3月 (1)父との約束と春の訪れ
【Episode:ソウシ】
境内に咲く梅の香りが、微かな春の訪れを教えてくれていた。
俺の家(月読神社)は里に近いけど、背後に控える山全体は険しい修行場になっている。
代々ここを守る月読家にとって、山全体を清める「結界の儀式」は欠かせない。
月が空の真ん中に差し掛かる頃、俺は境内にある「月見池」の前に立った。
この儀式は雨の日でもできるけど、遮るもののない月明かりが水面に差し込む夜が、一番効果があるんだ。
湧き水が溢れる澄んだ池に、静かに手を浸す。
刺すように冷たい水が、指先からじりじりと体温を奪っていく。
その痛みに耐えて、水面に映る銀色の月を真っ直ぐに見つめながら、結界を維持するための古い呪文を唱えた。
「……ふっ!」
水面に鋭く息を吹きかける。
月の光を吸い込んだ水面から清浄な魔力が霧のように立ち上って、純白の光となり山全体を覆う結界を補強していく。
浄化に特化したこの呪文は、月読の血を受け継ぐ者だけに代々受け継がれてき『守護の証』だ。
本当なら一ヶ月に一度で十分な儀式だけど、俺は十日に一度、欠かさずこれを行っている。
父ちゃんが魔獣に殺されたと聞いて以来、俺は「手を抜く」ことより「強くする」ことばっかり考えてきた。
大切な物は二度と無くさない、その一心だった。
冷え切った体を温かいシャワーで解きほぐして、リビングの暖房の前でぼんやりとする。
何となく目に入る古い写真。
そこには、俺にそっくりだって言われる母ちゃんの写真と、逞しい身体で小さな俺を片手で抱っこする父ちゃんの写真が、並べて置かれている。
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる光景があった。
父ちゃんの硬くて、逞しい膝の上……俺の特等席。
『なあ父ちゃん、俺も父ちゃんみたいなカッコいい冒険者になる!』
幼い俺が父ちゃんを見上げて宣言すると、父ちゃんは豪快に笑って、大きな手で俺の頭をわしわしと撫で回した。
『そうか! ソウシは冒険者になりたいのか』
『うん!』
『そうか、そうか! なら、たくさん食べて、たくさん笑って、誰よりも強い光になれ。約束だぞ』
その時の、少しガサついた手のひらの熱と、自分を丸ごと包み込んでくれるような安心感を、俺は今も覚えている。
でも、あの日……。
十年前、世界中が震えた大地震。
その直後のダンジョンから魔獣が溢れ出す「スタンピード」が発生した。
当時、Aランク冒険者として有名だった父ちゃんにも、緊急の討伐依頼が下った。
『行ってくる』
『いってらっしゃい!』
それが、最後に交わした言葉だ。
数日後、家に戻ってきたのは、父ちゃん本人じゃなくて、傷だらけになった「冒険者タグ」だけだった。
遺体さえ判別できない混乱の中で、タグが見つかったのは奇跡だって言われた。
よほど家に……俺に会いたかったんだろうって。
気づけば、無意識に手に力が入っていた。
今、俺の指先が触れているのは、冷たい金属じゃない。
イッセイがくれた、
メモ紙の質感だ。
「……そんなにじっと見つめてたら、穴が開いちまうよ。」
不意に頭の上から降ってきた声に、心臓が跳ねた。
いつの間にか、すぐ後ろに婆ちゃんが立っていて、俺の手元を覗き込んでいる。
「……ソウシ。また、そのメモを見ているのかい」
トイレに起きてきた婆ちゃんが、眠そうな顔をして声をかけてきた。
俺の手の中にある、あの日イッセイから手渡された住所が書かれたメモ——。
隠す間もなく、しっかり見られてしまった。
婆ちゃんはすぐに嘘を見破るから、誤魔化しはきかない。
「……うん。あいつ、もう引っ越し終わったかなって思ってさ」
そう口にした瞬間、あの一月の試験当日の記憶が、ぶわっと脳裏に浮かぶ。
「他人を思いやれる正義の味方、だったんだっけ?」
「そう。俺、電車の中で超緊張してて周りが見えてなくてさ、ポーション引っ掛けられた俺の代わりに、オトナ相手に怒ってくれた超イケメン」
「ふふふ……で、試験の時も偶然後ろの席で、嫌がらせされた生徒のことを真っ先に先生に言いに行った」
「そうなんだよ! 俺、びっくりしてさ。マジで行動力ハンパねぇ、って。本当に同級生か? って思った!」
他人のためにあんなに堂々と戦える人がいるんだって、心の底から尊敬したし、勇気をもらった。
おかげで、消えちまいたいほどの緊張がほぐれたんだ。
「電話番号は聞かなかったのかい?」
「思いつかなかったんだ。住所と名前のメモは書いてくれたけど」
また会って話をしたい。
その思いが、あの日からずっと胸の奥で渦巻いている。
「お前の父さんも、爺さんも言っていたよ。『喜多川学園で過ごした時間は、人生の宝物だ』って。ソウシ、本当によく頑張ったね。合格、本当におめでとう」
婆ちゃんの言葉に、俺は一瞬、言葉を詰まらせた。
頑張った。
死ぬ気で、寝る間も惜しんで、指にタコができるまでペンを握り続けた。
……なのに、イッセイを前にすると、自分の努力なんて全部「運」なんじゃないかって思えてしまうんだ。
「へへ……俺、運だけは良いみたいだからさ! 合格したのはマジで奇跡だよ」
俺はわざと茶化すように笑って、メモをポケットに仕舞い込んだ。
そんな俺の煮え切らない葛藤を見透かしたように、婆ちゃんが続けた。
「その『イッセイ』という友達に出会えたのも、お前が全力で試験に挑んだから。それは決して運なんかじゃないよ」
婆ちゃんの言葉に、少しだけ鼻の奥がツンとした。
「気になるんだろ? なら、会いに行ったら良いじゃないか。一人暮らしの男の子なんて、どうせロクなものを食べられていないから、ソウシが何か作ってやったらどうだい?」
「……婆ちゃん。うん、分かった! そうする!」
自分でも気づかないうちに張り詰めていた心の結界が、婆ちゃんの温かな言葉と一緒に解けていく。
あの日、イッセイやトウワに出会った瞬間に感じた、弾けるような予感。
それは、父ちゃんが愛した学園で、俺自身の物語が始まる合図だった気がした。
「よし! イッセイに会いに行くぞ! ついでに何か美味いもん作ってやる!」
俺が元気よく声を上げると、
「おー!! 行ってこい!」
と、ノリの良い返事が返ってきた。
春の少し緩んだ空気が、旅立ちを控えたリビングに満ちた。




