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5月3(2)真夜中の森のクマさん


【Episode:イッセイ】


 新緑が陽光を透かし、学園内が生命の輝きに満ちる季節。


 僕の一人暮らしには、ようやく安定した「秩序」が戻ってきた。


 壊滅的だった僕の家事能力を見かねた父の秘書が、亡き祖父母の代から実家を支えてくれていたベテランの家政婦、キクさんを派遣してくれたのだ。おかげで日々の生活の心配は、綺麗さっぱりなくなった。


「坊ちゃん、ソウシさんというお友達……近頃はお見えになりませんねぇ」


「彼は今、部活が忙しいんだ。でも、キクさんの料理がうまいからまた来たいって言ってたよ」


「まぁ、それは嬉しいですねぇ。その時は腕によりをかけて作らせていただきますよ」


 キクさんとの会話は心地よく、食卓には慣れ親しんだ味が並ぶ。


 だが、整った生活と引き換えに、ソウシが「飯作るぞ!」と嵐のように我が家へ上がってきてくれるあの賑やかな時間は、なくなってしまった。


 僕は、その胸の内にできた空白を埋めるように、放課後の生徒会の仕事を終えると、足早に美術部の部室へと向かうようになった。


 入学試験首席という成績と、新入生トーナメントでのリーダーシップを見込まれ、あの食えないワタル会長たちに半ばハメられるようにして入った生徒会。

引き受けた一番の理由は、ソウシが僕を「学園の顔」として誇らしげに推薦してくれたからだ。


 高校では「自由」を謳歌するつもりだった僕にとって、これは大きな誤算だったけれど、ソウシに認めてもらえるなら、いくらでも頑張るつもりだ。


 面倒な仕事を終えたばかりだというのに、僕の歩調は軽い。

今から向かう場所に、大好きなソウシがいるから。


 美術部の部室。


 将来冒険者を目指すという体育科のソウシが、迷わず美術部を選んだのは意外な選択だった。


 だが、キャンバスに向かう彼の真剣な眼差し、時折ピコピコと跳ねている髪、そして僕を見つけた瞬間にこぼれる「イッセイ!」という無邪気な笑顔。

それらすべてが、僕にとってはどんなものよりも価値のあるものだった。


 キャンバスに向かうソウシの横顔を、僕は少し離れた位置から盗み見る。


 ソウシが描いているのは、光の中で動き出す『街』の風景。

だが、その下書きの隅、金網フェンスの網目の歪みや、そこから見える特有の角度に、僕の胸が微かに疼いた。


 ずっと、彼を見てきたから。


 彼が何を美しいと感じ、どこで足を止めるのか。

言葉にされなくても、僕には分かってしまう。

それは、学園のグラウンドの東端、金網越しに見えるあの街並みだ。


 そして――以前、彼が「朝日が昇る瞬間って、実際に見てみないと分かんないよな」と呟いていた言葉が、頭の中で綺麗に結びついた。


「……ソウシ」


「ん? イッセイ、いたのか!」


「その絵だけど……。明日休みだし、もし用事がなければ、朝日を見に行かないか?本物の光の下で見た方が、イメージがはっきりすると思うのだが」


 ソウシは目を丸くして驚いたあと、「イッセイ、すげー! 俺の考えてること、なんで分かるんだ?」と、無邪気に笑った。


 僕はただ、愛おしさを隠して微笑みを返した。



 明日の日の出に学校へ来るにも電車が動いてない。

なので僕たちは深夜、終電でグランドに忍び込み、朝日が出る時間まで潜んでようという結論が出た。

 僕は補導されそうな、ハラハラする行動を取ったことは一度もない。

念のため校則を読み込んでみたが、『深夜の学校のグランドに入ってはならない』とは無かったので大丈夫だと自分に言い聞かせる。

何よりソウシと二人きり、深夜に会えることにワクワクした。

こんなことが出来るのも、一人暮らしの醍醐味な気もする。


 終電のドアが閉まり、無人のホームに降り立った僕たちは、濃紺の闇に包まれた山道を見上げた。


「通学用の石段は、夜間は封鎖されている。……車道の方を回ろう。先生たちが使うルートだ。傾斜は緩いが、距離は三倍以上あるぞ」


「おう。二人なら、そんなの余裕だろ!」


 街灯一つない、車専用の山道。


 唯一の光源は、ソウシが持つ魔石の懐中電灯だけだった。

アスファルトの冷えた匂いと、湿った草木の香りが鼻を突く。


 しばらく無言で歩いていると、ソウシが急に僕の袖を引いた。


「なんか……歌みたいなのが聞こえる……」


「……マジで?」


「……イッセイ」


 囁くような声で名前を呼ばれ、どちらからともなく、僕たちの手が重なった。


 繋いだソウシの体温は、この夜の闇の中で、唯一の絶対的な「生」の証だ。

冷たい夜気の中で、彼の体温だけが熱を持って伝わってくる。


 耳をすませていると、確かに声が聞こえ、だんだんと近づいてきた。


「♪ある〜日〜、森の中〜」


 身構える僕たちだったが、聞こえてきた曲があまりにオカルトからかけ離れていたせいで、一気に毒気を抜かれる。

自然と足が止まった。


「♪クマさんに〜出会った〜」


 下の方から、だんだんと明かりが近づいてくる。


「おお!?」


驚く声と共に、強烈な光が僕たちを照らす。

目を凝らして見ると、光の主は頭にヘッドランプをつけた大柄な男。


「あれ? 櫻川と月読じゃん! 」


よくよく見ると、体育科教師の長尾先生の姿だった。

ソウシの担任であり、僕の体育の授業も担当している先生だ。


「ははーん、お前ら。こんな真夜中にデートか? 青春だねえ!」


 長尾先生はいつものごとく、軽い口調でからかうように僕たちを指さした。


「違います。月読の絵の参考のため、朝日を見に来たんです! 許可なくすみません!」


 僕は慌ててソウシの手を離し、彼を庇うように一歩前に出た。

 長尾先生はそんな僕らを見て、笑いをこらえたような表情を浮かべ

「今日は後で酒を飲む予定があるから、徒歩なんだよ」と言いながら、僕たちの頭をガシガシと(犬を愛でるように)撫でた。


「いいぜ、今日は俺の天体観測に同行したってことにしといてやる。ほら、これ持て!」


 有無を言わさず渡されたのは、重厚な天体望遠鏡と寝袋。


「先生、なんで『森のクマさん』を歌ってたんですか?」とソウシが問うと、先生は真顔になって答えた。


「この山の幽霊は辛気臭い奴が大好きでな。こうやってこの曲を景気よく歌っていれば、『あ、こいつら陽キャだな』と思って消えてくれるんだってよ」


 そのあまりに脳天気な答えに、僕たちは首を傾げると先生は慌てたように、


「俺が作った話じゃないぞ?この学校の七不思議の一つなんだ!先生はここのOBだからな!伝統だ。みんなそうしてる。」


「はい……」


「ふふふ」


 どこの学校にも七不思議があるし、長尾先生の放つ圧倒的なエネルギーに引きずられるように、

結局僕たちは、三人で声を合わせて『森のクマさん』を大合唱しながら夜の山道を登り切った。


   *


深夜のグラウンド。


地面に敷いた寝袋の上に、三人で仰向けに寝転がる。


「ここって他に遮るものがないから、星がよく見えるんだよな」


 先生の言葉に夜空を見上げる。


「あっ……本当だ。星が降ってくるみたいだ」


 隣のソウシの瞳に、夜空の瞬きが反射してキラキラと揺れていた。


 長尾先生は僕たちの隣で、この喜多川の思い出を話してくれた。

運動会のリレーのアンカーに選ばれ、無理やり長いスカートを履かされて走った話や、文化祭の女装コンテストでチアガールになって踊らされた話。

先生は照れくさそうな笑い声を交えながらも、まるで宝物を語るように、とても愛おしそうに話してくれた。


「あっ……流れた」


 ソウシが指差した先を、僕は必死に追いかける。


 願い事をする暇なんてなかったけれど、隣にソウシの体温があるだけで、僕はもう十分すぎるほど満たされていた。


 やがて、

ザクッ、ザクッ……

と、重く土を踏みしめる足音が近づいてきた。


「……おっと。やっと来たか」


 長尾先生が立ち上がる。

その時の先生の顔は、普段の快活な教師のものではなく、一人の「男」の顔になっていた。


「お前ら、こっからは大人の時間だ。向こうへ行ってろ」


「……先生、待ち合わせですか?」


「ああ、約束なんだよ。十年前の、な」


 月明かりの下、車道の方から一人分の影が現れた。

月明かりで顔は見えないが、背格好は長尾先生と同じくらい。

この学園の卒業生なのだろうか、一人の大人の男性が見えた。


 僕とソウシが遠くから静かに見守る中、長尾先生はその男性と、驚くほど穏やかで優しい声で話し始めた。

お互いの肩を軽く叩き合い、静かに並んで夜空を見上げる二人の背中には、他人が立ち入れない絶対的な空気感があった。


 十年前の約束が、今、この星降るグラウンドで果たされている。

と考えると、そのあまりにも深く切ない約束の重さに、僕は激しく胸を揺さぶられていた。


「……ソウシ。もうすぐ、日の出だ」


 東の空が青白い霧に包まれ、静まり返っていた街が生命の脈動を始める。


 グラウンドの東端。金網フェンス越しに、ソウシのキャンバスに描かれていたものと同じ、本物の街並みが広がっていく。


「きれいだな……」


 ソウシが呟く。

けれど、僕が紡いだ

「本当に綺麗だ……」は、目の前の街に対してではなかった。

朝日を浴びて、淡く透き通りそうなソウシの横顔を見つめて、言葉が溢れていた。


 抱きしめたい。


 朝の光に溶けて消えてしまいそうな、その華奢な身体を。


 だが、その強烈な衝動を必死に抑え込むように、僕は冷たいフェンスを痛いほど強く握りしめた。


「なぁ、イッセイ……」


 ソウシが不意に、こちらを振り返る。


「……俺たちも、約束しない? 十年後、ここでまた……二人で、朝日を見ようぜ!」


 そこには、朝日の光をいっぱいに浴びた、彼の屈託のない笑顔があった。

先ほど見た長尾先生たちの姿が、一瞬だけ僕たちの未来に重なる。


「うん……約束だ」


 眩しい光が世界に溢れ出す中、僕たちは静かに小指を絡ませた。


 幸せで、けれど胸が締め付けられるほど切ない、五月の朝。


 僕の恋心は、東の空から昇り始めた太陽よりも熱く、胸の奥を激しく焦がし続けていた。


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