3月 (2)新生活の危機と光
【Episode:イッセイ】
父と秘書は、予定通り海外の赴任先へと旅立っていった。
それと同時に始まった僕の「自由」な一人暮らしは、開始わずか三日にして暗礁に乗り上げていた。
祖父母が遺したこの屋敷は、一人で住むにはあまりに広く、そして骨の髄まで凍えるほどに寒かったのだ。
結局、僕は早々に本宅を諦め、離れにある元・使用人用の平屋に荷を移した。
本宅はトイレに行くにも風呂へ向かうにも、凍てつくような長い廊下を渡らねばならず、理不尽なまでに不便だったからだ。
代々の櫻川の当主が住んだこの邸宅は、利便性よりも威厳を最優先して造られていた。
「……さて、どうしようか」
離れの小さな台所の真ん中で、僕は途方に暮れていた。
冷蔵庫には、近所のスーパーで「とりあえず」買ったものの、扱い方のわからない野菜たちが転がっている。
魔法省指定の高級ゼリーも、父が手配していた一流シェフの料理も、ここにはない。
この三日間、掃除や荷解きを言い訳にパンや惣菜で凌いできたが、元来の生真面目さがそれを許さなかった。
自分に言い訳をして「出来合いのもの」を食べ続ける不甲斐なさが、何より我慢ならないのだ。
(今日こそは、自ら調理すべきだ……)
そう決意はしているものの、開け放った冷蔵庫の前で、僕の思考は完全に停止していた。
人参一本、どう切れば「正解」なのかさえ分からない。
その時だ。
静かな屋敷に不釣り合いな音量で、呼び鈴が鳴り響いた。
本宅の玄関と連動しているのか、離れにまで響くその音に眉をひそめながら、僕は重い腰を上げた。
一度本宅へ戻らねば、玄関とやり取りのできる魔道具は使えないのだ。
急いで門まで向かうと。
「どちらさ……ま……」
重い門扉越しに聞こえてきたのは、予想だにしない明るい声だった。
「こんにちは! イッセイくんの家ですか? 俺、月読です!」
「ソウシ……!?」
巨大な玄関の門扉を開け閉めするのは重労働だ。
僕は、横にある小さな勝手口へ向かった。
内側の隠し鍵を回して初めて扉が実体化する、古風な防護魔道具が組み込まれた隠し扉だ。
「うおっ! びっくりした。ドアなんてここになかったよな!」
外から聞こえる驚きの声に、僕は思わず小さく口角を上げた。
不意打ちを食らわされてばかりの自分が、ささやかなしっぺ返しができたような気がしたからだ。
扉を開けると、あの日と同じ人懐っこい笑顔を浮かべたソウシが立っていた。
その背には、冒険者が使うような巨大なリュックを背負っている。
「……ソウシ、なぜここに」
「住所教えてくれたろ! あん時一人暮らしするって言ってたから、お祝い持ってきたんだ!」
ソウシは制止する間もなく、ずかずかと勝手口をくぐり抜けた。
「うわっ、すげー! ここの結界、めちゃくちゃ強いな! 庭広いし、マジで一人で住んでんの?」
「いや、広すぎて管理できない。だから離れの方で暮らしているんだ。こっちだ」
案内する間も、ソウシは「スゲー!」「どこまで続くんだ?」と感嘆の声を上げ続けている。
その騒がしさが、死んでいた屋敷に血を通わせていくようだった。
「一人暮らしで一番面倒なのって自炊だろ? 飯作るから台所貸してくれよ!」
「えっ、本気か? いや、しかし……」
離れの平屋に辿り着くや否や、ソウシは遠慮なく上がり込んだ。
その、人との距離の詰め方は、僕の周囲にはいないタイプで驚かされるばかりだった。
だが、不思議と嫌な気はしない。
「今日は寒いしさ、二人で鍋でもしない? 婆ちゃん直伝の『鶏団子鍋』! 美味いぜ!」
ソウシはリュックから使い込まれたマイ鍋を取り出し、僕の冷蔵庫を覗き込んだ。
「使っておいた方がいい食材とかある? 腐りそうなやつとかさ」
僕は少しの間をおいて、正直に白状した。
「実は……買ったものの、何が作れるか分からなくて固まっていたんだ」
プライドは高いが、できないことはできないと言えるのが僕の強さだと自負している。
それにソウシなら、僕を馬鹿にすることはないという確信があった。
「すげー、結構大量! 今日は鍋だからコレとコレ、あと家から持ってきた鶏ミンチを使うからな……」
ソウシは手際よく台所を陣取ると、僕が持て余していた野菜を次々とリズム良く刻み始めた。
トントントン、という軽快な音が、冷え切っていた離れに「生活」という名の熱を送り込んでいく。
「イッセイ、手伝ってくれるか?」
「……もちろん。僕は何をすればいいんだ?」
僕の論理では説明できない、あまりに唐突な再会。
出汁の香りと彼が口ずさむ鼻歌に、凍えていた胃の奥がじわりと解けていくのを感じる。
ソウシの笑い声を聞きながら、僕は考えた。
自分はかつて、これほどまでに「誰かの気配」を心地よく感じたことがあっただろうか、と。
理屈なんて、もうどうでもいい。騒がしくも温かい、僕の本当の新生活が、今、始まった気がしたのだ。
「あふっ……熱っ! でも、これ……すごく美味い」
口の中に広がる生姜のきいた鶏団子の旨味に、思わず目を見開いた。
スーパーの惣菜では決して味わえない、手作りの「熱」があった。
「だろ? 婆ちゃん秘伝の鶏団子鍋は、生姜を思っている倍入れるのがポイントなんだ。簡単だしオススメだぜ」
ソウシは自分の分を豪快に頬張りながら、屈託なく笑う。
「……助かった。これで明日からも生き延びられそうだ」
僕が本気で安堵の息をつくと、ソウシは鍋の具をつつきながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういやイッセイ、新学期からの授業、結構ヤバいって聞いたぜ? 特進科って、毎日魔法理論とか、魔力回路の計算ばっかりなんだろ?」
「あぁ。一日の大半が座学だ。クラス全員が難関校を目指すような連中だからな、常に勉強だよ。……ソウシの体育科は、やはり実技中心か?」
「おう! 午前中だけ座学で、午後はひたすら体を動かす感じ。冒険者志望が多いからな。壁登ったり、重い荷物背負って走ったり……たまに魔獣の生態実習とかもあるらしいぜ。あ、俺、美術部にも入るつもりなんだ。運動ばっかりだと頭が固くなりそうだしさ」
「……体育科で美術部。相変わらず君は、僕の予想を超えてくるな」
僕は呆れつつも、ソウシらしい選択だと納得した。
「だが、科が違っても、週に一度は合同授業があるはずだ」
「合同授業……あ、『パーティー』か!」
ソウシが箸を止めて身を乗り出す。
「そう。喜多川魔法学園の最も過酷な伝統だ。入学してすぐに学校側がランダムに五人を選び、卒業までの三年間、その五人が一つの『パーティー』として固定される。合同演習からレポート作成までな」
「三年間、ずっと同じメンツか……。仲良くなれれば最高だけど、変な奴と組んだら大変そうだな」
「あぁ。成績、適性、属性……あらゆるデータから、あえて『凸凹』になるように組まされるという噂だ。効率だけを考えれば、同じ科だけで固めた方がいいのだが、学園側は『予期せぬ事態への対応力』を求めているらしい」
僕は、まだ見ぬ四人の仲間に思いを馳せた。完璧な解決を求める僕と、足並みが揃う者がいるだろうか。
「ま、俺はイッセイと同じパーティーになれたら一番嬉しいけどな!」
ソウシが事も無げに言って、鍋の最後の団子を僕の小皿に放り込んだ。
「……確率は低い。だが、もしそうなったら、僕が君の分まで理論を補ってやるよ」
「おっ、頼もしい! その代わり、魔獣が来たら俺が全部ぶっ飛ばしてやるからさ!」
冷え切っていた離れの空気は、鍋の熱気と、二人が語る未来の話ですっかり温まっていた。
理屈や効率を最優先してきた僕にとって、この「予測不能な賑やかさ」こそが、これから始まる学園生活で最も必要な「魔法」なのかもしれない。
「ソウシ……その、また時々こうして……食事をしに来ないか」
「言われなくても来るって! 材料は俺が持ってくるから、イッセイは場所代な!」
二月に交換した一枚のメモ紙が、未来への約束へと形を変える。
僕は、生まれて初めて「新学期」が始まるのが待ち遠しいと感じていた。




