亀裂の音
夜明け前の冷気は透き通り、地下にある剣聖の修練場には静謐が満ちていた。
リオネルは剣を立て、両手を柄に添えて目を閉じている。意識は深い井戸の底へ沈むように、静かに沈降していった。
(この剣が届かなければ─すべてが終わる)
呼吸が整うにつれ、彼の耳にある記憶がよみがえった。
***
それは、王都が崩壊し始める少し前の夜。玉座の間でリオネルは聖王アルセリア13世と共にあった。
「リオネル。お前は、この聖王の“剣”だ。だが、振るう者が余のように未熟では、剣の真価は発揮されぬな」
穏やかな声だった。
「聖王様、未熟などとは。私は肩書に仕えたのではありません。あなただからこそ、仕えたのです」
アルセリア13世は玉座から立ち上がり、リオネルに話しかける。
「リオネル・ファーレンハイトよ。─此度の件、ひとつだけ、王命を与える」
リオネルは膝をつき、頭を垂れる。
「陛下。どのような命であれ、このリオネル・ファーレンハイト、必ず果たします」
王はやわらかく笑った。その笑みは、父が息子を見るような温かさを含んでいる。
「……生きろ、リオネル。余のためではない。お前自身のために、必ず生き残れ。そして、聖剣と共に、聖王国の未来を切り開くのだ」
その言葉は、煌めく黄金よりも重く、美しく、そして、優しかった。
***
(陛下…あなたは、この未来を予見していたのではないでしょうか。そして、私は、まんまと生き残ってしまいました。だからこそ、あなたが愛し、守ろうとしたこの国を救うため、もう一度あなたの剣となります。)
リオネルは静かに目を開いた。瞳は鋼のように澄み、濁りがなかった。
***
王城上階では、狂気の鐘が鳴り響き始めていた。黄金政策・収支会合、通称『黄金会議』が始まる。
玉座の間に午前の斜光が差し込み、卓上の砂金皿が鈍い輝きを返している。
「し、収入総計……先週推計の3割弱に留まりました。想定比……マイナス71パーセントです……」
会計官が巻物を震えながら読み上げる。官僚たちの輪がざわりと揺れた。
その混乱の中で、ガイツは、ハンマーの柄を股に挟み、石床をスイーっと滑りながら、咆哮した。
「3割ぃッ?3割だぁッ!?バーゲンセールやってんじゃねぇぞ!!」
官僚が青ざめて震える。書見台の上では、ワンブリッジが算盤を軽快に叩き、まるでドラムセットのように資料台を叩いてリズムをつくる。
「ふむ……数字が踊っているねえ。拾い落としの波じゃない。これは意図的な“欠損”だ。ふむ、徴税動線に問題はない。…おやおや、これはこれは。ふふ、灯台下暗しとはよくいったものさ!」
ワンブリッジの一挙一動に、ざわめきがいっそう深く沈む。ワンブリッジが軽やかに語り出す。
「掬い上げるはザル。しかして、そのザルに大きな穴が開いていたら、それはもうザルではない、わかるかい?」
役人たちはさっぱりわからないといった表情をする中、ガイツはニヤリと笑っていた。そこに、梁の影から、久保田ジュウシマツが半歩だけ姿を見せた。
「プラズマ枢機卿曰く―音が消えるとき、手は二つ」
会計官が泣きそうな声で問う。
「……ふ、二つ……?」
久保田は視線だけで台帳を指した。
「盗む手と気づかせぬ手」
「ぬ、盗む!?」
官僚たちが顔をひきつらせる。ワンブリッジが補足するように口を開く。
「フフ、宝物殿から金が姿を消している。苦し紛れに台帳には、偽の写しが挟まれた。簡単な解だよ。これは横領だ」
空気が凍った。役人たちは思った。この狂人たちに疑われていると。それは即ち、死の宣告と同義。そこにいる誰もが怯え、自分の無実を証明せんとした。
「お、横領…!?だ、だれがそんな恐れ知らずな…!?」
官僚の一人が思った。もしかしたら、これは狂人たちによるでっちあげで、自分たちを処刑するための罠なのではないだろうか。しかし、今できることは自分たちの無実を証明するために声を上げることしかないという状況に、そこにいる役人全員がまるで心臓を鷲掴みされたような感覚を覚えていた。
だが、役人たちの心配の斜め上、否、はるか上空で事は進んでいたのだった。必死に声を出す官僚たちの言葉の尻をガイツが咆哮し、強引にぶった切る。
「ハッ、ストレンジネスの野郎に違いねぇ!!!」
玉座の間が一瞬で沈黙する。
「あの野郎、アダマンタイトのギターにご執心だったからなぁ!!金を見るとすぐ“ドレミ”と言い出す始末よ!!」
官僚たちが互いにひきつった顔を見合わせる。あまりにも早く、あまりにも単純に仲間を犯人扱いする狂気に、その場の空気がチリ紙のようにひしゃげていった。
ワンブリッジが指を鳴らす。
「落ち着こう諸君、推理は証拠の上で踊るべきだ。状況証拠は踊りたがっている。徴税ルートに音はない。鳴るのは宝物殿。そして、アダマンタイトのギターから…」
そして壁にさらっとストレンジネスの似顔絵(妙にうまい)を書き、近くにあったペン先を突き刺す。
「ふふ、ならば、答えはもうわかっているだろう?高藤ストレンジネスを派手に叩くだ!」
官僚の羽根ペンが震え、インクが滴った。それでも書記が恐る恐る口を開く。
「で、ですが……ストレンジネス殿が関わっていたとしても、確認や手続きが……!」
ワンブリッジは満面の笑みで締めた。
「確認は現場で。手続きは勝利で。―ならば証拠は音圧で固めよう。ロマン主義的合理だ、安心したまえ」
ガイツが立ち上がり、ハンマーを床にドンと叩きつけた。
「聖王ガイツの大号令!“高藤ストレンジネス討伐”をここに宣言する!!」
石壁が揺れ、官僚たちが思わず合唱のように声を揃えた。
「は、ははぁぁっ!!」
ワンブリッジは白衣の裾を払う。
「諸君、作戦名は“オクターブ・ハント”だ!ジュウシマツ、王都を囲む城壁を封鎖しろ。人一人、ウサギ一匹逃げ出せないようにね。ストレンジネスは状況を理解し、逃げ出そうとするよ。文字通り、脱兎の如くね」
それを聞いたガイツが満面の笑みで叫ぶ。
「ダットサンときやがったか、そりゃあ景気がいいなァ!てめえら、これは祭りだと思いやがれ!笛や太鼓を使え、あいつは音に反応する!自分よりデカい音には我慢ならねぇ男よ!そうすりゃ必ずあいつは現れる。そういう男だ、ストレンジネスって野郎はよぉ!」
黄金会議は散会となる。官僚たちは楽器を集めに奔走する。最後に、残ったのは、狂った空気だけだった。
崩れた梁を渡る風が、どこか8ビートで鳴っていた。
【次の話】
第12話「オクターブ・ハント①」
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