継承
夜は、静かだった。
フェルドラン監獄――石壁の奥、鉄格子の向こう側で、ひとりの男が目を閉じていた。
獣の気配をまとったその男――レオナルト=ザイ=ビーストフォールは、微動だにしない。
だが、その耳だけは、わずかな足音を捉えていた。
規則正しく、迷いのない足取り。
やがて、それは止まる。
鍵の触れ合う、乾いた音。扉が開く。
レオナルトは、ゆっくりと目を開けた。
「……貴様だったか」
鉄格子の前に立っていたのは――バルムド・アークヴェイン。
短い沈黙。
互いに、測るような視線。
敵だった。
思想も、種も、立場も――何もかもが違う。
だが今、この瞬間だけは。
同じ“先”を見ている。
バルムドは、何も言わず鍵を取り出した。
無造作に、鉄格子の向こうへと放る。
乾いた音が、床を跳ねた。
レオナルトはそれを取らない。
ただ、落ちた鍵を見下ろしている。
「……どういうつもりだ」
低い声。
疑問ではない。意図の確認。
バルムドは、肩をすくめた。
「保険だよ」
「ほう」
「昔な。最悪を前提にして、全部組み直す仕事をしてた」
軽い口調。
だが、その中身は一切軽くない。
「もちろん、勝つつもりで行く。だが――」
言いかけた、その瞬間。
「言うな……!」
レオナルトが遮った。短く、鋭く。
空気が一段、張り詰める。
その視線は、真っ直ぐにバルムドを射抜いていた。
「勝つんだろう。人間の英雄よ」
ほんの一瞬の沈黙。
バルムドは、ふっと息を抜くように笑った。
「……ああ。そうだ」
それで十分だった。
それ以上は、不要。
バルムドは背を向ける。
振り返らない。
足音が、遠ざかっていく。
「――バルムド・アークヴェイン」
低く、名を呼ぶ声。
足は止まらない。
だが、確かに届いている。
「我に勝った男よ」
「貴様の勝利を――ここで見届ける」
返答はない。
ただ、足音だけが続く。
迷いなく。
躊躇なく。
そして――消えた。
***
世界は、終わっていた。
フリーダム・スクエア。
かつて人々の笑いと喧騒が渦を巻き、希望も野心も、怒号も祝福も、すべてを飲み込んでいたフェルドラン最大の広場は、いまやただの“跡”だった。
石は砕かれ、土はめくれ、空気そのものが焼け焦げたように淀んでいる。そこには戦闘の痕跡などという生易しい言葉では到底足りぬ、世界そのものが一度ひっくり返されたかのような無惨さだけがあった。
その更地の中央に、ひとりの影が立っていた。
レオナルト=ザイ=ビーストフォール。
亜人王は、風ひとつ起きぬ破滅の広場を静かに見渡していた。
その眼差しに、もはや迷いはない。
遅かった――その事実も。
間に合わなかった――その結果も。
すでに受け入れている。
(……遅かったな)
だが、それでも。
ここにはまだ、“何も残っていない”わけではなかった。
あの瞬間。
虚数空間カタパルトが起動し、世界の裏側へと意識ごと引きずり込まれた刹那。
確かに、会った。
幻ではない。
夢でもない。
あれは比喩でもなければ慰めでもない。確かに、バルムド・アークヴェインという男の内側が、濁流のように流れ込んできたのだ。
戦い。
選択。
恐怖。
怒り。
覚悟。
そして――
それでもなお、美しいと思った世界。
守るに値すると、命を懸けてなお断じた世界。
「……なるほどな」
レオナルトは小さく息を吐いた。
それは納得であり、悔しさであり、そしてどこか敬意にも似ていた。
足を動かす。
瓦礫の上を、ゆっくりと。
王の歩みではない。
戦場を見届ける者の歩みだった。
そのとき、不意に視界の端で何かが光を弾いた。
わずかな、金の反射。
レオナルトは足を止め、身を屈める。
瓦礫と灰に半ば埋もれるように、それは落ちていた。
ひとつのペンダント。
小さく、ありふれた装飾品だ。
だが、今この場でそれだけが異様なほど“残っていた”。
レオナルトはそれを拾い上げた。
軽い。なのに、妙に重い。
意味を知らぬはずの手のひらに、その重さだけが妙に強く伝わってくる。
そのときだった。
「……それ……!」
鋭い、しかし掠れた声が飛んだ。
レオナルトが振り返る。
そこに立っていたのは、ひとりの少女――いや、少女と呼ぶには、もう少しだけ強い顔をした若い女だった。
メリナ・ハチミツ。
煤に汚れた服。泥にまみれた靴。頬には乾ききらぬ血と灰が筋を残している。
だが、その目は怯え一色ではなかった。
恐れてはいる。
目の前の相手が獣人であり、しかも尋常ならざる威圧をまとっていることを理解しているからだ。
それでも、退かない。
その視線は、真っ直ぐにレオナルトの手元――ペンダントへ向けられていた。
レオナルトは、相手が何に反応したのかをすぐに悟った。
ゆっくりと、手の中のペンダントを掲げる。
「……これは、お前のものか?」
メリナは一瞬だけ息を呑んだ。
だが、取り乱さない。
声を震わせながらも、きちんと立っていた。
「いいえ。……私が、バルムドさんに託したものよ」
その一言を口にした瞬間、空気が変わる。
自分で言葉にしてしまったからだ。
それが“ここにある”ということの意味を。
顔色が、すっと抜ける。
だが、膝は崩さない。
メリナは唇を噛み、レオナルトを見た。
「……教えて」
弱々しくではない。
必死に、だが真っ直ぐに。
「それがここにあるってことは……バルムドさんは、どうなったの?」
問いかけるというより、受け止める覚悟を決めた者の声だった。
レオナルトはしばし黙した。
安易な慰めを与える気はなかった。
それは、あの男に対しても、この娘に対しても不誠実だ。
だからこそ、言葉を選ぶ。
「バルムド・アークヴェインは――ここにはいない」
メリナの喉が小さく鳴る。
だが、目を逸らさない。
レオナルトは続けた。
「だが、死んではいない……!」
はっきりと断言した。
それは生存の保証ではない。だが、敗北の証でもなかった。
メリナの瞳が揺れる。
希望に縋ったからではない。
その言葉の“意味”を測ろうとしたからだ。
レオナルトはペンダントを握りしめた。
「奴は消えたのではない。置いていったのだ」
「置いていった……?」
「――意思をな」
風が吹く。
焼け跡の灰が舞い上がり、更地となった広場を静かに横切っていく。
レオナルトは、その風の中でゆっくりと顔を上げた。
「この世界は、貴様ら人間だけのものではない。
我もそう思っていた。だから奪おうとした。だから戦った」
その声は低く、重い。
「だが、あの男は違った」
ペンダントを見下ろす。
「己の世界も、この世界も、どちらも本物だと言った。
どちらも美しいと断じた。その上で、守るに値すると決めた」
レオナルトの金色の瞳が、静かに細まる。
「ならば、その意志に種族の違いなど、もはや些事だ」
メリナは、ただ黙って聞いていた。
泣いてはいない。
泣く段階を、もう一つ越えた顔をしていた。
レオナルトはペンダントを胸元へと収める。
それは奪う仕草ではなかった。
継ぐ仕草だった。
「安心しろ。バルムド・アークヴェインの意志は、我が引き継ぐ」
静かに。
だが、世界に刻みつけるように。
「我はもう、レオナルト=ザイ=ビーストフォールではない」
メリナが目を見開く。
レオナルトは、更地となったフリーダム・スクエアの中心で、まっすぐ前を見据えた。
「レオナルト・アークヴェイン……だ!」
その名は、奪ったものではない。
譲られたものでもない。
戦いの果てに、確かに託されたものだ。
意思を。
覚悟を。
そして、あの男が最後に見た、美しい世界を。
メリナは、その名を胸の内で反芻した。
奇妙だった。
本来なら受け入れられるはずのない名だ。
敵であった男が、あの人の名を継ぐなど。
なのに、不思議と否定する気にはなれなかった。
それはきっと、バルムド・アークヴェインという男が、最後の最後に“次の勝ち”を持ち帰ったからだ。
この戦いは敗北した。
フェルドランは壊れた。
多くのものが失われた。
それでも。
終わってはいない。
終わらせないと決めた意志が、確かにここに残った。
灰の中に、わずかな光がある。
それはまだ、小さい。
吹けば消えるほど頼りない。
だが――
確かに、消えてはいない。
だからこそ。
世界は、まだ終わらない。世界の果てはまだまだ先だ。
【第二章完結】
第2章までお読みいただき、ありがとうございます。
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次回更新:第3章 第1話「開かれた扉」 10月10日 8時10分
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