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第73話(第6話) アノマロちゃんと、影渡のフェルナイト。

 フェルナイトの漆黒の巨体が、足元の『影』の中へ、液体のようにズブズブと沈み込んで消えた。


「ッ!? 影移動(シャドウダイブ)!? クロエ、背中をくっつけて!」


 エルザさんの叫び。直後だった。


 ヒュババババッ!!


 四方八方の闇から、音を置き去りにした無数の見えない『風の刃(カマイタチ)』が襲いかかってきた。周囲の木々が、サイコロ状に切り刻まれていく。

 エルザさんが大剣を高速で振り回し、不可視の刃を弾き飛ばす。散る火花。軋む鋼の音。


「くっ……! 闇に潜んで、死角から遠距離攻撃……なんて陰湿なの!」


 姿の見えない波状攻撃に対し、エルザさんは防戦を強いられていた。


(……焦るな私。ただの『魔法』なんて言葉で片付けない。現象には必ず物理的な法則(タネ)があるはずよ!)


 私の頭の上。アノマロちゃんは冷静だった。


(姿が見えない無音の斬撃? いいえ、これは大気を圧縮して放つ『流体力学的な物理現象』よ! なら、空気の乱れを読めばいいだけ!)


 アノマロちゃんは体表に、魚類が水圧の変化を感知する『側線器官(そくせんきかん)』を大気用に最適化して展開した。空間を切り裂く刃が生まれる直前の、微細な気圧の乱れ(ベクトル)を完全に感知する。


『軌道が読めたわ! でも私じゃママに直接伝えられない! クロエ、通訳して! 次の刃は右斜め上と、足元!』


「えっ!? ……マ、ママ! 右の上と、下から来ます!」

「え!? ……ッ!!」


 突然の私の叫びに驚きながらも、エルザさんは大剣を右斜め上へ振り上げ、同時に軽く跳躍した。


 ガキィィンッ!!


 見事に不可視の刃を弾き落とす。足元をすり抜けた風の刃が、地面を深く抉った。


「ウソでしょ!? 見えない刃の軌道が分かったの!? さっすがアタシの娘!」


 エルザさんの声に歓喜が宿る。

 アノマロちゃんが気圧を読み、私がそれを声に出し、エルザさんが剣で弾き落とす。三人の即席の連携で、フェルナイトの遠距離攻撃を完全に捌き始めた。


(風の刃のハックは完了。次は、あいつの『影移動』を暴くわよ!)


 アノマロちゃんはさらに検証を進める。


(影と同化して三次元から消える? そんな非科学的なことあるわけない。あれは光の反射を歪めているだけの、ただの光学迷彩(ステルス)よ!)


 アノマロちゃんの頭部の甲殻がピキッと割れ、かつての同胞『オパビニア』の五つの複眼が隆起する。さらに、感覚器にヘビなどが持つ『ピット器官(赤外線感知器)』を組み込んだ。可視光線をごまかせても、巨体が発する『熱源』と『駆動熱』までは隠せない。五つの目で周囲をスキャンする。

 ……だが。


(熱源が……ない!?)


 アノマロちゃんが、驚愕に体を震わせた。

 ただ透明になっているだけではない。あの巨大な質量が、物理的に地面の『影』へと潜り込み、泥の中を泳ぐように沈み込んでいるのだ。


(光学迷彩かと思いきや、本気で地面に沈んでる!? だったら……!)


 仮説を破棄。即座にアプローチを切り替える。空間にいないなら、地面を探ればいい。

 アノマロちゃんは、クモが巣の振動を読むように、腹側に無数の『感覚毛』を微細に展開。地面から伝わる、巨大な質量の「移動振動」に意識を研ぎ澄ませた。


 ズン……ズン……。


『……捉えた! 地脈を泳ぐ巨大な振動源! クロエ! 十時の方向、あの大木の影の中よ! ママに本体を引きずり出すように言って!』


「はいっ! ママ、あそこ! あの大木の影の中に、黒豹さんが沈んでます!」

「上等ォ!! 教えてくれてありがとね、二人とも!」


 エルザさんの雰囲気が、一変した。

 ゴゥッ……!! と、彼女の巨体から陽炎のような極彩色の闘気(オーラ)が爆発的に立ち昇る。それは、ただ優しかったママの顔ではない。生態系の頂点に君臨する、Aランク冒険者の『真の力』の片鱗。


「アタシの大事な娘を怯えさせたこと……万死に値するわよッ!!」


 手加減など一切ない、本気の一撃。

 エルザさんが大剣を振り下ろした瞬間、影ごと大地が真っ二つにカチ割れた。


 ズガァァァンッ!!


 凄まじい地割れと共に、潜行を強制的に破られた巨大な黒豹が宙に弾き出される。

 だが、Aランクの暗殺獣は空中で体勢を立て直し、エルザさんを――その後ろにいる私を睨みつけた。

 フェルナイトの全身を、大気の魔素を極限まで圧縮した『分厚い魔力障壁』が覆う。さらに、すべての魔力を前脚に集中させ、不可視の『極大の風刃』をエルザさんに向けて放った。


 躱せば、後ろにいる私が真っ二つになる。

 だから、エルザさんは一歩も退かなかった。


「舐めるんじゃないわよォッ!!」


 肉を斬らせて骨を断つ。魔力障壁ごと叩き斬る、捨て身の剛剣。


 ガギィィィィンッ!! ……ドゴォォォンッッ!!!


 鋼と魔力、そして暴風が真正面から激突し、爆発した。

 エルザさんの理不尽なまでの膂力が、Aランクの絶対防御を粉砕する。だが同時に、砕け散った巨大な風の刃が、エルザさんの体を無数に切り裂いた。


「くぅぅッ……!」


 鮮血が舞う。相打ち。凄まじい衝撃波によって、両者が同時に後方へと吹き飛ばされた。

 大木に背中を打ち付け、片膝をつくエルザさん。その美しい顔も、体も、血に染まっている。


「ママッ!!」


 悲鳴を上げて駆け寄ろうとする私を、エルザさんは血の滲む手で制した。


「へっ……平気よ。でも、ちょーっと……足が痺れちゃったわね」


 一方の黒豹も、障壁ごと吹き飛ばされ、無様に地面をバウンドして転がっていた。多重障壁がクッションになり、漆黒の毛並みにはいくつかの『擦り傷』ができた程度で、致命傷には至っていない。

 だが、その絶対の防御(鎧)は、エルザさんの命懸けの一撃によって完全に引き剥がされていた。


 己の死を悟ったフェルナイトは狂乱し、立ち上がれないエルザさんへ向けて、周囲の魔素を肺に吸い上げ、口元に致死級の『暴風の球体』を圧縮し始めた。自爆覚悟の最後の一撃。あれを撃たれたら、森の入り口ごと消し飛ぶ。


『ママが命懸けで作ってくれた隙……絶対に無駄にはしないわよ!』


 アノマロちゃんが、私の頭から空高く舞い上がった。


(狙うのは、頭蓋骨の継ぎ目『冠状縫合(かんじょうほうごう)』! 鎧を失ったあそこに極大の物理衝撃を叩き込んで、脳震盪(強制シャットダウン)を引き起こす!)


 だが、アノマロちゃんの小さな体だけでは、あの巨体を黙らせるだけの質量(エネルギー)が足りない。


『クロエ! 今から多重変異を起こすわ! 私に、エネルギーを限界までちょうだい!!』


「わかった! 妖精さん、いくよ!」


 私はアノマロちゃんからのテイムパス(繋がり)を感じ取り、両手を胸の前でギュッと握りしめて、深く、深く深呼吸をした。

 フェルナイトが周囲に撒き散らしていた、高濃度の毒の魔素。それを私の肺が根こそぎ吸い込み、細胞の隅々で爆発的な生体エネルギー(ATP)へとダイレクトに変換していく。

 ドクン、ドクン! と。私の体からアノマロちゃんへ、無尽蔵のフルチャージが流し込まれた。


(充填率120%……! マージ(統合)、開始!!)


 ミシッ、メキメキメキッ……!!


 空中に浮かぶ小さな生体が、爆発的な速度で猛烈な変異を遂げていく。

 体表のタンパク質を急速硬化。『ウィワクシア』の刃のような装甲鱗(スクレリト)が、全身を覆い尽くす。

 宙を蹴る尾扇には『ホーンラビット』の爆発的な速筋繊維。

 そして、獲物を穿つ二本の前部付属肢には、ゴブリンから奪った『肥大化した筋組織』を二重螺旋状に編み込み、外骨格が軋むほどに限界まで引き絞る!


『これぞ地球四十六億年、生命の進化と理の結晶! 超絶キャビテーション・パンチ!!』


 ドゴォォォンッッ!!


 空気が、爆発した。

 異種族の筋肉と古代の装甲を掛け合わせた、異常な質量を持つ一撃。それが、放たれようとしていた暴風を強引に引き裂き、黒豹の頭蓋骨の継ぎ目を正確無比に打ち抜いた。

 運動エネルギーを脳に直接叩き込まれたAランクの暗殺獣は、凄まじい衝撃に血を吐き、「ギャ……ン……」と情けない声を漏らして、ついに白目を剥いて脚から崩れ落ちた。


 着地したアノマロちゃん。その巨大化した筋肉から、プスプスと高熱の蒸気が上がる。


『ふぅ、やっぱり多重変異は燃費が悪いわね。クロエ、チャージご苦労様! 用済みの細胞は『アポトーシス(プログラム細胞死)』で切り離して……キャストオフ!』


 パキパキッ! と音を立てて、肥大化した筋肉や五つの複眼、ウィワクシアの装甲がボロボロと剥がれ落ちる。

 超速脱皮。抜け落ちた殻は、空気に触れてパラパラと光の粉になって分解され、中からいつものパステルカラーの可愛いアノマロちゃんが飛び出してきた。


「わぁっ! 妖精さん、カッコいい鎧だったね!」


『ふふん、私の可変式生体アーマーよ!』


「あらヤダ、すっごいじゃない妖精ちゃん! あんなゴツくてカッコいいお着替えができるなんて、ママ感動しちゃったわ!」


 血を流して座り込んだエルザさんは、痛みを堪えるどころか、パァァッと顔を輝かせて豪快な拍手を送ってきた。


(……ふふんっ。ママも、なかなか骨のある戦士だったわよ)


 エルザさんの懐の深さに、アノマロちゃんも得意げに体を揺らした。

 土煙が収まる。周囲の空気が、少しだけ落ち着きを取り戻した。


 だが、安堵したのも束の間だった。

 地に伏したフェルナイトの瞳からは、いまだに狂気が消えていなかったのだ。魔素の苦痛に身を捩りながら、最後の足掻きとばかりに、後方にいた私に向かって鋭い牙を剥き出しにして威嚇してきた。


『シャァァァァァ……ッ!!』


「クロエ、離れて! まだ魔素の毒が抜けきってないわ!」


 エルザさんが叫び、私を庇おうと手を伸ばす。

 怖い。でも、あの黒豹さんの血走った目は、私を憎んで怒っているんじゃない。体の中にある悪い魔素のせいで、ずっと苦しんでいるように見えた。


「大丈夫だよ」


 私はエルザさんの制止を振り切り、震える巨大な黒豹さんの鼻先へと、ゆっくりと歩み寄っていった。

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