道が、もう瓦礫に埋もれている。
魔神が、ゆっくりと腕を戻していた。
次は、自分たちなのだろう。
そう思ってしまった、その瞬間。
パシンッ!
メリナは両の頬を、思い切り叩いた。
痛みが走った。遅れて、頬が熱くなる。
駄目なのは、自分だ。
目の前の状況に絶望して、何もかも手放そうとしていた。
いまも誰かが、倒れた仲間を引き起こしている。瓦礫の下から呼ぶ声がする。まだ助けられる人がいるのに、自分は何をしているのか。
メイジャーに言われたことを、胸の内で繰り返した。
自分の命を軽んじるな。いまのメリナが何を背負っているのか、忘れるなと。
兵たちは、この顔を見ていた。
この声を聞き、武器を取ってくれたのだ。
いま、自分は連合軍の希望なのだ。
そんな自分が、折れるわけにはいかない。
メリナは魔道具を口元へ引き寄せた。
「全軍、広場から後退! 負傷者を先に運んで!」
声が、出た。
「東の道は塞がっています! 歩ける人は南へ! 道の真ん中を空けてください!」
立ち尽くしていた兵が顔を上げた。
肩を貸し合い、倒れた者を抱え、広場の南口へ動き始める。
「第一隊は東へ! 瓦礫をどかして、取り残された兵を救出! 第二隊、運ぶ者に盾をつけて!」
メイジャーの指示が続いた。
ベアードが熊族の重装兵を前へ出し、狼族がその背後から負傷者を拾い上げていく。
メリナと目が合うと、メイジャーは短く頷いた。
「南口から指示を。ここは私たちに任せて」
「……お願いします!」
メリナは馬首を返した。
背後で、魔神が一歩を踏み出す。
地面を伝ってきた振動に馬が怯えたが、手綱を握り、前を向かせた。
「術者、魔法で右脚を止めろ!一秒でも長く、止めるんだッ!」
ベアードの命令とともに石畳が隆起し、幾重もの岩が魔神の足首へ噛みついた。後方の術者たちが杖を握り締め、岩の根を地中深くへ伸ばしていく。
黄金の脚は、歩みを緩めなかった。
持ち上がる足に引かれて地面が裂け、拘束していた岩が根こそぎ抜ける。術者たちが仰け反り、その頭上へ落ちてきた岩塊を、ベアードが戦斧で叩き砕いた。
魔神は、足元を見ようともしなかった。
ヴォルクは、抱えていた兵を仲間へ預けた。
「連れていけ」
「隊長は?」
「奴の顔を、こっちへ向ける…!」
首元の留め具を外す。
外套が落ちる間に、若い狼将の身体が淡く光り始めた。
「ま、まさか、ヴォルクッ!」
ベアードの声に、彼は片耳だけを向けた。
「わかってる!無理はしねえよ!」
そう言いながら、視線は魔神から動かなかった。
ヴォルクの毛が逆立った。
四肢の筋肉が膨れ、吐く息が牙の間を白く流れる。
広場の砂塵が足元へ引き寄せられ、渦の中で細かな石が跳ね始めた。
精霊が、応えていた。
「狂狼化ッ!」
踏み込んだ石畳が砕けた。
メリナが音に振り向いたとき、ヴォルクはすでに魔神の懐にいた。一直線に剥ぎ取られた敷石が遅れて宙へ舞い、その間を白い残光が貫いている。
狙うのは、足首の継ぎ目だった。
あそこを断てば、巨体を崩せる。倒れなくとも、踏み出す脚を止められる。
その間に一人でも多く逃がせればいい。
身を捻り、精霊の力を爪へ絞る。
閃光のごとき突進で、魔神を穿つ。
つ も り だ っ た の だ 。
無情にも、爪先は、装甲の手前で止まっていた。
何もない空間に、薄い波紋が広がっている。
全身を投じた勢いが肩へ跳ね返り、ヴォルクの顔が歪んだ。
なおも押し込もうとする背後で、行き場を失った力が石畳を抉っていく。
爪と装甲の間には、わずかな隙間があった。
そのわずかが、埋まらなかった。
『狼人間野郎ッ!悪くねぇ突進じゃあねぇか!』
ヴォルクは顔を上げた。
魔神が、こちらを見下ろしていた。
足を引くでもなく、庇うでもなく、寄ってきた虫の姿を確かめるように。
『だがな、古の書物にはな、羽虫は横じゃあなく、縦につぶせとあるんだぜ?』
黄金の掌が、頭上で開いた。
ヴォルクは地面を蹴った。
残る加護を脚へ回し、巨体の影から飛び出す。その背後へ、掌が落ちた。
広場が陥没した。
砕けた石畳と空気が一緒に押し出され、逃れたヴォルクを背中から捉えた。精霊の光が引き剥がされ、宙にあった身体が折れ曲がる。
直撃は免れた。
だが、意識はそこで途切れた。
地面を跳ね、瓦礫を崩して止まったヴォルクへ、狼族の兵たちが駆け寄った。
「隊長!ヴォルク隊長ッ!」
返事はなかった。
首元へ手を当てた兵が、顔を上げる。
「息はある! 早く運べ!」
抱え上げられた腕が、力なく垂れた。
メリナは、魔神の足元を見た。
ヴォルクの走った跡には敷石が残らず、掌の下には大穴が開いている。それほどの力がぶつかった場所で、黄金の脚だけが、先ほどと変わらず立っていた。
『頭じゃ分かってはいるんだけどよぉ!成功した試しはねえぜ!古の書物よぉッ!』
ガイツが笑った。
メリナは魔道具を握り締めた。
頬には、まだ自分で叩いた痛みが残っている。
「負傷者を南へ! 担架を通してください!」
狼族の兵がヴォルクを背負い、門柱の横を駆け抜けた。その先では担架がつかえ、肩を貸し合う兵たちが道を譲ろうとして、かえって足を止めている。
まだ、大勢が広場に残っていた。
魔神の顔が、そちらを向いた。
「道の両側へ! 広がって!」
兵たちが振り返った。
動けない仲間を抱えた者は、その場で身を屈める。
黄金の右腕が持ち上がった。
「熊族、盾を重ねろ!」
ベアードが大盾の下端を地面へ打ち込んだ。左右に重装兵が並び、メイジャーの騎士たちが隙間を埋める。
あの一撃を、盾で防げるはずがなかった。
それでも彼らは並んだ。
背後には、まだ運ばれていない仲間がいた。
「メイジャーさん……!」
「運んで、メリナ!」
振り返らず、彼女が叫んだ。
メリナは近くの兵へ声をかけ、動けなくなっていた負傷者を指した。二人が駆け寄り、その身体を抱え上げる。
間に合って。
黄金の腕が、振りかぶられた。
盾の列で、若い兵が目を閉じた。
ベアードがその肩を掴み、前を向かせた。
そのとき、北の空が白く染まった。
一直線に伸びてきた光が、魔神の側頭部へ直撃した。
魔神の顔が、跳ねた。
轟音とともに黄金の巨体が傾ぎ、振り下ろしかけた腕が空を掻く。踏ん張った足は石畳を削り、それでも勢いを殺せず、船体の前まで長い溝を刻んで滑っていった。
熱風が広場を駆け抜けた。
メリナは門柱にしがみついた。頭上を旗の切れ端が飛び、溜まっていた土煙が一息に押し流される。
盾の列は、残っていた。
誰もが身を屈めたまま、魔神を見ていた。
その頬から、金属が滴っている。
黄金の装甲が抉れ、赤熱した縁の奥に、黒い構造が露わになっていた。細かな破片が肩へ落ち、砕けて散った。
「……傷が」
メイジャーの口から、掠れた声が漏れた。
あの魔神に、傷がついていた。
メリナは、光の来た方角を振り仰いだ。
遠い山並みの上で、雲が割れていた。
その裂け目から、翼が現れた。
一度の羽ばたきで雲の縁が押し広げられ、金色の鱗に覆われた巨体が陽光の中へ進み出る。左右へ張り出した角の下で、長い顎がゆっくりと閉じられた。
牙の間に、白金の炎が残っていた。
いまの光は、あの口から放たれたのだ。
「アウレリウス……」
ベアードが、大盾を下げた。
「竜王アウレリウス・ドラグニール……!」
その名を聞いた兵が、空を見上げた。
担架を持つ者も、道を開ける者も足は止めなかった。ただ、俯いていた顔が上がった。仲間を呼ぶ声が、もう一度、広場を渡り始めた。
竜王は王都上空で翼を広げる。
その背に、メリナは人影を見つけた。
風に逆立つ鬣。
鱗の間へ爪を立て、魔神を見据える獅子の男。
レオナルト・アークヴェイン。
メリナの胸から、詰まっていた息がほどけた。
「……来てくれた」
魔神を倒せると、あの男は言った。
その言葉を信じた。信じて、ここまで兵を連れてきた。
いま、焼けた街の向こうで、黄金の魔神が傷ついた顔を上げている。その眼が追う先には、帰ってきた男と、彼が連れてきた竜王がいた。
メリナは魔道具を握り直した。
「後退を続けて! 動ける人は、負傷者に手を貸してください!」
メイジャーがこちらを見た。
頷き、騎士たちとともに盾の列を解いていく。ベアードも最後の担架を通し、自ら後退を始めた。
その頭上を、大きな影が渡った。
ガイツの笑い声が響く。
『おいおいおいおい、羽虫ってレベルじゃあねぇぞ!おい、貴様!名を名乗りやがれッ!』
竜王は答えなかった。
傷ついた兵たちが広場を離れていくのを、琥珀色の眼が見送った。その奥で魔神の右腕が動くと、巨大な瞳孔が細く絞られた。
翼が、いっぱいに開いた。
吹き下ろす風に瓦礫が転がり、魔神の足元へ土煙が押し戻されていく。
さ あ 、世 界 最 強 の 力 を 見 せ る と き だ 。




