絶望の包囲網
冒険者ギルドの扉は、以前よりもずっと重くなっていた。
ギギィ――と鈍い音を立てて開いた瞬間、かつてそこに満ちていた喧騒は、どこにもなかった。
酒の匂いもない。
笑い声もない。
依頼の取り合いも、武勇伝の張り合いも、誰かが卓を叩いて怒鳴る声もない。
代わりに満ちているのは、押し殺した怒りと、どうしようもない恐怖と、誰にも口にできない願いが絡み合った沈黙だった。
「……来たか、バルムド」
奥の大机から顔を上げたのは、ギルドマスター、ドルマン・アーグレイ。
元S級冒険者。豪快さを売りにしてきた男の声は、今日は擦り切れた紙みたいに掠れていた。白い髭は伸び、目の下の隈は深い。
バルムド・アークヴェインは、黙ってその前まで歩いていく。
周囲の冒険者たちが一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らした。
その目は、英雄を見る目ではない。
希望を見たいのに、現実のほうが先に見えてしまっている人間の目だった。
「座れ」
短い声に従い、バルムドは椅子へ腰を下ろした。
机の上には、フェルドラン全土の地図。
その上に、無数の赤い印が打たれている。
潰された砦。連絡途絶。焼失した町。逃げ遅れた村。
見れば見るほど、国土そのものが血を流しているように見えた。
ドルマンが、重い息を吐く。
「北部は壊滅。東部も焼け野原だ。西部は連絡が途絶えて、これで三日。まともに機能してるのは、中央と南部だけだ」
バルムドの眉が、わずかに動いた。
「北部にはロアンがいた。東部にはグロウ・バレットのおっさんと、フェリア姉さんもいたはずだ」
ドルマンは返事をしなかった。
代わりに、三枚の紙を差し出した。
バルムドはそれを受け取り、目を落とす。
S級冒険者 ロアン・マクレイ――北部にて死亡確認
S級冒険者 グロウ・バレット――東部にて死亡確認
S級冒険者 フェリア・マイス――東部にて死亡確認
数秒、何も言えなかった。
ロアン。
グロウ。
フェリア。
どいつも、バルムドにとっては“自分より上”だと認めていた連中だ。
単体の戦闘力で見れば、自分より強い。
それでも――死んだ。
「……覚悟はしてたつもりだったんだがな」
紙を机に戻す手が、ほんのわずかに震える。
「俺はあの場を見てる。南部で、あいつらが何をやったか見てる。だから、S級だろうが関係ねぇって、頭では分かってた。……でもよ」
喉が、乾く。
「クソッ……やっぱ、震えが止まらねぇ」
ドルマンは何も言わなかった。
慰めになる言葉がないことくらい、分かっている。
バルムドはゆっくりと息を吐き、顔を上げた。
「確認だ。生きてるS級は、俺と――」
「ああ」
ドルマンが、短く答える。
「天穿ち《ラザル・グレイホルム》だけだ」
その名が出た瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。
ラザル・グレイホルム。
現役S級冒険者の頂点。
五十年以上、最前線に立ち続ける男。
フェルドランの冒険者の中で、何千、何万の人間がその背中を見て育っただろう。
人類の到達点。そう呼ばれても、誰も笑わない存在だ。
だが――
「言っておくが、ラザルなら倒せる、なんて話にはならんぞ」
ドルマンの声は、低く、重い。
「今回ばかりは、あの男をもってしてもだ」
「……だろうな」
バルムドは乾いた笑みを浮かべた。
「つまり個人戦力で見りゃ、もう勝負は決まってるってことだ」
冗談めかした言い方だった。
だが拳は、机の下で硬く握られている。
南部で見た虚数の光。
世界が抜ける感覚。
ストレンジネスの狂気。
そして、あの魔神。
勝てない。
ラザルをもってしても勝てない。
それだけは、理屈ではなく確信だった。
まして、その上に君臨する男がいる。
(アンドリュー・ジャスティス・ガイツ……)
(高藤ストレンジネスより甘いわけがねぇ)
沈黙を破ったのは、ドルマンだった。
「バルムド」
地図の中央都市に指を置く。
「お前はどう見る」
短い問い。
だが、この場で最も重い問いだった。
バルムドは目を閉じた。
暗闇の中に、あの日の南部を思い描く。
世界が抜け落ちた感覚。
空が落ちてきた、あの瞬間。
「……あいつらの目的は、ただの報復じゃねぇ」
ゆっくりと、口を開く。
「聖王アンドリュー・ジャスティス・ガイツは、フェルドランを舞台に選んだ。
あいつらは、この国でもう一度――いや、それ以上の規模で魔神を降ろすつもりだ」
ドルマンの目が細くなる。
「……やはり、お前もそう見るか」
「ああ」
バルムドは地図を睨んだまま続けた。
「南部で起きたことは偶然じゃねぇ。あれは“実験”だ。成功したから次に来た。
今度はフェルドランで本番をやるつもりだ」
自分の胸元を、指先で軽く叩く。
「俺は一度、あいつらの“錨”に使われてる。なら、もう一本目は打たれてると考えるべきだ」
「……錨」
「問題は、残り二つが何かだ」
バルムドは地図の上に指を走らせた。
三点を結ぶように、見えない三角形を描く。
「南部では、俺とゴルドとミレーネが使われた。聖王国では聖遺物も絡んでたって話だ。
条件はまだ読めねぇ。だが、俺以上のS級冒険者たちが殺されている事実から、少なくとも単純な魔力量や腕力だけで決まってるわけじゃないはずだ」
ドルマンが唸る。
「フェルドランは歴史が浅い。聖王国みてぇな代物は少ないはずだが……」
「そう願いてぇところだな」
バルムドは肩を竦める。
「だが、あいつらは必ず仕掛けてくる。だったら先に見つけるしかねぇ」
「……何をだ」
「“錨”だよ」
バルムドの目に、ようやく生気が戻る。
「奴らより先に“錨”を見つける。それが今打てる最善手だ」
勝てない相手を正面から倒す方法ではない。
勝てない相手に、勝ちの盤面を作らせない方法だ。
言い切ると、椅子から立ち上がった。
「使われようが、縛られようが、どうされようが構わねぇ。だが、先に読めるなら、出し抜ける」
地図の上に影が落ちる。
「ガイツに好き勝手やらせる前に、こっちから牙を立てる」
そして、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「ついでに、あいつの首も取るさ」
ドルマンが、呆れたように笑った。
「欲張りな野郎だな」
「今さらだろ」
「違いねぇ」
ドルマンは椅子の背にもたれ、周囲に聞こえるように言った。
「聞いたな、てめぇら。ここにあるもんは何でも使え。
武器でも、地図でも、記録でも、人手でもだ。ギルドマスター権限だ。文句は言わせねぇ」
「お、出たな職権乱用」
「ありがたく思え」
乾いたやり取り。
だが、それだけでギルドの空気がわずかに揺れた。
ほんの少しだけ。
それでも確かに、風が戻った気がした。
***
自由国家フェルドランと魔導帝国ヴォルザークを結ぶ街道。
本来ならそれは、“文明の脈動”と呼ばれるべき道だった。
商隊が行き交い、旅人が歌い、魔導具を積んだ馬車が軋む。
富と情報と人が流れる、大動脈。
だが今、その街道は、ただの“沈黙の廊下”になっていた。
「……嫌な風だな」
雷槍を肩に担いだ青年――A級冒険者トルク・ヴァレイが、低く呟いた。
「風か?」
隣を歩く二刀流の剣士、同じくA級冒険者ユーリ・ユーリが首を傾げる。
「いや」
トルクは槍を握り直す。
「空気が死んでる」
フェルドランからヴォルザークへ向かう、十人編成のA級冒険者部隊。
使者として、援軍要請と情報伝達を任された精鋭だった。
「静かすぎる……」
誰かが言う。
その瞬間。
ズン――
大地が、低く鳴った。
地震ではない。
もっと嫌なものだ。
世界の骨が軋むような、底のほうから這い上がってくる振動。
そして次の瞬間。
轟音。
暴風。
砂塵。
すべてが一つになって、街道を呑み込んだ。
「――っ!?」
前を見たトルクの喉が凍る。
そこに、いた。
巨大な男が、街道のど真ん中に立っている。
首には異様に大きな数珠。
頭は剃り上がり、そこに斜めに乗る黄金の王冠。
袈裟めいた異形の衣。
そして――刃物みたいに光る笑み。
「南無三ッ! 諸行無常だぜッ!!」
咆哮だけで、空気が揺れた。
それを見た瞬間、冒険者たちは理解した。
フェルドラン全土を包んでいる破壊の足音。
その音源が――こいつだ。
「迎撃! 防御展開、急げ!!」
後衛の魔術師が障壁を張る。
弓兵が魔力矢を番える。
重装の戦士が、恐怖を押し殺して前へ出る。
だが。
ガイツは、ただ笑った。
一歩、踏み込む。
次の瞬間、重装戦士の身体が宙を舞った。
ドゴォォォンッ!!
音だけが遅れてくる。
だが――
落ちてこない。
まだ、落ちてこない。
まだ。
まだ。
不自然な滞空。
現実離れした上昇。
見上げた全員の顔から血の気が引く。
物理が壊れている。
(どれだけの力で吹き飛ばせば――)
考える前に。
ドシャアアアアンッ!!
遥か上空から叩きつけられた戦士の身体が、杭のように地面へ突き刺さった。
それが自由落下によって引き起こされたという事実が冒険者たちの心に広がっていく。
悲鳴すら出なかった。
どれほどの力で殴れば、人間がああなるのか。
理解する前に、理解したくないという本能が勝っていた。
それでも、トルクが前に出る。
ユーリも続く。
雷槍が唸る。
踏み込みと同時に放たれた突きは、ただの刺突ではない。
雷を纏った魔力の奔流そのものが一直線にガイツへと走る。
「《雷穿》ッ!!」
空気を裂き、一直線に叩き込まれる一撃。
同時に、ユーリが消える。
左右に分かれる残像。二刀が交差しながら、ガイツの死角へと潜り込む。
「遅れんなよ、トルク」
「分かってる!」
後衛が一斉に魔法を重ねる。
防御ではない。攻撃のための支援。
風が収束し、雷を加速させる。
完璧な連携だった。
A級としては、理想的な初撃。
――直撃。
轟音。閃光。砂塵。
視界が一瞬、白く塗り潰される。
「……入ったか?」
誰かが、息を呑む。
だが。
煙の中で、何かが動いた。
「ハッ」
笑い声だった。
ガイツは、その場に立っていた。
身体は微動だにしていない。
雷は、確かに当たった。
剣も、確かに届いた。
だが。
「悪くねぇ」
軽く、肩を鳴らす。
「ちゃんと“殺しに来てる”音だ」
その言葉の意味を理解する前に、
全員の背筋が凍りついた。
そして、そこで。
ガイツが、低く吠えた。
「ジャストゥゥゥゥアッ! モォォォォォメントッ!!」
それだけで、身体が止まった。
殺気ではない。
威圧でもない。
もっと根源的な、“生き物として近づいてはいけないもの”に対する反応だった。
「無礼な往来、失礼千万ッ! 無粋な進軍、迷惑千万ッ! 無謀な攻撃、笑止千万ッ!」
ガイツが、ゆっくりと拳を構える。
「この俺、アンドリュー・ジャスティス・ガイツと知っての所業ならよォ……
見過ごすわけには、いかねぇよなぁ!?」
その目が光る。
比喩ではない。
確かに、光ったのだ。
「最近こさえた、渋めの必殺技だ。運がいいなァ、お前ら。死亡確約待ったなしだぜ」
一歩。
「第一近接昇華術式――」
拳が、引かれる。
「《音拳》――寂滅ッ!!」
ただの正拳突きだった。
だが、その拳は空気ごと街道を抉り取った。
音が遅れる。
世界が遅れる。
数秒後、そこにあったはずの道も、冒険者たちも、護衛馬車も、全部――消えていた。
地面に埋まる者。
原形を留めない者。
どこか彼方へ吹き飛ばされた者。
A級冒険者十名。
その痕跡だけが、街道に残った。
満足げに肩を鳴らしたガイツの頭上から、声が降る。
「ご機嫌だね、マイフレンッ。武器の調整が終わったよ。
そろそろグレイテスト・トランクへ戻っておいで」
ワンブリッジの声だった。
ガイツは、空を見上げて笑う。
「ハッ! こいつぁ、おあつらえ向きだぜ!」
通信を切ると、周囲に誰もいないことなどお構いなしに、ガイツは街道の真ん中で大きく腕を広げた。
「天下天上ッ! 天上天下ッ!」
咆哮。
「さあ――祭りの始まりだ!!」
その声だけが、死んだ街道の上をいつまでも転がっていった。
【次の話】
第30話「皇帝の誤算」
公開中です。




