第99話 マジ尊い私のママの朝メシと創先輩の神アレンジコーヒー牛乳が優勝すぎる件www
第三部から22時10分投稿となります。
「由紀ー! 朝ごはんできてるわよー! ほら起きなさい、また遅刻するわよ!」
「ふぁ……ん……あ、朝かー……って、ヤバ、もうこんな時間じゃん……」
階下から飛んでくるお母さんの小言交じりの声に、私――種田由紀は愛用の布団からノソノソと這い出した。
薄手のレースカーテンを透かした朝の光と、階下から漂ってくるいりこ出汁のお味噌汁、それに醤油を垂らした焼き鮭と甘い卵焼きの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
見慣れた、私の城。
壁には、私の最推しでありガチの神様であるチャールズ・ダーウィン先生が描いた『生命の系統樹(Tree of Life)』の特大ポスターがドーンと貼られている。
机の上には、中学生の誕生日に「本物の世界を見せてやる」とお父さんが奮発してくれた単眼の光学顕微鏡。その脇には、背表紙が割れるまで読み込んだ『種の起源』と分厚い古生物図鑑が、雪崩を起こしそうなくらいうずたかく積まれていた。
寝癖のついた髪を雑に手ぐしで撫でつけ、トントンと階段を駆け降りる。
「おはよう、由紀。ゆうべも遅くまで図鑑を読んでいたのか? まったく、受験生なんだから……『一時間の浪費を――』」
「『――なんとも思わない人は、人生の価値をまだ発見してはいない』、でしょお父さん!」
「はっはっは! いやー、うちの由紀はダーウィン先生の生まれ変わりだなぁ! ねぇ、ママ♡」
「もう、お父さんたら甘やかさないで。由紀、ほら、冷めないうちに食べちゃいなさい」
新聞を広げていたお父さんが老眼鏡の奥で目を細め、エプロン姿のお母さんが湯気の立つ白いご飯と、わかめと豆腐のお味噌汁を並べてくれた。
皮がパリッと焼けた紅鮭に、お母さん特製の甘じょっぱい厚焼き玉子。私は「いただきます!」と手を合わせるのもそこそこに、ホカホカの白米で卵焼きをワンバウンドさせて口へ放り込んだ。
「んむ……ッ! うっま……! マジでお母さんの卵焼き、宇宙一なんだけど!」
「急いで食べると喉に詰まらせるわよ。はい、お茶。……また今日も放課後は生物部で実験なの? 創ちゃんと怪しい怪獣の解剖でもするの?」
「怪獣じゃないし! あのねお母さん、これはカンブリア紀のバージェス頁岩動物群における機能形態学的な考察っていうかアノマロカリスとかオパビニアの特異なボディプランが現在の節足動物の初期進化にどう繋がるかっていう超・超・超重要な研究でね!? そもそも怪獣じゃなくて古生物だし当時の海洋生態系の頂点捕食者としての前部付属肢の構造がマジでエグいくらい機能美に溢れてて進化の試行錯誤の結晶って感じで――」
「はいはい、息継ぎしなさい息継ぎ。朝から専門用語を早口でまくし立てられても、お母さんさっぱり分からないわよ。……ま、創ちゃんと仲良くやるのはいいことだけど、夜遅くならないうちに帰ってくるのよ?」
「わかってるってばー!」
お父さんのくつくつという笑い声と、お母さんの温かい小言。
湯気の向こうにある大好きな家族の顔が、私の何気ない平穏な日常だった。
***
放課後の地学ヶ丘高校。
スクールカーストの品定めするような視線が渦巻く中庭は、いくら見た目を今どきのJKっぽく着飾ってみても、ひとたび口を開けば古生物と進化論を早口で語り出すガチオタクの私にとって、マジで息が詰まる空間だ。
そういう息苦しいノイズを全部やり過ごして、私は日当たりの悪い北校舎の最果てへと急いだ。
突き当たりにある木製の重い引き戸。『生物部室』と書かれた古いプレート。
ガラリ、と戸を開けた瞬間、外界のウザい雑音がプツリと遮断された。
部屋を満たすのは、理化学機材が放つ微かなモーター音と、消毒液、それから乾いた培養土の匂い。学校の乏しい予算をやりくりして二人で魔改造し尽くしたこの部屋は、誰にも侵されない私たちの「聖域」だった。
「遅いよ、種田くん。待ちくたびれて、熱力学第二法則に従って僕の生命活動がエントロピー増大で停止するところだった」
実験台の前に座っていたのは、部長の上野創――創先輩だ。
私より一回り大きなヨレヨレの白衣を羽織り、寝癖混じりの黒髪ショートを揺らしている。ボーイッシュでひどく整った顔立ちをしているくせに、どこか浮世離れした空気をまとっている、クールで変人な美少女である。
「創先輩、また白衣のボタン掛け違えてますって! てか、下のパジャマの柄がガッツリ透けてますけど!? マジで今日その格好で登校したんすか!?」
「細かいことはいいんだよ。科学者たるもの、外見の不確定要素にリソースを割くのは非効率的だ。……それよりほら、ちょうど今、抽出が完了した」
実験台の上には、アルコールランプと三脚、耐熱ガラスのフラスコとビーカー。
創先輩は獲物を狙うような鋭い目つきで温度計の目盛りを睨みつけ、炎の距離をミリ単位で微調整していた。
「いいかい、種田くん。牛乳の乳タンパク質が高熱で変性を起こし、表面に皮膜を作るのは六十八度以上だ。だが、メイラード反応による芳香と甘みを最大限に引き出しつつ、タンパク質の立体構造を崩さない黄金の限界温度は……『六十五度』。これより一度高くても低くても、僕の求めた至高のコーヒー牛乳にはならない」
「相変わらず、コーヒー牛乳淹れるためだけに熱力学と生化学をフル活用してんの、マジでヤバいっすね……」
満足げにひとつ頷くと、創先輩は六十五度にキープされたそれを二つのビーカーへ注ぎ分け、ストローを挿して片方を私に差し出した。
昼休みに購買で買い込んでおいた惣菜パンとスナック菓子の袋を広げ、二人揃ってビーカーのストローを咥える。コクのあるミルクの甘みとコーヒーのほろ苦さが、じんわりと口いっぱいに広がった。
「……んーっ! やっぱこれ超おいしいです! 温度管理カンペキすぎてミルクの甘みとコーヒーの苦みのバランスが神ってるっていうか、創先輩の淹れるコーヒー牛乳、世界で一番理にかなっててマジ最高っす!」
「ふふん、当然だろう。科学とは自然の摂理への敬意だ。……さて、種田くん。昨日の『カンブリア爆発における低酸素環境下の胚発生』についての論文だけどね」
「あ、それです! 私あれ読んでてマジで鳥肌止まんなかったんですけど、つまり当時の海洋の溶存酸素濃度の上昇だけがトリガーじゃなくてですね、発生プログラム自体のモジュール化とHox遺伝子群の重複が環境ストレスとリンクして一気に多様性の爆発を引き起こしたって仮説が超アツくないですか!?」
顕微鏡を覗き込み、アルコールランプの揺れる光に照らされながら、私たちは時間を忘れて熱力学やダーウィンの自然淘汰説を語り合った。
早口で暴走しがちな私を面白そうに受け止め、真っ直ぐな信頼を向けてくれる創先輩。この場所がある限り、私はなんだって耐えられると思っていた。
***
「ふう……今日もすっかり語り込んでしまったね、種田くん」
「あーっ、もう完全に夕方じゃないですか、創先輩! ヤバいヤバい、早く片付けないと、戸締まりの先生にガチギレされちゃいますって!」
ビーカーを洗い、部室の鍵をかけて茜色の廊下へ出た、その時だった。
普段なら誰も来るはずのない北校舎の奥へ、ガヤガヤと下品な足音と、むせ返るような甘い香水の匂いが近づいてきた。
「ギャハハ! 今日の練習試合、相手のキーパーマジでノロマだったわー!」
「いやー、アレは翔のシュートがエグすぎたって!」
「てか翔くん、わざわざ見に来たけど本当にこの奥なのー? カビくさくて最悪なんだけど」
「まあ見とけって。教師の目も届かねえし、俺らの溜まり場にピッタリだからさ」
薄暗い廊下の向こうから、我が物顔で乗り込んできた男女数人のグループ。
着崩した制服でバカ笑いするサッカー部の悪友たちと、スマホ片手に騒ぐ派手な一軍女子。その中心で、両脇に女子を侍らせながら歩いている金髪混じりの男子生徒。
容姿と運動神経だけは恵まれているが、傲慢で身勝手なスクールカーストの頂点――同級生の、有須翔だ。
部室の前に立つ私と創先輩の姿を認めるや、取り巻きの女子が「うわ、まだいたんだ、北校舎の実験オタク」とクスクス笑った。
有須は露骨に蔑むような嫌な笑みを浮かべると、わざとらしく私たち二人の行く手を阻んだ。




