皇帝の誤算
フェルドラン南方の空を、巨大な飛空艦隊が雲海ごと裂くように進んでいた。
魔導帝国ヴォルザーク。
魔術と科学、その両輪を極限まで磨き上げた大国。
皇帝マグヌス=エル=ヴォルザーク自らの命を受け、フェルドラン救援のために編成された艦隊だった。指揮を執るのは、魔導帝国軍司令官ラウル・ディルセント大将軍。燃えるような赤髪と、眉に残る古傷。腕利きにして、皇帝の懐刀と呼ばれる男である。
ラウルは旗艦《クリスタル1号》の甲板に立ち、前方の空を見据えていた。
「……嫌な空気だな」
副官が横顔をうかがう。
「将軍?」
ラウルは返事の代わりに、わずかに顎を上げた。
眼前には、何もない。
測距儀も、魔力探知儀も、異常なし。
だが、それでも――何かがいる。
そうとしか思えない圧が、雲海の向こうから押してきていた。
「気流の問題ではない」
低く、言う。
「前に、何かいる」
副官が息を呑んだ。
軍人として優秀であるほど、曖昧な言葉を嫌う。
そのラウルが、根拠のない感覚をそのまま口にした。
それだけで、尋常ではないと知れた。
「全艦、対地魔導砲、起動準備」
「はっ!」
命令が走る。
飛空艦隊が一斉に減速し、艦腹に組まれた魔導紋章が展開を始めた。青白い光が連鎖し、雲の底まで照らしていく。
そのときだった。
大地ではなく――空が鳴った。
ドン。
ドン。
ドン。
一定の間隔を持つ爆裂音。
何かが、空間そのものを叩きつけながら接近してくる。
「何だ、この振動は!?」
「将軍、前方に高速反応! 速い、測定不能――!」
副官の声が裏返る。
ラウルは目を細めた。
雲海の向こうで、黒い影が跳ねた。
違う。
跳んでいるのではない。
――空を殴っている。
その反動で、次の空へ進んでいる。
意味が分からなかった。
飛行でもない。落下でもない。滑空でもない。
人型の何かが、拳で空間を打ち砕きながら、二千を超える高度をこちらへ詰めてくる。
「個体で……?」
誰かの呟きが、震えていた。
「高度二千だぞ……?」
影が近づく。
速い。
あまりに速い。
機動の理屈が分からないものを、操艦も隊列も対空砲も追えない。
その姿がようやく輪郭を持った瞬間、ラウルは見た。
斜めに被った黄金の王冠。
首から提げた異常な大数珠。
袈裟めいた黒い衣。
そして、裂けるように笑う口。
帝国本土にまで轟いていた脅威の名を、ラウルは思い出す。
(間違えない、これがアンドリュー・ジャスティス・ガイツ――!)
次の瞬間、その巨影は《クリスタル7号》の真横にいた。
「いぶし銀な必殺技よ! 漢を見せる拳の一撃ッ!」
楽しげな声が、空に響く。
「第一近接昇華術式《音拳》――寂滅ッ!!」
ただの正拳突きだった。
だが、その拳は飛空艦の装甲を、障壁ごと、艦橋ごと、艦体の中心線から丸ごと抉り取った。
爆炎が膨れ上がる。
艦は裂け、赤い点が空へ散った。
「《クリスタル7号》、沈みます!!」
「全艦回避! 敵から距離を取れ!!」
ラウルが叫ぶ。
だが、遅い。
ガイツはすでに“次”へ跳んでいた。
ドン。
ドン。
ドン。
空を殴って進むたび、艦隊の上空を理不尽が移動する。
そして――
「寂滅ッ!!」
光の軌跡。
《クリスタル9号》が爆ぜる。
「寂滅ッ!!」
《クリスタル4号》の船首が消える。
「寂滅ッ!!」
護衛艦が障壁ごと両断される。
音拳。
音拳。
音拳。
連打だった。
ラウルの顔色が変わる。
戦士であれば誰しも一度は考える。
必殺技を、制限なく連発できたなら。
切り札を、呼吸のように振るえたなら。
自分は無敵なのではないか、と。
だが普通、そんなことは起こらない。
強い力には制約がある。消耗がある。間合いがある。隙がある。
しかし、ガイツの《音拳》は違った。
ただの正拳突きだ。
ただし、それを放つのがガイツであるという一点だけで、必殺技になってしまっている。
だから、止まらない。
だから、質が悪い。
思いついた最悪が、そのまま実現していた。
飛空艦隊の半数以上が、会敵から数分で霧散した。
「将軍……! クリスタル級は本艦を残し、すべて撃墜されました!」
「やつが来る!」
直感だった。
だが、その通りになった。
ズドンッ! と鈍い衝撃が甲板を揺らす。
ガイツは《クリスタル1号》の甲板に、まるで巨大な釘のように突き刺さっていた。
あり得ない光景だった。
どうやって突っ込めば、そうなるのか分からない。
だが、突き刺さった本人は満足げに笑っている。
ラウルは、その異常さを一瞬だけ切り捨てた。
今は――好機だ。
「好機だ! 今しかあるまい!」
ハッチが開く。
ラウルの全身を魔導光が覆った。
帝国式魔導兵装弐式《ディルセント・アームズβ》。
対ドラゴン戦を想定して造られた、魔導帝国の粋を集めた戦闘兵装だ。
蒼い装甲が肩から腕へ展開し、背部の魔導炉が咆哮する。
「聖王ガイツよ――帝国の名において、貴様に裁きを下す!」
甲板を蹴る。
蒼い残光を引きながら、ラウルは一直線にガイツへ迫った。
右腕の魔導ブレードが展開する。振り抜けば、ドラゴンの鱗すら断つ切断力。
「――はぁぁッ!!」
斬撃がガイツの肩口を捉えた――はずだった。
ギィィンッ!!
異音。
鍛冶場で鉄と鉄が激突したような、耳障りな高音。
切れていない。
「ならば――!」
左腕が開く。
魔導砲の砲口に蒼光が収束した。
「喰らえッ!!」
閃光が放たれる。
その瞬間、ガイツは、ただその場でお辞儀をした。
それだけだった。
直撃したはずの魔導砲は、ガイツの頭頂で砕け、四方八方へ霧散した。
回避ではない。防御ですらない。ただ、お辞儀をしただけだ。
ラウルの喉が凍りつく。
(……違う)
(強さの次元が、そもそも違う)
そのとき、ガイツが甲板から垂直に跳ね上がった。
発射されたとしか言いようのない速度だった。
姿勢も表情も崩さないまま、さっき自分が突き刺さっていた穴から、まっすぐ空へ。
「ハッ! それがてめぇらの切り札ってわけだ!」
高空から、愉快そうな声が降る。
「なら、それに応えるってのがガイツの流儀だろうがよォ!」
右腕が軽く回る。
その動きだけで、空気が止まった。
ラウルの背筋を、氷の針のような悪寒が走る。
(何を出すつもりだ……?)
(いや、何でもいい……ひとつだけ確かなことがある)
(――ろくでもないことになる)
ガイツの手が何もない空間を掴んだ。
空間が軋む。裂ける。
そこから、黄金に輝く巨大な柄が、ずるりと引き抜かれた。
「……っ!?」
柄の先に続くのは、質量そのものみたいな“何か”だった。
刃なのか。棍なのか。槌なのか。
形を認識する前に、圧だけが先に届く。
――あれは、自分の生存を許さない。
ラウルは、そう理解した。
その後のことを、語る者はいない。
残ったのは、後日、魔導帝国皇帝の元へ届けられたたった一行の報告だけだった。
【フェルドラン救援飛空艦隊、完膚なきまでに全滅。】
その報告を受け取った皇帝マグヌス=エル=ヴォルザークは、しばらく目を閉じたまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
理解したのだ。
これは、失策だったのだと。
【次の話】
第31話「前触れ」
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