これは水じゃない
翌朝は静かだった。
もう数時間ほど眠っていたはずだが、遠くから聞こえるドワーフたちの鍛冶音で、否応なしに目を覚まされた。空気にはまだあの匂い――鉄と温まった土の香りが漂っていたが、今はそれに何かが焼ける美味しそうな匂いが混ざっていた。お腹が鳴る。
「うう…イレーネ…?」
横目で彼女を見た。
毛布にくるまって、まるで生きたブリトーのように眠っている。顔にはまったく緊張感がなく、安らかな寝顔だった。
起こすのがもったいなかった。
でも、体を少し動かすと、彼女の鼻がひくっと反応し、次の瞬間にはぱちりと目を開けて、あくびをしながらぴったりと僕にしがみついてきた。
「…お腹、空いた?」
コクンといつものようにうなずく。
それで、二人で一階の酒場へ降りていった。
――そして、見た。ドワーフ式のメニューを。
酒場のカウンターの後ろに巨大な石板が掲げられていた。名前はルーン文字と共通語で彫られていたが、最初は何が何だか理解できなかった。
「炎焼きリトル・コカトリスの脚」
「火山猪のリブ・熔岩風味」
「魔紋炉焼きミノタウロス・ステーキ」
「酸性ソースの血まみれ三種ソーセージ」
そして一番下に、
「火の谷の水(冷)」
最後のが唯一まともに見えた。水。ようやく安心。
「水を一杯ください」
そう言って頼んだが、カウンターのドワーフは、まるで赤ん坊が母乳をねだったかのような顔でこちらを見た。
彼は金属製の分厚いマグカップに、透明な液体を注いだ。湯気が立っていた――まるで温泉水。
ゴクッとひと口。
――そして喉が燃えた。
「ごほっ、ごほっ、ごほっ、ごほっ!!」
テーブルの上で体を折り、涙を流しながらむせた。誰かが喉の奥で火をつけたような感覚だった。
イレーネは目を丸くしてから、くすくすと笑い出した。鈴のような笑い声。とても楽しそうだ。
「……これ、水じゃない……ただの酒だろ、これ……」
後ろのカウンターのドワーフは腹を抱えて笑っていた。
「それが“水”さ、よそ者よ! ドワーフの水はこうだ。クラグ樹の皮を蒸留し、三度発酵、そして火山氷で冷やした極上の一杯。たったの38%だぞ? 魂が浄化されるってもんだ!」
……プライドの方が喉より痛かった。
「イレーネ、ちょっと待って、飲む前に確認する」
彼女の前にあったグラスを手に取り、少し飲んでみる。
鮮やかな青の液体だった。味は…柑橘のような酸味に、ミントのような清涼感、そしてほんのり甘い。完璧だ。アルコールの気配は感じられなかった――たぶん。
「これは大丈夫だよ」
イレーネにグラスを渡すと、両手で大事そうに持って、嬉しそうに飲み始めた。
少しして、料理が運ばれてきた。
イレーネの前には、鶏の脚のようなもの……いや、鶏が巨大化したようなサイズ。骨は僕の前腕ほどの太さがあった。
「これって……リトル・コカトリスか?」
メニューによると、「火炎焼きリトル・コカトリスの脚・火山スパイス仕立て」だった。
イレーネは両手でがっしり持ち、目を輝かせながらかぶりついた。まるでハムスターがメロンに挑んでいるかのような光景に、思わず笑ってしまった。
「可愛いな…」
僕の前には「リトル・ミノタウロスのステーキ」。
皿いっぱいに広がったそれをナイフで切ると、バターのように滑らかに切れた。肉汁が溢れ出し、香りだけで疲れが吹き飛ぶ。
ひと口。
――降参。
神よ…。
噛んだ瞬間に、懐かしさのような幸せが舌を包んだ。肉は引き締まっていてジューシー。味は濃厚で、ずっと口の中に残る。例えるなら最高級のビーフステーキ。いや、それ以上。
「……これはズルい」
思わずそう呟いた。
食事の間、イレーネはひたすら肉と格闘しながらも満面の笑顔で、僕の心も自然とほぐれていった。
酒場は賑やかで、ドワーフたちが豪快に食べ、笑い、飲んでいた。他の種族たちは、すでに数人が酔い潰れていた。だが、雰囲気は荒々しくも温かかった。
全てが鉄と石で作られた空間で、生命が躍動している――そんな場所。
イレーネが指をぺろぺろ舐める姿を見ながら、僕は思った。
――ああ…幸せって、こういうことかもな。
けれど、これで終わりじゃない。
腹が満たされたら、次は……
鍛冶屋を探さなきゃな。




