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4月(スピンオフ)社畜の癒しの君



【Episode:社畜サラリーマン鈴木】


 鈴木は、電車のドアに頭を預け、死んだ魚のような目で路線図を眺めていた。


 魔石加工販売会社『コスモ・ワークス』。そこが彼の職場だ。

ダンジョンや魔獣から採取された魔石を加工し、納期通りに各ギルドへ納める。

口で言うのは簡単だが、現場は地獄だった。


「……納期、間に合わねぇよ……」


 連日の徹夜。

全国の採掘場へ電話し、頭を下げて魔石をかき集めては、加工現場からは「これ以上は無理だ」と罵声を浴びせられる。

胃の痛みは、とうに限界を超えていた。


 朝食代わりの『高濃度栄養ポーション』 これを流し込まないと、会社に着く前に意識が飛びそうだった。


 無意識だった。

ここが電車の中だということすら忘れるほど、彼は疲弊していたのだ。

自分を無理やり動かすためだけに、震える手でボトルの蓋に指をかけた……その時だ。


 ガタン!!


 不自然な揺れに、身体が大きく泳ぐ。


「あ……ッ!」


 手から滑り落ちたボトル。

ハーブの苦い匂いが車内に飛散する。

目の前には、清潔な制服を着た少年。

鈴木は血の気が引いた。


「ごめん! 大丈夫か!? 熱かっただろ!」


 咄嗟に自分のカバンで少年を庇おうとしたが、間に合わなかった。

ポーションは無残にも、少年の上着を濡らしていた。


「大丈夫です。上着がちょっと濡れただけだから……」


 少年は怒る風でもなく、淡々としている。

だが、事態はそれだけで終わらなかった。

横から、鋭い声が飛んできたのだ。


「ちょっと。……全然よくないでしょう」


 割って入ってきたのは、別の、貴公子のような美少年だった。


「魔法省のガイドラインでは……」「万が一、魔力回路に干渉したら……」


 よどみない論理、圧倒的な威圧感。

鈴木は蛇に睨まれた蛙のように身体まで硬直した。

頭が真っ白になり、少年の放つ厳しい言葉が途切れ途切れにしか理解できない。


(終わった……。受験生だ。親が出てくる。慰謝料、会社への連絡、クビ……)


 過労でボロボロの精神は、すでに決壊寸前だった。

ホームに着いたら土下座しよう、いっそこのまま線路に飛び降りてしまいたい。

そんな極端な絶望が脳内を支配していく。


 その時——。


「……心配してくれて、ありがとう。でも、君が怒ってくれたおかげで、なんだか緊張が解けた! マジで上着だけだし平気。おじさんも気にしないで!」


 ポーションを被ったはずの少年が、鈴木を庇うように笑った。


 その瞬間、鈴木の視界がふわっと明るくなった気がした。

見れば、少年は驚くほど屈託のない、幼さの残る綺麗な顔をしていた。

その微笑みは、ドロドロに濁った鈴木の心に、冷たい聖水を注ぎ込むような清らかさがあった。


「受験、頑張って……! 君が合格するように、祈ってるから!」


 電車を降りる少年の背中に、鈴木は絞り出すように声をかけた。


 不思議なことが起こり始めたのは、その後からだった。


 駅の階段を上がる足取りが、羽が生えたように軽い。

一晩中霧がかかっていたような脳内が驚くほどクリアになっていて、どんな種類の栄養ポーションを飲んでも晴れなかった気持ちまで上向いている。


「……あれ?」


 会社に着くと、奇跡のような幸運まで続いた。

あんなに難航していた魔石の確保が、一本の電話で「余剰分がある」とあっさり解決し、頑固だった加工職人が「たまには無理してやるよ」と笑って納期を早めてくれたのだ。


 仕事がスルスルと片付いていく。

鈴木は、ひと月ぶりに定時で会社を出ることができた。


(……あの時、あの子のあの笑顔を見たからか? かけてくれた言葉が温かかったからか……)


 夜、自分のカバンに染み付いたハーブの匂いを嗅ぎながら、鈴木は確信した。

あれは、本物の「癒し」だったのだと。



【4月】


 桜が舞う、新しい季節。

満員電車の中には、今日から新生活を始めるらしい真新しい制服姿の生徒も混じり始めた。

鈴木は車内で、あの日から忘れることのできない「あの少年」を探す。


 喜多川魔法学園前。


 電車を降りていく生徒たちの中に……見覚えのある、陽だまりのような笑顔に茶色の髪を見つけた。

喜多川の、真新しい制服を着ている——。


 少年は、隣を歩くあの「気難しい美少年」と何やら楽しげに笑い合いながら、ホームを歩いていった。


「良かった……。受かったんだな……」


 鈴木は、誰に聞かせるでもなく呟いた。今日もまた、地獄のような納期が待っているだろう。けれど。


 これから毎朝、この窓越しに、あの「癒しの君」が学園へ向かう姿を見られると思えば。


(よし、今日も頑張るか)


 鈴木は、あの日以来一度も口にしていないポーションの代わりに、深呼吸を一つした。



 満開の桜のような、春の朝だった。


 

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