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傷だらけの英雄

挿絵(By みてみん)


 暗闇は、呼吸の仕方を忘れた世界だった。

 音も、温度も、色もない。

 ただ、沈んでいく。


(……ここは、どこだ)


 思考が、水底から浮かび上がるように形を持ち始める。


 そのとき――


『ズンズンッ! チャッ! ズンズンッ! チャッ!』


 微かに、脈動が響いた。


 歪んでいる。

 世界そのものの心臓が狂ってしまったような、不快なリズム。


 暗闇の奥、蜃気楼のように揺らぐ巨大な影。

 その前に――小さな光が、二つ。


 脈動が、近づく。


 膨れ上がる。


 そして――


「……っ!」


 バルムドは、跳ね起きた。


 肺が空気を求めて軋む。視界が白く滲む。

 身体中に走る鈍い痛みが、現実を引き戻した。


「バルムド様!? 意識が戻りましたか!」


 知らない声だった。


 見上げた天井も、知らない。

 乾いた薬草の匂い。重く巻かれた包帯。


 ――治療院だ。


 荒い呼吸を整えながら、周囲を見渡す。


(ミレーネ……ゴルド……)


 喉の奥が詰まる。


(……あの魔神は……ストレンジネスは……)


 思い出した瞬間、呼吸が乱れた。


 突如現れた魔紋。

 世界が抜け落ち、空が落ちてきた。


 あの圧倒的な存在。


 ――それなのに。


(……なぜ、世界は続いている)


(……なぜ、俺は生きている)


 医師が何かを言っている。だが、耳に入らない。


 バルムドは、身体を引きずるように立ち上がった。


 確かめる必要があった。


 窓へ向かい、乱暴に開け放つ。


 外に広がっていたのは――


 自由国家フェルドランの街並み。


 だが。


 違う。


 建物はある。

 見覚えのある看板もある。

 人もいる。


 それでも――


 街全体に、凍りついたような沈黙が張りついていた。


 生きているのに、息をしていない街。


「……ここは、中央都市か」


 背後の医師が、小さく頷いた。


「……はい。あなたが倒れて、十日になります」


 十日。


 バルムドは目を細める。


「その……あの戦いの直後、聖王アンドリュー・ジャスティス・ガイツの名のもと、フェルドランへの報復が始まりました」


 医師の声が震える。


「東部と……北部は、すでに……」


 言葉が途切れた。


 バルムドは、ゆっくりと振り返る。


「あんた……北部訛りか」


 医師が息を呑む。


 それだけで、十分だった。


 バルムドは目を閉じ、額に手を当てる。


「……続けてくれ」


「……はい」


 震えながらも、医師は言葉を絞り出した。


「支配ではありません……完全な破壊です。町も、人も、何もかも……」


「……そうか」


 短く、返す。


 だがその一言で、空気が変わった。


 戦士の目に戻っていた。


「冒険者ギルドはどう動いている」


「……S級冒険者に、召集がかかっています。フェルドランには国軍がありません。十大貴族の私兵が防衛にあたっていますが……時間の問題です」


 医師は、拳を握りしめた。


「こんな状態のあなたに……頼るなんて……本当に、私は――」


 言葉が崩れる。


 だが、次の瞬間。


 医師は顔を上げた。


「……それでも、頼らせてください」


 涙を流しながら。


「S級冒険者であるあなたたちが……私たちの希望なんです」


 声が、震える。


 だが、それは崩れなかった。


「……ガイツのクソ野郎を、倒してください」


 絞り出すような言葉。


「あんな滅茶苦茶な理屈で……私の故郷は……!」


 それ以上は、続かなかった。


 慟哭だけが、残る。


 バルムドは、黙ってそれを受け止めた。


 わかる。


 痛いほどに。


 ――自分も、同じだからだ。


(ゴルド……ミレーネ……)


 胸の奥が、軋む。


 あのとき。


 あの瞬間。


 二人がいなければ、自分は死んでいた。


 それは、揺るがない事実だ。


 だが――


(……ガイツは、あれ以上か)


 ストレンジネスは、狂気の個だ。


 だがガイツは違う。


 あれは――災害だ。


 意志を持った破滅。


 静かに、怒りが湧き上がる。


 燃え上がるのではない。


 沈むように、深く。


(……恩を仇で返すことになるな)


 ゆっくりと、立ち上がる。


 身体は重い。


 だが、足は止まらない。


 医師の前に立ち、静かに言った。


「……この命、フェルドランのためにくれてやる」


 そして、続ける。


「だがな」


 目が、鋭く光る。


「俺の命は、そんなに軽くねぇ」


 一歩、踏み出す。


「ガイツ――てめぇの命と交換だ」


 医師が息を呑んだ。


 それは誓いではない。


 契約でもない。


 ただの、意地だ。


 バルムドは、治療院の扉に手をかける。


 背後には、もう何もない。


 頼る背中も。


 叱る声も。


 共に戦う仲間も。


 ――だが。


 その瞳には、確かに灯っていた。


 黄金の意思の残滓が。


 アセスメント・ラインは、沈黙している。


 何も示さない。


 何も、推奨しない。


 なら――


(……上等だ)


 扉を押し開く。


(ここから先は、全部――)


 外の空気は、冷たかった。


(俺のわがままだ)


 傷だらけのまま、バルムドは歩き出す。


 反撃の狼煙は――


 静かに、しかし確実に上がった。


挿絵(By みてみん)

【次の話】

第29話「絶望の包囲網」

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