1月(2)僕の正義と君の正解
【Episode:イッセイ】
僕は、父の秘書から持たされた魔法省指定の鉛筆を指先で弄んだ。
「これより、午前の筆記試験を開始する」
試験監督の教師が、演壇で鋭く告げた。その声は、ドーム状の天井の隅々にまで冷たく反復する。
「試験時間は六十分。……なお、諸君に配った解答用紙には、強力な術式が施されている。自分の解答以外は、隣の席から覗こうともただの空白にしか見えんはずだ。試験終了時間に解答用紙は自動的に回収される。さあ、己の知識のみを信じ、筆を動かせ。始め!」
「始め!」の合図と共に、数百人が一斉に問題用紙をめくる音が、さざ波のように円形の空間を駆け抜けた。
僕は、手元の鉛筆を淀みなく滑らせる。
(第一問、魔力回路の基本……よし。第二問、術式の数式……よし)
日頃から膨大な知識を最短時間で出力する訓練をしている僕にとって、この出題傾向は対策済だ。
(……このペースなら、見直しに充てる時間は十分にあるな)
ふと、僕は視線を上げた。
解答用紙の中身は術式で守られているが、受験生たちの「挙動」までは隠しきれない。
円形の構造上、斜め前に座るソウシの横顔が、嫌でも視界に飛び込んでくる。
(……動いていない?)
ソウシは、問題用紙を睨みつけたまま固まっていた。
ペンを走らせる周囲の受験生たちの中で、彼だけが異質な静止画のように止まっている。
やはり、理論は苦手なのか。
今朝のあの「光属性」の天賦の才も、文字の試験では無力なのだろうか。
僕が、自分でも説明のつかない「失望」を感じた、その時だった。
カラッ……。
静まり返った講堂に、軽い音が響いた。
ソウシが、机の上で鉛筆を転がしたのだ。
(……なっ!?)
僕は目を見開いた。
ソウシは、止まった鉛筆の「面」をじっと見つめると、「よし!」と、声に出さない程度の唇の動きで呟き、マークシートに鉛筆を走らせた。
そしてまた、指先で器用に六角形の鉛筆を弾く。
カラッ、カラッ……。
(……嘘だろ。鉛筆転がし……?)
僕の思考が、一瞬停止する。
ここは、全国でも指折りの難関校だ。
喜多川の試験がいかに難解か——運では絶対に解けないはずの問題も多い。
一問のミスが人生を左右するこの土壇場で、彼は「運」という、理論の対極にある不確かなものにすべてを委ねているのか。
だけど、ソウシの表情に焦りはない。
むしろ、次はどの面が出るのかを楽しんでいるように見えた。
カラカラッ……。
時間を置いてその音が響くたび、僕の胸の奥がざわついた。
今まで僕が信じてきた「完璧な準備」や「積み上げた理論」が、彼の転がす鉛筆の軽い音によって、ひどく重苦しく、色のないものに思えてきたのだ。
(あんなの、認められるわけがない。……認められるわけが、ないのに)
僕は無理やり自分の解答用紙に視線を戻した。
けれど、握りしめた鉛筆の先が、わずかに震えている。
目の前の少年が放つ、正体不明の『余裕』。
その熱にあてられて、僕の冷静な判断をミスりそうで、僕は頭を振って、再び問題に集中した。
「そこまで。答案用紙から手を離しなさい」
試験監督の硬質な声が、アリーナの静寂を切り裂いた。
数千人が一斉に息を吐き出す。
張り詰めていた空気が一気に緩み、講堂内では答案用紙が宙を舞い、中央の舞台に回収されていく。
中央で杖を振る教師のコントロールの良さに、僕は感心した。
手の中の鉛筆を筆箱に収め、軽く指をほぐす。
完璧だ。
解答欄はすべて確信に至る正解で埋まっている。
だが、その満足感よりも先に、視線は自然と前方の右側に座る背中へと向いていた。
ソウシは「ふぅーっ」と大きく背伸びをして、隣のトウワと笑い合いながら席を立った。
あんな運任せな解き方をしているのに、なぜあんなに晴れやかな顔ができる。
「……あいつ、本当に合格する気があるのか?」
毒づきながらも、僕が席を立とうとした、その時だ。
最前列に座っていた、ひょろりと背の高い男が、不自然な動きで立ち上がった。
男は周囲を盗み見るように首を振り、回収が終わったばかりのトウワの机に近づくと、素早い手つきで筆箱から何かを抜き取った——気がした。
そのまま、何食わぬ顔で出口へと消えていく。
(……窃取か? 当たったにしては不自然だった……)
不信感が瞬時に浮かぶ。
「……思い込みで終わればいい。だけど、もし悪意があったら……」
次の科目は、図形描画を伴う専門試験だ。
消しゴムがなければ、一箇所の書き損じが命取りになる。
自分だったら……
と考えた瞬間、結論は出た。
僕は迷わず席を立ち、アリーナの出口へと階段を駆け上がった。
運良く、Aブロック出入口近くに試験監督の腕章を巻いた教師がいた。
「先生、報告があります」
僕は努めて冷静に、しかし一刻を争うのだと、見たままの事実を突きつけた。
「……最前列の受験生が不審な行動を取り、三列目の受験生の筆記具を持ち去ったように見えました。次の試験に重大な支障をきたします。至急、確認をお願いします」
受験生である僕が、声を荒げているのが意外だったのか。
監督官は深く頷くと、僕と共にアリーナへと引き返した。
「……あれ……? 僕の……消しゴムがない」
アリーナに入ると、戻ってきたばかりのトウワが青い顔をして、机の周りを必死に探していた。
予感は的中した。
あの男は、トウワから「修正する手段」を奪っていったのだ。
周囲の受験生たちは、困り果てたトウワを遠巻きに眺め、関わりを避けるように冷ややかな視線を送っている。
最前列のあの男はまだ戻っていない。
その時だった。
ソウシがおもむろに、手元の物差しを握った。
「よっ……」
彼は自分の消しゴムを机に置くと、まるで野菜でも切るかのように物差しのエッジを当て、体重をかけて押し切った。
音も立てず、真っ白な塊が二つに分かれる。
「ほら!」
ソウシは、二つに切り離された消しゴムの片方を、ヒョイと放り投げた。
小さな白い塊は、綺麗な放物線を描いて、唖然とするトウワの手のひらに収まる。
「えっ……あ、これ……いいの? 君だって必要だろ?」
「だって無いと困るじゃん! それ、あげる!」
ソウシは、切り口がガタガタになった自分の消しゴムを誇らしげに掲げ、ニカッと太陽のように笑った。
(……なんだ、あいつ……)
僕は立ち尽くしていた。
僕の世界では、足りないものは「補充」するか「奪い返す」かだ。
自分の持ち物を半分にして、見ず知らずの他人に分け与えるなんて発想、僕の辞書には一文字も存在しなかった。
「……とりあえず、今はこのままで。後で僕の方から経緯を説明しておくから、君は試験に集中しなさい」
後ろから追ってきていた試験監督が、静かに、けれど確かな信頼を込めて僕の肩を叩いた。
僕は自分の席に戻りながら、前列で鼻歌交じりに鉛筆を揃え始めたソウシの背中を見つめた。
電車での毅然とした態度。
鉛筆を転がす余裕。
そして、この迷いのない自己犠牲。
(もっと、あの子のことが知りたい……)
僕の中で、今まで感じたことのない種類の渇望が芽生えていた。
友達になりたい。
いや、それ以上に、彼がどんな魔法を使い、どんな景色を見て笑うのかを、誰よりも近くで見てみたいと思ったのだ。
「とにかく……合格する。絶対に」
僕は、まだ名前も知らない少年の背中に向かって、静かに、けれど熱い決意を固めた。
――――――
午前中の筆記試験が終わり、一時間の休憩に入る。
受験生たちが移動を始めた時。
僕の視線は列の前方にいるあの男を捉えた。
トウワの消しゴムを盗み、何食わぬ顔で歩いている、あのひょろりと背の高い受験生だ。
僕は迷いなく歩みを早め、男の肩を掴んだ。
「……誰? 何の用?」
男が煩わしそうに振り返る。だが、僕が睨むと口を噤んだ。
「君、Aブロック三列目、トウワ君の席から筆記用具をくすねただろう?」
僕の声は低かったが、周囲の受験生が足を止めるには十分な響きを持っていた。
「な、何を根拠に……証拠でもあるのかよ!」
「証拠なら、試験監督が会場内の防犯カメラで君の動きを検証すれば済む話だ。アリーナの中に設置されていることに気づかなかったのか? 不正がないように対策されているんだよ。それとも、今ここで僕が君のポケットの中身を強制的に開示させてもいいのか?」
僕の指先がわずかに動いただけだったが、男は目に見えて動揺し始めた。
「わ、分かったよ! 返せばいいんだろ!」
男は懐からトウワの消しゴムを取り出すと、地面に投げ捨てて逃げるように人混みへと消えていった。
「イッセイ、ありがとう……」
騒ぎに気づいたトウワが、地面に落ちた消しゴムを拾い上げ、申し訳なそうに笑った。
「……二度とあんな真似をさせないためだ。気にするな」
僕はぶっきらぼうに答えた。
視線は、すでにのんきにあくびをしているソウシに向いていた。
僕は『悪を裁く』ことで事態を収拾しようとした。
だがソウシは、そもそも『困っている者がいない状態』を瞬時に作り出してしまった。
(……やっぱり、こいつには勝てないな……)
僕は自嘲気味に口角を上げた。正義を振りかざす自分よりも、欠けたものを埋めたあの少年の方が、ずっと「かっこいい」気がしたのだ。
僕は同級生からの誘いを断り、アリーナの自分の席に戻った。
一人になりたかった。
魔法省推奨の「栄養素とカロリーが考えられた充填ゼリー」のパウチを開ける。
脳に即座に糖分を送り、午後の実技に備える。
食事もまた「調整」の一環に過ぎない。
「……あ、やっぱり君だ! 今朝の電車のことに、さっきはトウワのことも、ありがとうな!」
ふいに頭上から降ってきた明るい声。
見上げると、そこにはソウシが立っていた。
「……別に、礼を言われるようなことはしていない。不正を見逃す事が性に合わないだけだ。」
「ふふっ、相変わらず難しいこと言うね。とにかく無事に筆記試験が終わって良かった。なぁこれ、俺の婆ちゃんが作ったんだ。一個食うか? 具は梅干しと昆布!」
袋から差し出されたのは、僕のゼリーとは正反対の、無骨で不格好な「おにぎり」だった。
普段の僕なら、潔癖症を発動して決して手に取ることのない代物だ。
それなのに、自分でも驚くほど自然に、そのラップに巻かれた黒い塊を受け取っていた。
「……一つ、もらおう」
一口かじると、口の中に米の確かな旨みと、懐かしい味が広がった。
ゼリーでは決して得られない、身体からじわじわと体温が上がるような感覚。
「久々に食べた……悪くない、ね」
「だろ? ここぞって時には米だよな!」
ソウシは隣で自分のおにぎりを頬張りながら、屈託なく笑う。
その笑顔を見ていると、僕の頭の片隅にある『人より優位に立つには』という冷たい公式が、少しずつ書き換えられていくような気がした。
「俺、月読ソウシ。普通にソウシって呼んで」
「分かった。僕は櫻川イッセイ。イッセイでいいよ。……なぁ、そういえば、さっき鉛筆転がしてなかったか?」
「バレた?」
イタズラがバレた子供のような笑顔を浮かべて、『分からない所だけな』と言いながら、
「トウワにも指摘された」と笑う。
「マジなのか?」
顔を見合わせて、二人で大笑いする。
この時間が楽しくて、今が試験の休憩時間だということを忘れてしまいそうになる。
「俺、冒険者志望だから午後の実技にかける」と、彼は細い腕を曲げてみせた。
力こぶを作っているつもりらしい。
「本気で言ってる?」
「本気! めっちゃ頑張る!」
気がつけば、一人で静かに整えたいという気持ちは、どこかへ吹き飛んでいた。
休憩時間ギリギリまでソウシと過ごした僕は、自分でも驚くほどリラックスしていた。




