第94話 次なる野望(海)を阻害するもの。
「クロエ様! Cランクへの昇格、本当におめでとうございます!」
「えへへ、ありがとうアイリスさん! これも全部、アノマロちゃんとノアのおかげだよ」
夕刻の冒険者ギルドは、今日も活気と喧騒、そして香ばしいエールと肉の匂いに満ちていた。
受付カウンターの前に立つ私は、『Cランク』へと更新されたばかりのピカピカの金色のギルドカードを、宝物のように両手で包み込んでいた。
その隣では、黒豹のノアが誇らしげに尻尾を揺らし、アノマロちゃんは私の頭の上でパステルカラーの前部付属肢を嬉しそうに揺らしている。
「さあクロエ様、次なる舞台は海です! こちらが最新の『水中テイマー装備』のカタログになります!」
「わぁっ! 可愛い水着みたいな防具がいっぱい! アノマロちゃん、海に行ったらこれを着て、お魚をいっぱい釣るんだ!」
『もっきゅ!(海……巨大クラーケンの極上お刺身……海竜の姿造り……じゅるり)』
私の頭の上で、アノマロちゃんはすでに未知なるシーフードの解体手順で頭がいっぱいになっているみたいだった。
「――待ちなさァァァイッ!!」
平和な空気を切り裂いて、受付の奥からエルザママが血相を変えて飛んできた。
バンッ! とカタログを塞ぎ、鬼の形相で言い放つ。
「こんな布面積の少ない装備、ママは絶対に許しません! クロエには、ミスリル製の重装甲フルプレートアーマーを着せます!」
「海に沈むわアホゥ! 嬢ちゃんの無残な水死体を見たいのか!」
すかさず、後ろからコルセット姿のギデオンさんがハリセン代わりの羊皮紙でママの頭を叩いた。
「あはは、またマスターとエルザ様がやってるぜ」「仲いいよなぁ」と、酒場で飲んでいた冒険者たちからドッと温かい笑い声が上がる。
みんなが笑っていて、今日食べるご飯の話をしていて、明日の冒険を心待ちにしている。
「ふふっ――」
私が胸いっぱいの幸せを感じて微笑んだ、その直後だった。
世界から、ふっと『音』が消えたような錯覚に陥った。
酒場で馬鹿騒ぎしていた冒険者たちが、不思議そうにジョッキを口から離す。
ノアの耳がピンと立ち、頭の上のアノマロちゃんがピタリと動きを止めた。
次の瞬間。
ズドゴォォォォォンッ!!!
鼓膜を破るような爆音と共に、せっかく直したばかりのギルドの分厚いオーク材の扉が、外側から木っ端微塵に吹き飛んだ。
「きゃあっ!?」
「な、なんだぁっ!?」
激しい突風が吹き荒れ、ギルド内に土煙が舞う。
テーブルがひっくり返り、悲鳴と怒号が交錯する中、歴戦の冒険者たちは反射的に武器を構えた。
だが、薄れゆく土煙の向こうから現れた者たちの姿を見て、全員が息を呑み、硬直した。
ガチャリ、ガチャリと、統率の取れた無機質な金属音が響く。
純白のマントに、白銀の重装甲。それは、絶対に辺境の街などに現れるはずのない、王都の最精鋭にして女神の剣たる『聖騎士団』だった。
そして。左右に分かれた騎士たちの中央を、一人の男が悠然と歩いてくる。
「……な、ぜ。『勇者』様が、このような辺境のギルドに……っ」
ギデオンさんが、震える声で呟いた。
眩いほどの金髪。女神の寵愛を一身に受ける、黄金の鎧を纏った美青年。
彼が一歩、ギルドの中へ足を踏み入れた瞬間。
――ギシッ。
空間そのものが、異常な重圧で軋むような悲鳴を上げた。
「……っ!?」
猛者たちの膝が震え、手から武器が滑り落ちて床に響く。
Aランク魔獣であるノアでさえ、本能的な恐怖で床に這いつくばり、毛を逆立てて動けなくなっていた。ママとギデオンさんだけが、脂汗を流しながら辛うじて立っている状態だ。
強者の殺気などというチャチなものではない。神が定めた『世界の理』そのものが、彼を絶対の王として定義し、周囲の空間を強制的に平伏させているのだ。
(な、何よコイツ……!)
私の頭の上で、アノマロちゃんの全身からかつてない緊張が伝わってくる。
(生命活動における熱放出(赤外線放射)がゼロ!? 熱力学第二法則(エントロピー増大則)を完全に無視してる! ただの生物じゃない……こいつ、この世界のシステムそのものに守られてる……!)
勇者は、周囲で怯え震える冒険者たちなど、路傍の石ころのように完全に無視した。
コツッ、コツッ、と冷たい足音だけを響かせ、真っ直ぐに受付カウンターへと歩み寄ってくる。
そして、その無機質な青い瞳を、私とアノマロちゃんへと向けた。
「――『神眼の鑑定』」
勇者が抑揚のない声で呟いた瞬間、彼の瞳に幾何学的な魔法陣が浮かび上がった。
その冷酷な視界には、怯える少女も、小さな妖精も映っていない。ただ、宙に浮かぶ【Error: 理外の理】、【Warning: 特定外来生物】という無機質な文字列だけを見つめている。
「……やはりな。女神の定めた『世界の理』に属さない、不浄なゴミどもめ」
それは、人間相手に剣を抜く者の態度ではなかった。
神の美しい箱庭に紛れ込んだ不快な害虫を、ただ無感動に踏み潰すだけの『駆除作業』の目だ。
チャキ……と。
勇者は冷たい音を立てて、腰の黄金の聖剣を引き抜いた。美しい刀身が、夕暮れの光を反射して残酷に煌めく。
「【特定外来生物】。世界の秩序を乱す害悪として、直ちにこの世界から消去する」
「や、やめなさいッ!! その子に指一本でも触れてみなさい、たとえ勇者だろうとアタシが――ッ!!」
ママが大剣を抜き放とうと踏み出した、その刹那。
音すら置き去りにして、すでに私の目の前まで踏み込んでいた勇者の聖剣が、無慈悲な閃光を放って振り下ろされた。




