第74話 最弱テイマーと、黒豹の騎士ノア。
「クロエ、離れて! まだ魔素の毒が抜けきってないわ!」
『ちょっとクロエ! いくら脳震盪を起こしてるとはいえ、肉食獣の牙の間合いに素手で入るのは自殺行為よ!?』
背後から響くママ(エルザさん)の悲鳴と、頭の上で羽をバタバタさせる妖精さん(アノマロちゃん)の大慌ての声。
けれど、私の足は止まらなかった。
ひどい土煙と、むせ返るような血の匂いの中。
数十メートル先で地に伏した巨大な黒豹さんは、ピクピクと痙攣しながら、荒い息を吐いていた。その体はもうボロボロで、立ち上がる力すら残っていないはずだ。
「大丈夫だよ、ママ、アノマロちゃん」
私は二人に小さく微笑みかけ、もう一度、漆黒の巨獣へと向き直った。
黒豹さんの瞳からは、いまだに狂気が消えていなかった。致死量の魔素(瘴気)が体内で暴れ回り、脳神経を焼き切るほどの激痛を与え続けているのだろう。毛皮に浮かんだ赤黒い斑紋が毒々しく明滅し、近づく私に向かって、最後の力を振り絞るように鋭い牙を剥き出しにして威嚇してくる。
『グルルルルルルル……ッ!!』
喉の奥で血が泡立つような、苦しげな唸り声。
怖い。本当は、足がすくみそうになる。
でも、あの黒豹さんの血走った目は、私を憎んで怒っているんじゃない。体の中にある悪い魔素のせいで、ずっと、ずっと苦しんで泣いているように見えた。
親に捨てられ、スラムで飢えと寒さに震えていた時の私と同じだ。
痛くて、苦しくて、誰かに助けてほしくて、でも誰も助けてくれなくて。世界中を憎んで威嚇するしか、自分を守る方法がなかったんだ。
一歩、また一歩。張り詰めた空気を縫うように進む。
私は、私を噛み殺そうと唸る鋭い牙を恐れることなく、その大きな鼻先へと膝をついた。そして、漆黒のふかふかした額に、そっと両手を添えた。
「痛かったね。苦しかったね。もう、誰もあなたをいじめたりしないよ」
私は心を込めて、大きな黒豹さんの頭を優しく何度も撫でた。
『ガァァァァッ……!?』
触れた瞬間、黒豹さんの体を蝕んでいた赤黒い魔素が、獲物を見つけた蛇のように私の両腕へと絡みついてきた。バチバチと火花が散り、ドス黒いもやが私の肌から体内へと侵入してくる。
「クロエッ!!」
『バカッ、致死量の魔素を直接流し込まれたら死ぬわよ!?』
エルザさんの悲鳴と、アノマロちゃんの焦燥の声が響く。
けれど、私は手を離さなかった。私には魔法を使う力なんてない。ただ、少しでもこの子の苦しみが私に移って、和らげばいいと願って。
……ドクンッ。
その時、私の体の中で何かが熱く跳ねた。
――スゥゥゥゥッ……。
腕に絡みついていた凶悪な魔素が、嘘のように私の中に吸い込まれていく。
痛くも、苦しくもない。むしろ、ポカポカとした温かいスープがお腹の底に溜まっていくような、不思議な感覚だった。
(ウソでしょ……!?)
空中に浮かんでいたアノマロちゃんは、複眼を驚愕に見開いた。私の体内で起きている恐るべき現象を捉えていたのだ。
(さっきの戦闘では、クロエは周囲の魔素を吸って『私に』ATPを供給してくれた。でも今は違う。フェルナイトの体内に巣食っていた超高濃度の毒(魔素)を直接吸い出し、クロエ自身の細胞が猛烈な勢いで『完食(消化)』してる……!?)
ただ空気中の魔素を吸うのとは訳が違う。Aランクの魔物を狂わせるほどの致死量の毒素を、ノーダメージで自身のエネルギー(ATP)へと変換してしまったのだ。
私の頬は、満腹になった時のようにほんのりと桜色に染まっていた。
(やっぱり私の嫁(宿主)、最高だわ……!)
やがて。
巨大な黒豹さんの瞳から、スッと狂気の赤みが引いた。暗闇に光る、美しく透き通ったエメラルドの瞳。毛皮の赤黒い斑紋も煙のように消え去り、艶やかな漆黒の毛並みだけが残る。
『…………』
黒豹さんは、瞬きをして私を見た。自分を苦しめていた毒をすべて吸い取ってくれた、小さな人間の子供。
黒豹さんは、ゆっくりと体を起こすと、その頭を、私の小さな胸元にすりすりと擦りつけてきた。
『…………ゴロ……ゴロゴロ……』
地響きのような、でもとても優しくて穏やかな重低音。完全に私に心を開き、大きな甘えん坊の猫のようになって私に頬ずりをしている。
「わぁっ! 黒豹さん、苦しいの治ったの? よかったぁ……!」
『ニャゥ〜ン♡』
死闘の余韻が、嘘のように溶けていく。
血まみれで座り込んでいたエルザさんは、ぽかんと口を開けたまま固まり、やがて顔をパァァッと輝かせた。
「…………あらヤダァァァァッ!! なにこれぇ!!」
エルザさんは痛む体も忘れたように大袈裟に両手を打ち鳴らして、スタンディングオベーションを始めた。
「信じられないわ! あの『影渡りのフェルナイト』を素手で手懐けちゃうなんて! しかもすっごく懐いてるじゃない! クロエ、あんた本物の天才テイマーよぉッ!!」
***
パチッ、と。焚き火の薪が爆ぜる音が、穏やかな森に響く。
「さぁて! さっき倒したウルフのお肉があるわね。新鮮なうちに焼いて食べちゃいましょ♡ アタシの傷なんて、上級ポーションをぶっかけたらもう塞がっちゃったわ!」
すっかり元気を取り戻したエルザさんが、特大のフライパンで極厚のウルフ肉を豪快に焼き始める。
私とアノマロちゃんが火を囲んで座っていると、巨大な黒豹さんも、私を護衛するように背中をぴったりとすり寄せながら、丸くなってお行儀よく待っていた。背中から伝わってくる「ゴロゴロゴロ……」という振動と、ふかふかの毛並みがたまらなく心地いい。
「はい、大きなネコちゃんには、アタシが持ってきた特上の『オークの干し肉』をおすそ分けよ♡ クロエからあげてちょうだい」
「はいっ! ……ええと、ネコちゃん、どうぞ?」
『ニャンッ!』
私がオーク肉を差し出すと、巨大な黒豹さんは私の手を傷つけないように恭しく、ザリザリとした舌で舐めとるように食らいついた。私から直接食事を与えられたことで、懐き具合はすっかり定着したようだ。
「……それにしても、どうしてあんなに強くて大きなネコちゃんが、この森で苦しんでいたんでしょうか?」
私は串焼きを受け取りながら、不思議に思っていたことを尋ねた。
「そうねぇ……。実はアタシ、王都のギルド本部から『現地調査』の特別依頼を受けてこの森に来てたのよ」
「調査、ですか?」
「ええ。数日前から、この森の魔素の濃度が異常に跳ね上がっていてね。『どこかに新しいダンジョンが発生したんじゃないか』って噂になってるの。今日のネコちゃんが苦しんでいたのも、ウルフたちがパニックを起こしていたのも、その新ダンジョンと関係があるのかもしれないわ」
「へえー、そうなんですね」
私はホクホクのお肉を頬張った。
一方。私の頭の上にいたアノマロちゃんは――。
(もっきゅ、もっきゅ……新ダンジョン? 魔素濃度の上昇? あー、それ絶対、私がカンブリア・ダンジョンから地上に出る時にブチ抜いた『ゲート』のことね)
アノマロちゃんは肉を咀嚼しながら、冷静に思考を巡らせた。
(私がゲートを開けたせいでダンジョンの高濃度魔素が漏れて、森の生態系をパニックにさせてたのね。……原因、完全に私じゃん)
アノマロちゃんの前部付属肢が、ピーンと気まずそうに真っ直ぐになった。
(ま、まぁいっか! クロエが極上の『番猫』を手に入れたんだから結果オーライよね! もっきゅ、もっきゅ……お肉、幸せ〜!)
反省よりも目の前の極上肉の誘惑が勝ってしまったアノマロちゃんだった。
「そういえばクロエ。テイムしたなら、その子に名前をつけてあげないとね」
「名前、ですか?」
エルザさんに言われ、私は大きな黒豹さんの美しいエメラルドの瞳を見つめた。
私がスラムで拾って、ボロボロになるまで何度も何度も読んだ、一番の宝物の絵本。そこには、森で迷子になったお姫様を優しく守ってくれる、真っ黒で大きくて、とっても強い猫の騎士様が出てくるのだ。
「あなたの名前は……『ノア』だよ」
私がその名前を呼んだ瞬間だった。
――フォォォォォン……!
突如として、ノアの巨大な体が淡い翠色の光に包まれた。
光が収まると、ノアの漆黒の毛並みは星空のように一層の艶と輝きを増し、その体から放たれる魔力の気配が、先ほどよりもさらに澄み切ったものへと変化していた。
『ニャゥ〜ン!!』
「わぁっ! なんだかノア、もっとフカフカで綺麗になったね!」
私が抱きつくと、ノアは嬉しそうに私の頬をペロペロと舐めた。
「ちょっとクロエ……今のは『名付け(ネーミング)』によるステータス上昇よね!? ただでさえAランクの突然変異体だったのに、さらに強くなったっていうの……!?」
『もっきゅ? 私の時はそんなのなかったけど? まっ、私はすでに完成されたカンブリア紀の覇者だし、詳しいことは街に帰ってから確認すればいいじゃない』
エルザさんは信じられないものを見るような顔をしていたが、私には難しいことはよくわからなかった。
ただ、頭の上には優しい妖精のアノマロちゃんがいて、隣には大好きなエルザさん(ママ)がいて、足元には温かくてふかふかのノアが寄り添ってくれている。それだけで、涙が出そうなくらい胸がいっぱいだった。
「えへへ。ママ、アノマロちゃん、ノア! お腹いっぱいになったら、残ったオオカミさんのお肉をぜんぶ袋に詰めて、ギルドへ帰ろうね!」
私はノアの大きな背中にぎゅっと抱きつきながら、満面の笑みを浮かべた。
「こんなにたくさんお肉があって、こんなに可愛くてお利口さんなネコちゃんまで一緒なら……きっと受付のリックスさんも、今度こそニコニコ笑顔で『よく頑張ったね』って褒めてくれるよね!」
『……いやぁ、あの三下、笑顔どころか泡吹いて白目剥くと思うけど』
「うふふ! そうねぇ、アイツがどんな顔してひっくり返るか、ママ今からすっごく楽しみだわ♡」
なんだか二人とも、とっても楽しそうに笑っている。
きっと街に帰ったら、すごく素敵なお出迎えが待っているんだ――私はそんなぽかぽかとした期待に胸を膨らませながら、ノアのふかふかの背中に揺られて帰路につくのだった。




