第95話(第28話) クマムシの『乾眠』 vs 神威顕現『絶対静止』
「……寝言は、寝てから言いなァァァッ!!」
勇者アルス・フォン・グランドチートの氷のような宣告が響いた瞬間、最も速く動いたのは私の『家族』たちだった。
エルザママが獣のような咆哮を上げ、床の分厚い石畳を粉砕しながら踏み込む。身の丈を超える大剣が、真空の波を伴って勇者の首元を横一文字に切り裂いた!
だが、勇者は表情一つ変えず、腰の鞘の平でその豪剣をぬるりと滑らせて受け流す。
――しかし、その隙を歴戦の猛者たちが逃すはずがない。
「シッ!!」
体勢を崩した勇者の懐へ、ギックリ腰の痛みをねじ伏せたギデオンさんが肉薄。隻眼を鋭く光らせ、音すら置き去りにする『神速の三連突き』で死角の脇腹と首筋を穿つ!
同時に、影から躍進したノアが黒い稲妻と化し、勇者の喉笛へと牙を突き立てた!
さらに、受け流された反動を逆利用したママが、体を独楽のように高速回転。大剣の切っ先に赤黒い螺旋闘気を収束させ、頭上から必殺の『剛剣・天穿ち』を至近距離で叩き込んだ!
死角、喉笛、頭上――逃げ場のない完全なる三方向同時包囲網。
だが、金髪の勇者はその中心で、ただ這い寄る羽虫を見下ろすような冷酷な微笑を浮かべた。
「神威顕現――『絶対静止』」
勇者が黄金の聖剣を軽く床に突き立てた、その瞬間。
世界から、あらゆる『運動』が消滅した。
ピタッ、と。
勇者の首筋や脇腹に届くわずか数ミリ手前で、ママの大剣も、ギデオンさんの刀身も、飛びかかったノアの牙も、空中で完全に固定された。跳ね上がった石畳の破片も、大気に舞う土煙の粒子さえも。
それは、世界を満たす『魔力』を介し、分子運動そのものを強制的に完全停止させる、絶対零度の静止領域。
(…………ッ!?)
ただ一人、魔力ゼロ――世界で唯一『魔力を持たない突然変異』である私だけが、意識を保っていた。
だけど、指先一つ動かせない。周囲の空気分子の運動すら完全に停止しているため、大気そのものが「見えない分厚い万力」となって私の体を圧殺するように締め付けていたのだ。
空気が凍りついているため、肺に酸素を吸い込むことすらできない。音波の伝播すら途絶え、世界が不気味な無音に包まれる。瞬きすら許されず、視界が急速に霞んでいく。
その窒息と静寂の絶望の中、勇者だけが物理法則を嘲笑うかのように、悠然と歩き出した。
私の元へ歩み寄る道すがら、空中で静止しているママの大剣を指先で軽く弾く。
パキンッ――。
ただそれだけで、歴戦の業物がガラス細工のように脆く砕け散った。
さらに無防備に静止したギデオンさんの肘と膝の関節へ、聖剣の柄を正確かつ冷酷に叩き込んで打ち砕く。倒れ込むことすら許されず、ギデオンさんの体は関節を破壊された姿勢のまま固定される。そしてノアの腹部を叩き伏せるように蹴り飛ばし、壁面へと激しく撃ちつけた。
(あ……ぁ……)
声すら出せないまま、私の大切な家族が、ただの物のように無造作に壊されていく。
瞳から溢れそうになった一粒の涙すら、こぼれ落ちることなく空中で凍りついていた。
「……まずは、貴様からだ。理外の汚泥よ」
勇者は動けない私を見下ろし、黄金の聖剣を無慈悲に振り上げた。
――その時だった。
(冗談じゃないわ……こんな理不尽な神の奇跡、許してたまるもんですかッ!!)
クロエの頭の上で、私の体内に刻まれた究極の生存本能が、狂ったように警鐘を鳴らしていた。
魔法という名の分子運動停止(絶対零度)。だが、私のDNAは知っている。宇宙空間の真空や絶対零度の極限環境すら生き抜く、『地球最強の生存戦略』を!
(体内の自由水を急速排出! 代替保護二糖類『トレハロース』を全細胞へ超高濃度充填ッ!)
私は、ストックしていた『クマムシ(緩歩動物)』の遺伝子情報を全開でアクティベートした。
細胞内の水分を糖類へ瞬時に置換し、致死の凍結による細胞膜破壊を完全に防ぐガラス化状態――極限環境をやり過ごす究極の環境適応能力、『乾眠』への緊急移行である!
神の理が空間を凍らせたコンマ一秒の刹那に乾眠状態へ入り、魔法による「停止と死の定義」を物理的にすり抜けた私は、すぐさま反撃のフェーズへとなだれ込む。
(神の理だか何だか知らないけどね……こっちは地球四十六億年の『純粋な物理・化学法則』よッ!!)
ドクンッ!!!
体内のミトコンドリアが限界を超えてフル回転を始め、超高熱を発生させる脱共役タンパク質とATPサイクルが爆発する。
(細胞分裂のヘイフリック限界突破……テロメア崩壊開始。構うものか、クロエを守れるなら、この命ごと燃やし尽くしなさいッ!)
それは、不可逆の生命の燃焼。
自家発生させた物理的な超高熱によって、乾眠状態からの急速蘇生を果たす。
パキパキと周囲の静止空間を熱膨張で割るように立ち上がる代償として、私のパステルカラーの甲殻が熱で焼け焦げ、ひび割れ、内側から生々しい体液が熱気と共に滲み出していく。
オーガ・ロードの圧倒的な筋繊維。ヒドラの驚異的な細胞重合力。変異スライムの熱拡散被膜。
今まで喰らい、蓄積してきたすべてのDNAと生化学知識が結合し、爆発的な超変異を引き起こす!
幾重にも重なった漆黒のキチン質外骨格、赤黒く脈打つ極太の筋繊維、異常な排熱のために全身の気門から噴き出す猛烈な白い蒸気。
絶対不変の理を体現する黄金の勇者の前に。
泥水から這い上がってきた生態系の頂点たる、禍々しくも気高い【全DNA統合体】が、凄まじい排熱の蒸気を巻き上げて立ちはだかった!
ガギィィィィィンッ!!!!
振り下ろされた無敵の聖剣を、黒く巨大化した私の前部付属肢が、激しい火花を散らして正面からガッチリと受け止めていた!
「バカな……。神の理を、自力で破っただと……!?」
驚愕に目を見張る勇者。だが、即座にその青い瞳を冷たく光らせ、左手を眼前へと掲げた。
「ならば消し去るのみ――『神威・神聖浄化』!」
聖剣と左手から、絶対不可侵の超高熱聖光が零距離で爆発的に放たれる! 万物を一瞬で蒸発させる神の光陣!
しかし、今の私は一歩も退かない!
全表皮にスライムの熱拡散被膜を展開しながら、前部付属肢の爪先を超高速微振動させる!
ズババババババッ!!
空間そのものを打ち破る『超高圧キャビテーション衝撃波』の乱打!
真空の微小気泡が崩壊する数千気圧の衝撃波と激しい流体圧によって、零距離で迫る神聖光の屈折率を物理的にねじ曲げ、力任せに散乱・破砕する!
「なっ……神聖光陣を弾くだと……!?」
強引に光の渦をこじ開けた私は、即座に間合いを詰めた。
ヨホイア型の側部付属肢を前に突き出し、体内で圧縮した液体を超音速噴射!
シュパァァァンッ!!
『極高濃度プロテアーゼ&王水級・金属腐食バイオ液』の至近距離ダイレクト注入!
勇者の聖剣と、神の寵愛を受けた絶対不壊の黄金甲冑の隙間へ、強酸とタンパク質分解酵素の弾丸を容赦なく叩き込む!
ジュワァァァァァッ……!
「グ、ガァッ!?」
神授の甲冑から黒煙が上がり、聖剣の柄にメキメキと水素脆化と腐食の亀裂が入っていく。
絶対の加護を化学反応で内側から直接溶かされた勇者が、初めてその美貌を激しく歪ませて後退した。
『グルルルルァァァァッ!!(さあ、ガチ生物学の時間よ、金髪の優男! あんたのチートが上か、地球四十六億年の進化の暴力が上か、その身で味わいなさいッ!!)』




