日常と沈黙
ミターニア大陸――世界に満ちる『マナ』を、人が呼吸のように取り込み、『魔法』として扱う大地。
その北東に、聖王の名のもと秩序と信仰を掲げる聖王国アルセリア・グレイスがある。
正義と聖性を重んじるこの国では、祈りと剣が矛盾しない。むしろ、祈りは剣を正当化し、剣は祈りを守る。
だが――それは、“壊される”まではの話だ。
***
朝靄が、北方山脈の稜線に薄くかかっていた。
空気は冷たく、肺の奥まで澄みきっている。
木剣を振る音だけが、訓練場に規則正しく響いていた。
踏み込み。
斬り上げ。
受け流し。
そして、止め。
余分な力は一切ない。だが、緩みもない。
剣を振るたび、思考が削ぎ落とされ、世界が静まっていく感覚が彼女の中に満ちる。
白金の髪を三つ編みにした少女リリア・ベルク。腕章には新人兵士である証の緑色の短剣。幼さの奥に確かな覚悟が見え隠れしていた。
彼女には、目指す背中があった。
聖騎士だった父の背中だ。
誰よりも正しく、誰よりも静かに剣を振り、最後まで誰かを守るために戦った人。
父のようになりたい。
その願いは、憧れというには重く、誓いというにはまだ幼かった。
だからリリアは、今日も剣を振る。
自分が何を守れるのかを、まだ知らないまま。
「……よし、そこまででいいだろう」
低く、落ち着いた声が背後からかかった。
木剣を下ろし、呼吸を整えてから振り返る。
そこに立っていたのは、騎士団の制服を簡素に着崩した壮年の男だった。
白髪が混じり始めた髪。深い皺の刻まれた顔。
だが、その眼光だけは、少しも衰えていない。
ヴァレンタイン・クローバー。
騎士団副長にして、現在は王国軍全体の戦略顧問。騎士団の礎を築いた男。
リリアの父とは新人時代からの同志であり、戦いで父を亡くしたリリアを騎士団に導いたのも彼だった。
「肩が上がってきている。悪い癖だ」
「……はい」
「疲労のせいじゃない。考えすぎだ」
ヴァレンタインは淡々と指摘する。
叱責ではない。ただ、事実を並べているだけだ。
「剣を振るとき、未来を読むな。読むのは今この瞬間だ」
「瞬間……ですか」
「そうだ。敵がどう動くかではない。『いま、何が起きているか』だ」
彼はゆっくりと歩み寄り、地面に落ちていた小石を一つ拾い上げた。
「たとえば、これが戦場だとしよう」
小石を地面に置く。
「お前は敵の次の一手を考え、この石を斬ろうとする。
だが――」
ヴァレンタインは、別の小石を静かに転がした。
「気づかぬうちに、盤面は変わっている」
彼は微笑むでもなく、誇るでもなく、ただ言った。
「だから観ろ。考える前に、正確に観ろ。それがお前の強みだ」
胸の奥が、わずかに熱くなる。
――この人は、いつもそうだった。
剣の型より先に、世界の見方を教えてくれる。
「少し休め。今日はここまでだ」
「ですが――」
「命令だ。昨夜から、北方山脈の報告が妙だ。出撃の可能性もある。休めるときに休め」
ヴァレンタインの声に、ほんのわずかな硬さが混じった。
「妙、というのは……?」
「何も起きていない――」
一瞬、意味がわからなかった。
「何も、ですか?」
「そうだ。風も、雲も、鳥も。北の山が、黙っている」
彼は北を見た。
城壁の向こう、遥か彼方の山並み。
「自然が黙るときは、ろくなことにならん」
その言葉には、長年戦場に立ち続けてきた者だけが持つ確信があった。
「お前は、何か気づいたか?」
「……星が、ずれていました」
ヴァレンタインの視線が、わずかに鋭くなる。
「いつだ?」
「今日の夜明け前です。北方山脈の真上だけ……最初から、そうであったかのように」
沈黙が落ちた。
ヴァレンタインは、深く息を吸い、そして吐いた。
「……なるほど」
否定はしなかった。笑い飛ばしもしなかった。
「お前がそう言うなら、見過ごすわけにはいかんな」
その瞬間、彼は“指揮官”の顔になっていた。
「そういえば、朝方にパン屋のメリナからも似たようなことを聞いた。
彼女は“祈りが届かない感じがする”と言っていたが」
「祈りが……?」
「理屈はどうでもいい。異変は、複数の形で現れる」
ヴァレンタインは踵を返し、歩き出す。
「今日は訓練は中止になるだろう。
先に先遣隊を派遣し、調査したのち、我々が動くことになるかもしれん」
リリアの心がざわつく。訓練校主席とはいえ実戦経験はわずかだ。
「恐れるな」
リリアの心を見抜いたように、ヴァレンタインは言った。
「私やお前のような観察者がするべきは、情報を持ち帰ることだ。恐れは目を曇らせる。正しい情報を持ち帰り、次の勝ちへつなげることこそ、私たちの仕事だ」
そういってヴァレンタインはその場を去った。
一人になったとき、彼女は北の空を見上げた。
雲は穏やかだ。
風も、鳥の声もある。
それでも――
どこか、世界に異音が混ざっているような違和感が残る。
彼女は、無意識に胸元に手を伸ばす。
三角形のペンダントは確かに彼女の手の中にある。
北方山脈の向こうで何が起きているのか。
それを、この時点で知る者は、誰もいない。
しかし、日常は、静かに狂いだしていた。
【次の話】
第3話「違和感から確信へ」
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