第77話(第10話) アノマロちゃんと、剣鬼ギデオン。
トントン、と控えめに部屋の扉がノックされる音で、私は目を覚ました。
「ん……っ」
柔らかな朝の光が、高級宿の窓から差し込んでくる。
そこはスラムの冷たい路地裏ではなく、雲のようにフカフカなベッドの上だった。背中には、巨大な湯たんぽのように温かいノアの背中。頭の横の枕には、仰向けになって「すー、すー」と可愛い寝息を立てるアノマロちゃん。
「おはよう、クロエ。よく眠れた?」
「あ……おはようございます、ママ!」
隣で身支度をしていたエルザさんが、優しく微笑みかけてくれる。夢じゃなかった。私には今、一緒にご飯を食べて、同じ部屋で眠ってくれる『家族』がいるんだ。
「こんな朝早くに誰かしら?」
エルザさんが扉を開けると、そこには分厚いバインダーを胸に抱え、ガチガチに緊張した様子の若い女性が立っていた。艶やかな銀髪を後ろでまとめ、知的な銀縁眼鏡をかけている。
「あら、アイリスじゃない。こんな朝早くにどうしたの?」
「お、お久しぶりです、エルザ姉様っ! はわわ、相変わらず朝から凄まじい闘気ですね……!」
「アタシの師匠の孫娘自ら、ギルドのお使いってわけ? 何の用かしら」
エルザさんは、ギルドマスターである『剣鬼』ギデオンさんの直弟子なのだという。だから、その孫娘である新人受付嬢のアイリスさんとは昔からの顔馴染みらしい。
アイリスさんはバインダーを抱きしめたまま、必死に言葉を紡いだ。
「は、はい! 実は昨日付で、前任の職員リックスが職権濫用と不当な差別の罪により、ギルドから永久追放となりまして……近隣都市にもブラックリストとして手配されました!」
「へぇ、師匠も仕事が早いわね」
「そ、それで……祖父からの命により、本日から私が、クロエ様の【専属受付嬢】を務めさせていただくことになりまして……ご挨拶と、ギルドマスターからの緊急の呼び出しをお伝えに上がりました!」
「なるほどね。クロエみたいな規格外の対応は、身内で固めた方が安全って判断ね」
アイリスさんはおずおずと部屋の中を覗き込み、ベッドの上のノアと目が合った。
「ひっ……!? ほ、本物のフェルナイト……ッ!?」
腰を抜かしそうになるアイリスさんだったが、次の瞬間。
眼鏡の奥の瞳がキラリと怪しく輝き、彼女はフラフラとノアに吸い寄せられていった。
「す、凄い……! Aランクの突然変異個体でありながら、これほど穏やかな魔力波長! スキンシップによる魔素の循環が完璧に行われています! し、しかも……毛並みが最高にフワフワです……ッ!」
『ニャゥ〜ン』
「ひゃああっ! 鳴き声まで可愛いっ!」
ノアに頬ずりされて、アイリスさんは感動でプルプルと震え出した。どうやらこの新人さん、極度の『魔物オタク』らしい。
さらに彼女の視線は、私の頭の上に移動した。
「そ、そして、そちらの妖精様は……!」
「妖精さんのアノマロちゃんです。とっても強いんですよ」
「文献に一切存在しない未知の骨格! この無駄のない流線型のフォルム……極限まで洗練された機能美! なんという美しさでしょう……ッ! はぁはぁ……!」
(……ほぅ。このヒト科のメス、どうやら私の完成された生態的優位性が理解できるらしいわね。いいわ、クロエの世話係として認定してあげる)
アノマロちゃんはまんざらでもない様子で、フンスと二本の前部付属肢を揺らした。
「コホンッ。し、失礼いたしました、つい熱が入ってしまい……! 本日は十の鐘が鳴る頃に、祖父がギルドの応接室でお待ちしております。どうかゆっくりと、朝食と身支度を済ませてからいらしてくださいね!」
そう言い残すと、アイリスさんは嵐のように去っていった。
***
ギルドへ向かう前に、私たちは宿の一階にある食堂で朝ご飯を食べることになった。
「さぁクロエ、いっぱい食べるのよ!」
「はいっ、いただきます!」
テーブルの上には、焼きたての柔らかいパンと、具沢山の温かいスープ。それに新鮮なサラダとベーコン。スラムにいた頃は、こんなご馳走、遠くから匂いを嗅ぐことしかできなかった。
サクッとしたパンを口に入れると、バターの香りがふわっと広がって、思わずほっぺたが落ちそうになる。
「おいしい……っ」
「うふふ、いい食べっぷりね! ほら、ノアちゃんと妖精ちゃんも遠慮しないで食べなさい!」
床にはノア用の大きな木桶に新鮮なお肉が山盛りにされ、テーブルの上ではアノマロちゃんが自分の体と同じくらい大きな厚切りベーコンを「もっきゅ、もっきゅ」と物凄いスピードで平らげている。
お腹も心もポカポカに満たされた私たちは、身支度を整えて、指定された時間に冒険者ギルドへと向かった。
***
私たちがギルドの重い木扉を押し開けて中に入った瞬間――。
「「「…………ッ!!」」」
ピタッ、と。ギルドホールの喧騒が、まるで魔法のように消え去った。
荒くれ者の冒険者たちが一斉に道を譲り、モーセの海割りのように、入り口から受付カウンターまでの一本道が出来上がる。誰も私を「ゴミ」や「欠陥品」と呼ぶ者はいない。畏敬と恐怖の入り混じった目で、ノアと私を遠巻きに見つめていた。
「お待ちしておりました、エルザ姉様、クロエ様。さぁ、奥の応接室へどうぞ」
待機していたアイリスさんの案内で通されたのは、ギルドの最奥にある豪華な部屋だった。
革張りのソファの向かい側に、簡素な道着を着た隻眼の老人――ギルドマスターのギデオンさんが座っていた。
「よう来たな。わしがこのギルドを預かるマスター、ギデオンじゃ」
「あ、あのっ……クロエです。本日はお呼びいただき、ありがとうございます……!」
私が緊張して頭を下げると、ギデオンさんは柔和な笑みを浮かべた。
だが次の瞬間。
――ゾワァァァァッ……!!
部屋の空気が、急激に重圧を持った鉛のように変わった。息ができない。空気が震えている。
ギデオンさんがただスッと目を細めただけで、空間そのものが押し潰されそうになっていた。
『グルルルルルッ……!!』
(――ッ!? なによこのジジイ、体内のATP(生体エネルギー)密度が人間の限界を突破してるじゃない!)
ノアが私を庇うように前に出て、低く威嚇の唸り声を上げる。
アノマロちゃんも私の頭から飛び立ち、空中で水圧カッター(ウォータージェット)を放てる態勢でギデオンさんを睨みつけた。
「ほっほっほ。そう警戒するな、少し挨拶の『気』を放っただけじゃ。……なるほど、フェルナイトは主を守るために真っ先に立ち塞がり、その未知の妖精に至っては、このわしに明確な殺意と『底知れぬ一撃』の牙を向けておる」
ギデオンさんは満足そうに頷き、一瞬でその恐ろしいプレッシャーを霧散させた。
「見事じゃ。我が弟子が惚れ込むだけのことはある。噂以上の規格外よ」
「ちょっと師匠。アタシの可愛い娘を試すような真似、やめてもらえる?」
「すまんすまん。エルザよ、お前がこれほど入れ込む理由がよく分かったわい」
ギデオンさんはテーブルの上に、昨日私たちが提出した『ファング・ウルフの牙と魔石』をコトリと置いた。
「クロエと言ったな。この寸分の狂いもない解体技術……お前さんがやったと聞いた。どこでこの技術を身につけた?」
「えっと……小さい頃から、冒険者の人たちが捨てていった魔物から、売り物になりそうな部分をナイフで削り取って……ご飯を買うために、ずっとやってました。傷をつけると、お金にならなくなっちゃうから……」
私が正直に答えると、ギデオンさんの隣に控えていたアイリスさんが、ハッと息を呑んで目元をハンカチで拭った。
ギデオンさんは深く顎を撫で、優しく、けれど力強い声で言った。
「生き抜くために磨き上げた、本物の技術じゃな。……魔力ゼロという理由だけでお前を迫害した愚か者の罪は、ギルドを代表してわしが詫びよう。クロエ、お前は今日から、このギルドが保証する正式なテイマーじゃ。孫のアイリスと共に、胸を張って冒険者として生きるがよい」
「っ……! ありがとうございます……っ!」
ずっと「欠陥品」だと言われてきた私を、街で一番偉い人が、真っ直ぐに認めてくれた。嬉しくて、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「さて……ここからが本題じゃ」
ギデオンさんはスッと隻眼を鋭くし、エルザさんを見た。
「王都でも問題になっておる、この森に突如現れた『新ダンジョン』の件じゃ。エルザよ、お前の報告書を見た王都のギルド本部から、お前へ直々に【帰還】の命令が下っておる」
「……ええ、今朝通達が来てたわ。厄災級の突然変異に、異常なスタンピード。現場のトップであるアタシが直接本部に報告しに行かなきゃならないのよね」
エルザさんは面倒くさそうにため息をつき、私の方を見た。
「そういうわけだから、アタシは数日中に王都へ行かなきゃいけないの。……クロエ、アタシの代わりに、この森のダンジョン調査を引き継いでくれないかしら?」
「えっ!? 私が、ですか!?」
「そう。森の生態をよく知るあなたと、その黒豹と妖精ちゃんがいれば、アタシなんかよりずっと頼りになるわ」
ママからの初めてのお願い。私はギュッと拳を握って頷いた。
「はいっ! 私、ママの代わりに頑張ります!」
「うむ、頼もしいな。……と言いたいところじゃが、ギルドの規則上、未踏破ダンジョンの調査には最低でも【Dランク】以上の資格が必要になる」
「あー、厄介なルールね」
「今日正式に登録されたばかりのクロエは一番下のFランクじゃ。特例ばかりでは王都の監査がうるさくてな。……そこでじゃ」
ギデオンさんは、一枚の依頼書をテーブルに滑らせた。
「クロエにはまず、ランクアップのための『簡単な依頼』を受けて、ギルドに正式な実績を作ってもらいたい。これを達成すれば、特例で即座にランクを引き上げ、ダンジョン調査への参加を許可しよう」
「簡単な依頼、ですね! 私、頑張ります!」
私が元気に返事をすると、エルザさんがポンッと手を打った。
「よしっ! それじゃあ、アタシが王都に出発する前に、クロエの装備を一式揃えに行きましょう! 初心者のペラペラな服じゃ危ないし、可愛い娘に最高級の冒険者セットを買ってあげるわ!」
「お、お買い物、ですか!?」
「ええ! アイリス、この街の武具屋の案内は任せるわよ!」
「はいっ! 専属受付嬢として、最高のショッピングルートをご案内いたします!」
ママとアイリスさんが意気投合して盛り上がっている。
……一方、その頃。私の頭の上では。
(もっきゅ……もっきゅ……ふぅぅぅ……)
アノマロちゃんは、滝のように流れていた冷や汗を拭い、ひそかに安堵の息を吐いていた。
(よかったぁぁぁッ!『そのダンジョン、私の実家です……』なんて、絶対に言えないもんね! ギルドの規則のおかげで、お買い物からの別クエストっていう時間稼ぎができたわ! その間になんとかしなきゃ……!)
私のテイムした愛する妖精さんが、国を挙げての大騒動の元凶であることなど、今はまだ誰も知らない。
王都へ旅立つママとの一時のお別れを前に、私たちはギルドの報酬金とママのお小遣いを握りしめ、初めての『お買い物』へと出発するのだった。




