第100話 スクカの頂点様、草も生えないんですけど。
「やあやあ、まだそんなカビくさい部屋に引きこもってたわけ? いくら見た目だけ今どきっぽく着飾ってもさぁ、中身が陰キャオタクじゃ意味ないよねぇ、種田」
赤黒い夕焼けに染まる北校舎の廊下。
私たちの行く手を塞ぐように立った有須翔が、ニヤニヤと粘着質な視線を私に注いだ。
軽くウェーブをかけた金髪混じりの茶髪に、整った顔立ち。その左腕には、彼女の真咲莉乃がベッタリと胸を押しつけるように絡みついている。
すかさず、後ろでサッカー部のジャージをだらしなく羽織った太鼓持ち――佐久間拓海と景山剛が、「出たよ、翔のド正論」「マジ容赦ねェ〜」と下品な鼻笑いを漏らした。
腕に絡みついた莉乃まで、「てかマジで薬品くさーい。近寄んないでほしいんだけど」と、わざとらしく厚化粧の鼻をつまんでみせる。
(うわ、出たよスクカの頂点グループ様。有須の虎の威を借りて、群れることでしか自我を保てない低次元な社会性動物の典型じゃん。マジでウザすぎて草も生えないんですけど……)
私が内心で毒づいた、その時だった。
「何か用でしょうか、有須くん。僕たちの放課後の貴重な可処分時間を、君の無意味な雑談で消費させるつもりなら、極めて非効率的だが」
スッ、と創先輩が一歩前へ出た。
ヨレヨレの白衣のポケットに手を突っ込んだまま、氷のような瞳で有須たちを見据える。
ピクリ、と有須の頬が引きつった。
コイツは、創先輩が大嫌いなのだ。顔が良くて、成績は学年トップ。男子にも女子にも一切媚びず、自分の世界を凛と確立している孤高の美少女。スクールカーストのくだらない序列が一切通用しない創先輩の存在が、他人を「自分を引き立てる小道具」としか見ていない有須のプライドを逆撫でして仕方がないのだろう。
「へっ、相変わらず気取ってんなぁ、上野先輩。……まあいいや。今日わざわざこんな奥まで来たのはさ、ちょっとした下見と通告なんだよね」
ニヤリと唇を歪め、有須が空いたほうの手で指の骨をポキリと鳴らす。
「あんたらが使ってるその部室。来月からサッカー部の第二部室兼、俺たちの荷物置き場にするから。生徒会に申請出して、顧問の許可も取りつける予定だしさ。部員二人だけの幽霊部活なんだから、大人しく部屋を明け渡しなよ」
「そーそー! ソファとか持ち込んで、あたしたち専用のサロンにするんだからさ! その気色悪い標本とかさっさと捨てといてよねー!」
「ギャハハ! 幽霊部活のオタクなんざ、校庭の隅でダンゴムシでも眺めてりゃお似合いだっつーの!」
「違ぇねえ!」
莉乃がキャハハと甘ったるい声を上げ、佐久間と景山が手を叩いて囃し立てる。
(――は? なにそれ、完全な言いがかりじゃん!)
あの部室は、何十年も前から生物部が管理して、私と創先輩がお小遣いと予算をギリギリまで削って魔改造してきた聖域なのに。こんな連中のサボり場に奪われてたまるか。
「断る」
創先輩の声は、静かだった。
「第一に、部室の割り当ては生徒会の権限ではなく、職員会議の管轄だ。第二に、サッカー部が求める運動用具の保管スペースに対し、精密理化学機器が設置された特別教室を割り当てる合理性は皆無。第三に……有須くん、君たちの声のデシベル数が高すぎて、僕の脳内での思考の収束が阻害されている。速やかに立ち去りたまえ」
淡々と、だが完膚なきまでの論理カウンター。
有須の額に、ビキッと青筋が浮かんだ。莉乃や佐久間たちの手前、年上の女子に正論でやり込められたのがよほど屈辱だったらしい。
「チッ……気取ってんじゃねえぞ、オタクのクセに!」
ドカッ、と有須が一歩詰め寄ってきた。
創先輩ではない。その後ろにいる私へ向けて、威圧するように見下ろしてくる。
「おい種田、お前もだよ。いつも分厚い図鑑なんか抱えて、気持ち悪い呪文みたいなことブツブツ喋りやがって。上野先輩に金魚のフンみたいにくっついて、自分まで特別になったつもりか? キモいんだよ。お前みたいな痛々しいオタク、この学校の誰も相手にしてねえんだからさ」
――自然淘汰。
頭の中で、その四文字が冷たく響いた。
たまたま与えられた狭い教室内の優越感に胡坐をかき、過剰な装飾と虚勢でしかマウントを取れない思考停止の群れ。
地球四十六億年の進化の歴史において、こういう連中は環境の変化に絶対適応できない。真っ先に絶滅する、系統樹の袋小路だ。目の前でイキり散らかしている有須も、佐久間も、景山も、莉乃も、ダーウィン先生の理論をそのまま体現したような浅薄なサンプルでしかなかった。
「……有須くん」
私は創先輩の背中から半歩出て、まっすぐに有須の目を見返した。
「私がキモいオタクなのは否定しないけど。でも、何言われてもこの部室は絶対渡さないから。ここは、私と創先輩の……一番大事な場所なんで」
「……あ?」
みるみるうちに、有須の顔が怒りでドス赤く染まっていく。いつもなら教室の隅で空気になっているはずのオタク女子が、取り巻きたちの前で自分に口答えした。その事実が、どうしようもなく許せなかったのだろう。
「……ふーん。いい気になってろよ、マジで。どうせ来月にはゴミごと全部放り出してやるからさ。……おい、行くぞ」
有須は激しく舌打ちをすると、佐久間や莉乃たちを連れて荒々しく去っていった。
遠ざかる下品な足音と、鼻に残る安っぽい香水の残り香。重苦しい沈黙だけが、夕闇の廊下にぽつんと取り残された。
「大丈夫だったかい、種田くん。彼の知性は更新世あたりで進化を停止しているようだから、取り合うだけ時間の無駄だが」
「あはは……大丈夫っすよ、創先輩! 更新世はさすがに旧人類に失礼じゃないですか? てか、あんな絶滅危惧種の言うことなんて、全然気にしてませんって!」
強がってヘラッと笑ってみせると、創先輩が私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。
白衣の袖からふわりと漂う、ほんのり甘い、六十五度のコーヒー牛乳の匂い。
大丈夫。私には、この場所がある。創先輩がいて、家に帰れば優しいお父さんとお母さんが待っている。
どんなに理不尽な奴が邪魔をしようと、私たちの完璧な聖域は絶対に揺るがない――そう、信じていた。
この時の私は、まだ知らなかったのだ。
プライドを傷つけられた『袋小路の獣』が、どれほど矮小で、どれほど取り返しのつかない暴力を引き起こす生き物なのかを。




