第97話(第30話) 浸透圧ブラックホールは、魔力ゼロの最強の盾
(嫌だ……。消えたくない……っ)
痛覚すらないまま、私の体が『光の塵』となって剥がれ落ちていく。
手足の感覚が消え、視界が欠ける。死の恐怖よりも恐ろしかったのは、クロエをまた一人ぼっちにして消えてしまうことだった。
(また……? ごめんね、クロエ……。海に行く約束、守れそうに……)
薄れゆく意識の先で、絶対零度の空間に縛り付けられたクロエの姿が見えた。
声も出せず、見えない万力で全身を圧殺されながらも、彼女の大きな琥珀色の瞳からは、血の滲むような涙が溢れ出していた。
――ドクンッ!
その時。一切の運動が停止したはずの静寂の世界で、あり得ない命の鼓動が跳ねた。
私とクロエの魂を繋ぐ命のへその緒――『従魔契約』が、凍りついた彼女の血液を内側から強制的に沸騰させたのだ。
(……やめなさい、クロエ! そのままじゃ、あなたの体が……っ!)
私の悲痛な制止を振り切るように、クロエは私の体を削り取っていた神の消滅魔法を、パスを通じて自らの体内へと【逆流】させ始めた。
魔素が充満するこの世界で、魔力ゼロの彼女の肉体は『超高真空』に等しい。
対して、私を蝕んでいるのは超高濃度の神聖魔力。
自然界は空白を嫌う。絶対的な物理法則――『浸透圧(濃度勾配)』に従い、致死の魔力がクロエの体へと猛烈な勢いで流れ込んでいく。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
血を吐くような絶叫。
パリンッ!!! と、クロエの体内から溢れた規格外の熱量が、女神の『絶対静止』を物理的に叩き割った。
「きゃあぁぁっ!?」
「な、何ですの!? 静止空間が……っ!」
背後で聖女たちの悲鳴が上がる。
だが、立ち上がったクロエの体は、すでに凄惨な崩壊を始めていた。
透き通るような白い肌が乾いた土のようにひび割れ、無数の裂け目から、吸い上げた光の帯が肉を内側から引き裂いて漏れ出す。毛細血管が破裂して赤い飛沫が舞い、美しい亜麻色の髪が白く焼け焦げていく。
「アノマロ、ちゃんには……指一本、触れさせないっ……!」
骨が軋み、崩れ落ちそうな足で踏みとどまりながら。
血まみれの少女は、光の塵となって消えゆく私の前に、両手を広げて立ち塞がった。
(やめてよ、私のために、そんなに……っ! やめてよ! やめてってば!!)
ギギギギギギギッ……!!
その瞬間、世界そのものがおぞましい悲鳴を上げた。
魔力を持たない少女と、別世界の異物。法則から外れた者同士が神の力を強引に呑み込んだことで、この世界の『理』が致命的なバグを起こしたのだ。
空間に巨大な亀裂が走る。
クロエの血滴が空へ昇り、砕けた木片が静止と落下を繰り返す。ランプの炎が毒々しい緑色へと反転し――絶対不壊の『黄金の甲冑』すら、赤茶けた鉄屑となってボロボロと崩れ落ちた。
「な、に……? 貴様ら、神が定めたこの世界で、何をしている……!」
勇者の顔が、初めて『理解不能な恐怖』に歪んだ。己を絶対の王と定めていた世界の法則が、足元から腐り落ち始めているのだから。
「消えろ……消えろッ! 理に仇なす不浄どもがァァッ!!」
恐怖を振り払う絶叫と共に、勇者が聖剣を天高く掲げる。
ギルドの天井が吹き飛び、割れた天空から、太陽そのものが落ちてくるような極大の光の渦が顕現した。すべてを白紙に戻す、女神の最終神罰。
視界を真っ白に染め上げる、絶望の濁流が降り注ぐ。
その刹那。
振り返ったクロエは、ひび割れた頬から血を流しながらも、出会った日のような最高に優しくて甘い笑顔を私に向けた。
「……ねえ、アノマロちゃん。逃げて!」
(だめ、クロエ、だめぇぇぇっ!!!)
内側から溢れる光に耐えきれず、彼女の小さな指先が、サラサラと砂のように崩れていく。
伸ばした私のハサミが届くよりも早く、クロエは私を護る『盾』となって、すべてを呑み込む白い光の中へとその身を投げ出した。




