黄金の灰
翌朝、ズィルヴァリア王城へ、一台の馬車が入った。
聖王国の紋章は外され、幌は泥に汚れている。
御者台に座る男も、荷台を囲む兵も、商人を装っていた。
その中から一人の少女が降り立つ。足取りには覚悟の重さがあった。
「メリナ・ハチミツと申します」
煤の跡が残る外套をまとい、彼女は王の前で頭を下げた。
一市民であった彼女が国の代表をしなくてはならない。
それほどまでに、状況は逼迫していた。
レオナルトは玉座に座らず、地図卓の前に立っていた。
メリナの視線が、彼の胸元へ向く。
あの日、フリーダム・スクエアで拾われたペンダント。
いまはレオナルトの首から下がっている。
「似合ってはいないですね」
「我もそう思う」
短いやり取りだった。
それで、二人の間にあった余計な儀礼が消えた。
「報告を」
レオナルトの声に応えるように、メリナは地図の上へ、小さな革袋を置いた。
革袋の口を開く。
金色の灰が、さらさらと地図の上へこぼれた。
それはかつて、聖遺物だったもの。
「聖王都で魔神が呼び出されたあと、設置していた聖遺物はすべてこれになったわ」
老呪術師が灰を指先ですくい、鼻先へ寄せる。
「魔力がありませぬな」
「ええ。空っぽ。金ですらない。見た目が金色なだけの、何でもない灰よ」
「他の聖遺物は?」
レオナルトが問う。
「残っていたものは、私たちが国外へ運び出した。
でも、フェルドラン南部で敵がもう一度魔神を呼んだとき、別のものが使われた」
メリナは三つの点を地図に記す。
冒険者ギルド。
アークヴェイン邸。
フェルドラン監獄。
「ワンブリッジは、聖遺物そのものが必要だったわけじゃない」
「強い意思が集まる場所か」
「たぶん。そして、一度使われた場所は……」
「同じく、力を失う」
メリナが頷いた。
レオナルトの爪が、机へ食い込んだ。
牢の中で、自分は祖国を思っていた。
敗北してなお、王であろうとしていた。
あの場所に残されていた意思。
それすらも、ワンブリッジに道具として使われた。
メリナは、その手を見た。
「……でも、一つだけ分からないことがある」
「何だ?」
「場所だけじゃない」
レオナルトが顔を上げる。
メリナの視線は、彼の胸元。
ペンダントではない。
その向こうにいる、レオナルト自身へ向けられていた。
「あなたも利用されたように、奴らは人そのものを錨にすることすらあるわ」
広間の空気が変わった。
レオナルトの爪が止まる。
「我を?」
「フェルドランで魔神が現れたとき、監獄そのものが錨になったのではないでしょう?」
「……そうだ」
「聖遺物でもない。建物でもない。場所ですらない。生きた人間を起点にして、奴らは扉を開けた」
ベアードが一歩前へ出る。
「ならば陛下のお身体にも、何か異変が?」
「それが、そうじゃないの」
メリナは地図の上の黄金の灰を指先でなぞった。
「聖遺物は灰になった。使われた場所からも、残っていた力は消えた。
でも、人の場合は全く違う。レオナルトさんは生きているし、バルムドさんも死ななかった」
レオナルトは黙って自分の掌を見る。
傷。
血。
爪。
何一つ、あのとき以前と変わってはいない。
「人を錨にする条件も分からない。
誰でもいいわけじゃあなさそう。でも、単に強い意思が必要なのか、それとも別の何かがあるのか」
メリナは首を振る。
「もっと分からないのは――どうして人だけが、使われても灰にならないのか」
誰も答えなかった。
老呪術師が黄金の灰を見つめる。
「人と物では、何かが違う……?」
「それすら分からない。分かっているのは、同じように錨として使われても、同じ結果にはならないということだけ」
メリナは灰のついた指を払った。
「だから、決めつけない方がいい。私たちはまだ、奴らのやっていることの一部しか見ていない」
レオナルトは、しばらく自分の掌を見ていた。
やがて拳を握った。
「ならば現在、聖王国内に奴らが魔神を呼ぶための座標はない――とは言い切れぬな」
「ええ。私たちが知っている座標は、もう残っていない。それだけよ」
メリナは慎重に付け加えた。
「あの男……ワンブリッジは、私たちが知った答えを次も使うような男じゃないわ」
「その通りだ」
レオナルトは、聖王都の上に置かれた黒い駒を見る。
「他にも何かあるようだな」
「ええ、NZMの幹部が二人、王都を離れている」
地図の北部と西部へ印がつく。
「高藤ストレンジネスは北方へ。魔王領に近い山岳地帯から、何者かが聖王国へ小規模な襲撃を繰り返している。それを追っているわ」
「何者だ?」
「分からない。でも、襲撃の跡には必ず、鋭い刃物で切断された機械兵が残されている」
メリナの指が一瞬だけ止まった。
何かを期待し、しかし口にすれば壊れてしまうと恐れているような間だった。
「もう一人。久保田ジュウシマツはフェルドランへ。破壊した都市の再建と統治を進めている」
「奴らが、再建を?」
「ええ。瓦礫を退け、道を直し、食糧まで配っているそうよ」
メリナの表情がわずかに歪んだ。
「自分たちで壊しておいてね」
レオナルトは何も答えなかった。
敵を理解したと思った瞬間に、その理解から外れたことをする。
それこそが、あの者たちだった。
「ならば聖王国に残るのは――」
「ガイツとワンブリッジ。少なくとも、幹部はその二人だけ」
好機だった。
あまりにも出来すぎた、好機。
レオナルトは目を細める。
「聖王国軍は動かせるか?」
「動かすわ」
メリナは迷わず答えた。
「王都の正規兵も、地方へ逃れた騎士も、ガイツを王だなんて認めていない。
外から大軍が来れば、それを合図に内側から門を開ける」
「だが亜人の軍だぞ」
「知っている」
「貴様らが昨日まで敵と呼んだ軍だ」
「それも知っている」
メリナはレオナルトをまっすぐに見た。
「でも、あなたも昨日まで人間を敵と呼んでいたでしょう」
沈黙。
ベアードがわずかに眉を動かしたが、レオナルトは笑った。
ほんのわずか、牙を見せる。
「違いない」
メリナは地図を畳んだ。
「聖王国の中は、私がやる。あなたは、あなたにしか頼めない相手のところへ行って」
「フッ……竜王のことまで知っていたか」
「パン屋はね、噂話が集まるのよ」
それだけ言うと、メリナは踵を返した。
「娘」
レオナルトが呼び止める。
「何?」
「なぜ、我を信じるのだ?」
メリナは振り返らなかった。
「信じていないわ」
一拍。
「バルムドさんが、あなたに鍵を渡したことを信じてる」
扉が閉じる。
残された金色の灰が、窓から差し込む朝日に照らされた。
黄金でありながら、何の価値もないもの。
使い切られた祈りの跡。
レオナルトはその灰を革袋へ戻し、胸元へ収めた。
もう二度と、誰かの意思を道具として使わせぬために。




