前触れ
アークヴェイン邸に差す灯りはわずかだった。
中央都市の静けさとは別種の、もっと古く重い静寂が屋敷全体に溜まっている。
バルムドはゆっくりと廊下を歩いた。
父に会うのは、冒険者になって以来だった。
扉を開けると、アークヴェイン卿は大きな書物の前に座し、淡い魔光の下でページを閉じた。
「……来たか」
「父上。話があります」
父は息子を一瞥し、短く頷いた。
「わかっている。フェルドランに迫る脅威についてだな?」
「はい。私とラザルを除くS級冒険者は全員死亡しました。奴らは、支配ではなく、ただ破壊を重ねている。ラングロード卿から既に話があったと思いますが――父上、奴らは“錨”を探しているようなのです」
アークヴェイン卿はわずかに目を伏せた。
「聞いている。魔神を呼ぶための“錨”……聖王国の悲劇を生んだのは聖遺物だった。そして、先日お前たちの前に立ちはだかった魔神――その際には、ゴルド、ミレーネ、バルムドの三人だったと聞いている」
「ゴルドとミレーネがいなくなった今、フェルドランにある“錨”は私だけです。これは裏を返せば――魔神降臨までは奴らも私に手出しはできないということです」
バルムドの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
アークヴェイン卿はそれを察しながらも、表情を変えずに問う。
「ならば、バルムド。お前はどうするつもりだ?」
「使われるだけでは性に合いません」
即答だった。
「奴らが私を使うというのなら、その瞬間に喉元へ食らいついてみせる」
その目に、確かな決意が灯る。
アークヴェイン卿はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外、真っ暗な都心を見下ろした。
「……バルムド。この世界には、かつて“正しい力”しか存在しなかった」
静かな声が、夜に溶ける。
「だが、間違った力は芽吹く。理を踏み越え、人を踏みにじり、それでもなお力として振るわれるものが現れる」
ゆっくりと振り返る。
「そうなったとき、それを命を賭して止める者が必要になる。それが我らアークヴェインの役目よ」
バルムドの語気に力がこもる。
「なればこそ、今こそアークヴェインの役目を果たすときかと。アンドリュー・ジャスティス・ガイツ――奴が間違った力であることは明らかだ。ならば、それを止めるのは――このバルムド・アークヴェインです」
短い沈黙が落ちる。
そのときだった。
ふと、アークヴェイン卿の視線がバルムドの胸元で止まった。
「……その首飾り、見慣れんな、意匠がこの国のものではないな」
バルムドは一瞬だけ視線を落とす。
「預かりものです」
それだけ答えると、父は深くは聞かなかった。
ただ一度だけ、何かを測るように目を細めた。
それ以上、この話題には触れない。
アークヴェイン卿は再び視線を戻し、淡々と続けた。
「錨の条件が強さではないのなら、奴らは“意味”を狙う」
「意味……」
「人が集まる場所。信仰が重なる場所。あるいは――何かを背負わされてきた者そのものか」
バルムドの中で、何かが引っかかる。
だが、それはまだ言葉にならない。
「焦るな」
父の声は低い。
「敵の狙いが見えぬときほど、こちらが形を決めるな。見極めろ。お前が掴むべきは、敵の力ではない。敵の都合だ」
「……はい」
「そして忘れるな。お前が背負っているのは、名や血だけではない。ここまで生き延びた者の選択そのものだ」
バルムドは静かに頷いた。
父と子の会話はその後も続き、夜はすっかり更けていった。
***
石畳を踏むたび、冷気が骨へ染み込んでいく。
(俺以外の残り二つ――ゴルドとミレーネの代わりとなる存在。二人と同格の戦力であるS級が簡単に殺されているところから、“錨”の条件は強さじゃねぇはずだ)
考えろ。何かを見落としている。
思考は霧の中をさまよう。自問自答、自己嫌悪、堂々巡り。
石畳を降りきったとき、風が一瞬、止まった。
「……ッ」
夜気が濁る。
気配が、音もなく滑り込む。
月光に照らされた民家の屋根の上に、ふわりと黒い影が降り立つ。細く、小さく、軽い。だが――そこに立つだけで空気が変わる。
一目でわかる。
こいつは、あいつら側の存在だ。
黒布で顔の半分を覆い、忍びのように音を排除した歩法。目だけが、暗闇に不気味な光を宿している。
バルムドは剣を握り、問いかけた。
「おまえら、フェルドランのど真ん中に何の用だ?」
「プラズマ枢機卿曰く――小さな錨と大きな錨。必要なのは大きな錨」
「大きな錨……だと?」
淡々とした声。無機質。
怒りより先に、違和感が走る。
「なるほどな。小さな錨じゃ足りない。もっと“大きな何か”を狙っている――そういうことか」
久保田はほんのわずかに瞼を閉じる。
肯定でも否定でもない沈黙。
そして、
「プラズマ枢機卿曰く――鳥は枝を選ばぬ。巣を選ぶ」
「巣……?どういう意味だ」
次の瞬間、久保田の姿がねじれた。
影が裂け、残像だけを残して消える。闇に溶けるように。
「くそッ……待て!!」
バルムドは剣を抜き、闇へ踏み込む。
だが――もう遅い。
そこには、何もいなかった。
(消えた……? 奴の狙いは何だ……)
思考がまとまらない。
その夜、バルムドの頭は答えを拒否した。
***
中央都市の街はずれ、防衛城壁の上。
久保田ジュウシマツは街を見下ろしていた。
かつては優美だった街の灯りは、今はまばらに揺れている。
「プラズマ枢機卿曰く――ひとつでひとつをやる者は愚かなり」
夜風の中で、久保田がニヤリと笑う。
――そのうちのひとつが揺らいだ。
否。
揺らいだと思ったときには、すでに久保田の眼前に迫っていた。
爆ぜるような衝撃音。
「ッ……!」
石壁が砕け、土煙が舞う。
久保田ジュウシマツ、流血。左側頭部に深刻な損傷。
周囲の空気が歪む。
一歩一歩、何者かがこちらに近づいてくる。
だが、それは地を歩いているわけではなかった。
空中に光の階段を作り、それを堂々と上ってくる異質な存在。
やがて、その全貌が浮かび上がる。
筋骨隆々の巨躯――常人の三人分はあろうかという体格。
纏う空気は明らかに異質。
手には、その巨躯をなお上回る巨大な槍。
その背中は、山そのものを思わせた。
久保田は理解する。
これこそが最後のS級冒険者。
天穿ち――ラザル・グレイホルム。
久保田は瓦礫の上に軽く立ち、黒布を揺らした。
「プラズマ枢機卿曰く――山を穿つは刃にあらず、意思なり」
ラザルは返さない。
その沈黙が、嵐より重い。
やがて、口を開く。
「小童がッ!今すぐぶっ殺してやるから覚悟しておけッ!」
怒号が夜を裂いた。
【久保田ジュウシマツ VS ラザル・グレイホルム】
戦いは、すでに始まっていた。
【次の話】
第32話「想定通り」
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