空の支配者
竜王国ドラグニールに城壁はない。
空を飛べぬ者は、そもそも王都へ辿り着けないからだ。
切り立った峰々の間に、巨大な岩盤がいくつも浮かんでいる。
滝は地上へ届く前に霧となり、雲の海へ溶けていく。
岩盤をつなぐ橋はなく、翼を持つ竜人たちが空と空の間を行き交っていた。
レオナルトたちは迎えの飛竜へ乗せられ、最も高い岩盤へ降り立った。
そこにも宮殿はなかった。
広大な円形の岩場。
風雨に削られた石柱。
中央に、山と見紛うほど巨大な竜が伏せている。
金色の鱗。
左右に大きく広がる角。
閉じた瞼の上にも、長い年月が刻んだ傷がある。
竜王アウレリウス・ドラグニール。
二千年を生き、三度の大災害から北方諸国を守った、世界最強と謳われる生命体。
「久しいな、獅子の若造」
目を閉じたまま、竜王が言った。
声だけで足元の小石が震える。
「まだ我を若造と呼ぶか、老竜」
「我より若ければ若造よ。あと千年ほど生きてから文句を言え」
「その頃には、貴様は骨だぞ」
「竜の骨は万年残る。まだ我の方が上だな」
竜王の片目が開いた。
巨大な琥珀色の瞳に、レオナルトの全身が映る。
その視線が、胸元で止まった。
ペンダント。
ほんの一瞬だけ見たはずだった。
だが次の瞬間、アウレリウスの瞳孔が細くなる。
竜種の眼は、人とは違うものを見る。
呼吸。鼓動。魔力の揺らぎ。
そして、魂の表層に浮かぶ強い感情や意思。
言葉になる前のそれらを感じ取る感覚を、人は《竜眼》と呼ぶ。
もっとも、他者の心を自在に読めるわけではない。
感じ取れるのは、本人ですら隠しきれないほど強く刻まれたものだけ。
だが――二千年を生きた竜王ともなれば、話は別だった。
ペンダントへ触れるレオナルトの指。
そこに残る、死者への敬意。
人間の男から託されたものを手放すまいとする意思。
そして何よりも、
かつてビーストフォールの名だけを誇りとしていた獅子から、その名への執着が消えている。
アウレリウスは、そこまでを一瞥で見抜いた。
「ほう……人間の名を背負ったか、獅子王よ」
空気が重くなる。
同行した三人が身構える中、レオナルトだけは動かなかった。
むしろ、わずかに口元を上げる。
「さすがは竜王だな。話が早くて助かる」
「背負ったのは誰の名だ?」
「バルムド・アークヴェイン」
「ほほう……」
アウレリウスは、その名を舌の上で転がすように繰り返した。
「アークヴェインか」
そして、巨大な瞳が再びレオナルトを射抜く。
「亜人を捨てたか?」
「違うな、守るものを増やしたのだ」
竜王は、長くレオナルトを見つめた。
風が二人の間を通り抜ける。
「クックック、ならばよいだろう」
それだけだった。
巨体が起き上がる。
四本の脚が大地へ立つと、巨大な岩盤そのものがわずかに傾いた。
「それでここには何をしに来た?」
琥珀色の瞳が細められる。
「他者の姓を背負い、わざわざ我の山まで登ってきた。世間話ではあるまい」
「協力を求めに来た。アウレリウス、今の世界にはお前の力が……」
「まあ待て」
レオナルトの話を4文字で断ち切る竜王の言葉。
レオナルトは眉を上げた。
「断るのか…?」
「まだ何も聞いておらぬよ」
竜王の喉が鳴る。
笑っているのだ。
「二千年も生きるとな、結論を急がぬ程度の知恵はつく」
「ほほう、先ほどは我が名についてはやけにはやく結論を出したではないか」
「二千年も生きるとな、自分に都合の悪い話を忘れる程度の厚かましさも身につく」
ヴォルクが思わず顔を伏せた。笑いを堪えているのだ。
「相変わらず、性格の悪い竜だ」
「お互い様よ。話せ、若造」
レオナルトは地図を取り出した。
聖王国。自由国家フェルドラン。
そして、その上に現れた異邦の軍勢。
「世界の外から、敵が来た。奴等は【NZMナイトメアーズ】を名乗る」
竜王の笑みが消える。
「人間か?」
「わからぬ」
「魔族か?」
「わからぬ」
「では、奴らはいったい何だ?」
「我にも分からぬ」
竜王の瞳がわずかに動いた。
「分からぬ相手と戦えと言うか」
「そうだ」
「随分と雑な使者だな」
「分かっていることならある」
レオナルトは聖王都を指した。
「奴らはわずかな時間で聖王国を奪った。
自由国家フェルドランを一撃で廃墟にした。
現在は、二千を超える鉄の兵を従え、人間も亜人も区別せぬ」
「軍勢ならば、軍勢で討てばよいではないか」
「それができれば、我はここへ来ておらぬ」
レオナルトは竜王を見上げた。
「アンドリュー・ジャスティス・ガイツという男がいる」
その名が出た瞬間、空気がきしんだ。
竜王は口を挟まない。レオナルトが続ける。
「王を名乗るその男は、一言でいえば、理解不能の存在だ」
レオナルトは言葉を選んだ。
「対話はできる。いや、正確には言語が通じる、と言うべきだろう。
こちらの問いを理解し、こちらの言葉に答える。
だが、会話を重ねれば重ねるほど、奴らが何を考えているのか分からなくなる」
少しの沈黙。
「富を求めるわけでも、領土を欲するわけでもない。
名誉に執着するかと思えば、自らそれを笑い飛ばす。
命を軽んじるような振る舞いをしながら、時には赤の他人のために途方もない労力を費やす。
彼らの行動には一貫した目的が見当たらない。
少なくとも、我々の知る国家や軍隊、あるいは宗教の論理では説明がつかん」
レオナルトはフェルドランで見た光景を思い返した。
「狂人の集団であれば、まだよかった。狂気にも理由はある。
欲望にも、信仰にも、憎悪にも、それぞれ向かう先がある。
だが、あの男たちには、それが見えない」
そこで一度、言葉を切った。
「そして、何より厄介なのは――」
竜王の瞳が、わずかに細まる。
「奴らが、その理解不能な振る舞いを押し通せるだけの、絶対的な力を持っていることだ」
百を超える異形。
それらを従える、巨大な黄金像。
戦場に突如として鳴り響いた、常軌を逸した音楽。
そして、都市そのものを消し飛ばした一撃。
「あれほどの力を持つ者が、我々の理解できる野心を抱いていれば、まだ対処のしようもある。
だが、奴らは違う。何をもって勝利とするのか、何を失えば敗北と考えるのか。それすら定かではない」
レオナルトは静かに告げた。
「我々は、あの男たちと戦争をしているつもりだった。
だが、奴らが我々を敵と認識していたのかどうかさえ、今となっては疑わしい」
竜王は口を挟まなかった。
最後まで聞き終えると、ゆっくりと鼻から息を吐く。
熱を帯びた風が、レオナルトの鬣を揺らした。
「それで、お前は勝てぬと?」
「ああ」
迷いのない返答だった。
「我では届かぬ」
「ほう」
「ズィルヴァリア全軍を連れていっても同じだ。死体が増えるだけだろう」
竜王はしばらく黙っていた。
「獅子の若造よ」
「なんだ」
「お前が己より強い者の存在を認める日が来るとはな」
「我もそう思う」
「歳を取ったな」
「貴様にだけは言われたくない」
再び、竜王の喉が鳴った。
だが、レオナルトは笑わなかった。
片膝をつく。
獅子王が、他国の王へ頭を下げる。
ベアードたちが息を呑んだ。
「竜王アウレリウス・ドラグニール」
レオナルトは頭を垂れたまま言った。
「貴様の力を借りたい。この世界を守るために……!」
風だけが吹いた。返事はない。
やがて、巨大な影がレオナルトを覆った。
「顔を上げろ、レオナルト・アークヴェイン」
レオナルトが顔を上げる。
「お前の話を、すべて信じたわけではない」
「ああ」
「だが、お前が我に頭を下げた。それだけで、確かめに行く価値はある」
竜王は北東の空へ視線を向けた。
それは聖王国の方角。
「世界の外より来た魔神か」
巨大な牙が覗く。
「二千年生きたが、まだ見たことがない。
だが、我の世界に牙をむくのならば、行かねばならんな」
レオナルトの目が細くなる。
「だが、我が民は貸さぬぞ」
「何?」
「空を守る者まで連れていけば、ドラグニールが空になる。我のみで行く」
「な、なんだと…?」
「不満か?」
「いや……」
レオナルトは立ち上がった。
「これほど心強い武力を、我は他に知らぬ」
「ようやく王らしい世辞を覚えたか」
「世辞ではない」
「ならば、なお気味が悪いな」
竜王は大きく翼を開いた。
陽光が遮られ、岩場全体が影に沈む。
「我は世界最強などと呼ばれて久しい。
ゆえに、いつしか誰も我へ助けを求めなくなった。災厄が我を避けるとでも思ったか」
巨大な瞳が、細くなる。
「王が先に死ねば、国は迷う。
だが、王が死を恐れて民を前に立たせれば、その国は王より先に死ぬ」
風が巻き上がる。
「我が前に立とう。お前は我が背で、勝つ道を探せ」
レオナルトは竜王を見上げた。
「恩に着る」
「礼は勝ったあとで聞こう」
「では、先に一つだけ伝えておく」
「なんだ?」
「乗り心地には期待していないぞ」
竜王が牙を見せた。
「落としてやろうか、若造」
次の瞬間。
金色の翼が大気を打った。
岩盤の上に立つ全員が吹き飛ばされかける。
レオナルトは爪を岩へ立て、その場に踏みとどまった。
竜王の巨体が空へ上がる。
雲を突き抜け、旋回し、再び岩場へ向かって急降下してきた。
「乗れ、レオナルト・アークヴェイン!」
レオナルトは跳躍した。
竜王の背へ着地する。
鱗の一枚だけで、獅子の身体より大きい。
「まずは我が速さについてこい。戦場で振り落とされた者を拾うほど、我は親切ではないぞ」
「上等だ」
竜王は笑い、空を蹴った。




