第72話 初めてのクエスト! 百頭のスタンピードは『フェロモンと遠吠え』で完全鎮圧☆
『ぐぬぬぬ……っ! ちょっとクロエ、なんでその赤髪のメスゴリラと当たり前みたいに手を繋いでるのよ! 私の特等席とどっちが大事なの!?』
頭の上からヤキモチ全開の可愛い声が響く中、私は辺境の大森林を歩いていた。
分厚い葉の隙間から、斑模様の陽光が落ち葉の上にこぼれている。
私の右手をしっかりと握ってくれているのは、身長二メートルに迫る巨躯に無骨な大剣を背負ったAランク冒険者、エルザさんだ。
まぶたには紫色の綺麗なアイシャドウが塗られ、唇は艶やかな真紅のルージュで彩られている。まるで、絵本の中の『強くて美しい女王様』みたいにキラキラと輝いて見えた。まだ出会って間もない私のことを「娘」と呼んで甘やかしてくれている、最高に優しくて美しい私の新しい『ママ』だ。
「うふふ、クロエ。足元に気をつけてね。疲れたらママがおんぶしてあげるから♡」
「あ、ありがとうございます、ママ。でも妖精さんが作ってくれたブーツのおかげで、全然痛くないんです!」
親に捨てられ、スラムで踏みつけられてきた私にとって、誰かの体温は遠いものだった。だから、ゴツゴツしたその手のひらが、たまらなく温かい。
「それにしてもクロエ、本当に可愛いお友達を連れてるじゃないの! まるでぬいぐるみねぇ〜!」
『ふふんっ! わかってるじゃないこの筋肉! ……って、アノマロカリスがぬいぐるみとはどういうこと!?』
頭の上で、アノマロちゃんが「きゅいっきゅいっ!」と抗議の声を上げた。二本の『前部付属肢』をグッと曲げて、ちっちゃな力こぶを作ってみせる。
「あらヤダ、威嚇してるの!? 可愛い〜ッ! ……でもね、ママも負けないわよ?」
エルザさんが、背中の大剣をヒョイッと抜き放った。口元に浮かぶのは、獰猛で好戦的な笑み。
――ガサッ。
数十メートル先の茂みが、不自然に揺れた。覗いたのは、血のように赤い眼光。
次いで、大人の背丈ほどもある凶悪なオオカミ――『ファング・ウルフ』の群れが、ざっと十頭、這い出てきた。
「さぁて、妖精ちゃん! どっちがたくさん狩れるか、勝負よ!」
『望むところよ!』
言葉が終わるより早く、二つの影が弾けた。先陣を切って飛びかかってきたウルフを、エルザさんの大剣が薙ぐ。
「そーれッ!」
華麗なターンと、しなやかなステップ。そこから放たれた理不尽な剛剣は、分厚い毛皮も骨も無視して、ウルフの巨体をいともたやすく真っ二つに斬り伏せた。
その凶行に怯んだ別の一頭が、標的を変える。後方で立ち尽くす、弱そうな私へと。
「ひっ……!」
『私の可愛い嫁に、汚い牙で触れるんじゃないわよ! ついでに『味見』ね!』
頭上から、パステルカラーの弾丸が射出された。
アノマロちゃんの前部付属肢から放たれた音速の衝撃波が、ウルフの眉間を正確にぶち抜く。
白目を剥いて崩れ落ちるウルフ。アノマロちゃんは空中でクルリと反転し、飛び散った肉片を器用にキャッチして口に放り込んだ。
もっきゅ、もっきゅ……。
『うん、悪くないアミノ酸スコアね! ――【水平伝播】完了! 声帯の振動パターンに喉の軟骨組織……なるほど、これがオオカミの遠吠えを生み出す共鳴腔のメカニズムね!』
また何か難しい呪文を呟きながら、アノマロちゃんがウルフの力を取り込んでいく。
「あらヤダ、やるじゃない妖精ちゃん!」
『お肉の筋切り係はお任せ!』
そこからは、もはや狩りではなく作業だった。
肉を断つ重い刃の音と、空気が破裂する打撃音。ほんの数十秒で、十頭いたはずのウルフたちはすべて『極厚の切り身』へと変わっていた。
「ふぅん、楽勝ね♡」
エルザさんが大剣にこびりついた血を振り払う。そのままニッと笑い、私に向かって意気揚々とハイタッチを求めてこようとした。私もホッと息を吐き、笑顔で手を振り返そうとした。
――その時だ。
ピタリ、と。森を揺らしていた風が、死んだ。
枝で鳴いていた小鳥たちが、悲鳴も上げずに一斉に空へ逃げていく。
静寂。いや、違う。
……ズ、ズズズズズズズズズッ!!
腹の底を嫌なふうに揺さぶる、重い地鳴り。それは秒を追うごとに鼓膜を圧迫し、やがて足元の地面を激しく跳ねさせた。
「……ちょっと、なんなのこの地響き!?」
エルザさんの顔から余裕が消える。大剣を両手で構え直した。
森の奥。太い樹木が次々とへし折れる轟音と共に、土煙が壁のように押し寄せてくる。
現れたのは、目を血走らせ、口から泡を吹いて狂乱する『ファング・ウルフ』の大群だった。ざっと百頭。さっきの十頭など、この巨大な群れから押し出されただけの『はぐれ者』に過ぎなかったのだ。
「ウソでしょ……『スタンピード』!?」
足が、すくむ。奥歯がカチカチと鳴った。
だが、見えてきたウルフたちの様子がおかしい。群れは私たちに牙を剥くどころか、完全に私たちを無視している。互いを押し除け、踏みつけ合いながら、ただただ『背後にある何か』から半泣きで必死に逃げ惑っていたのだ。
「こいつら、何かから逃げているのよ! でも、この大群に飲み込まれたらただじゃ済まないわ!」
『尋常じゃないパニック状態ね。なら、さっき味見したデータで強制的に鎮めるわ!』
アノマロちゃんが、私の頭から空高く舞い上がった。先ほど取り込んだウルフの遺伝子から、瞬時に『オオカミの発声器官』を再現する。
『――聞きなさい!!』
――ウォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!
体長三十センチの体から放たれたとは到底思えない。空気を、いや、空間そのものを震わせるような、圧倒的で絶対的な『アルファ(群れの王)の遠吠え』。
同時に、アノマロちゃんの体から薄ピンク色のガス――『鎮静フェロモン』が噴き出し、群れの只中へと一気に拡散していった。
聴覚から叩き込まれた王の覇気と、嗅覚から脳神経を直接麻痺させるフェロモン。
強烈な二つのアプローチを受けた百頭のウルフたちは、もつれるように急ブレーキをかけた。狂乱の瞳からスッと赤みが引き、「ハッ」と我に返る。正気を取り戻した群れは、目の前に立つ強者への恐怖を思い出し、蜘蛛の子を散らすように森の左右へと逃げ去っていった。
スタンピードは、アノマロちゃんの一手で見事に瓦解したのだ。
土煙がゆっくりと晴れていく。残されたのは、無残に薙ぎ倒された木々と、静まり返った森の空気だけ。
「ふぅ……間一髪だったわね。クロエ、怪我はない?」
「は、はい。妖精さんのおかげで……」
エルザさんが深く安堵の息を吐き、強張っていた肩の力を抜いた。私も、ドクドクと早鐘を打っていた胸を撫で下ろす。
助かった。そう思った。
だが――。
――突如として、世界から『音』が死んだ。
逃げていくウルフの足音も、葉擦れの音も、虫の声すら聞こえない。あらゆる物理的な振動が、その異常な密度の気配によって圧殺されたのだ。
それは、大気という海に落ちた一滴の極彩色の毒。逃れようのない『死』の概念そのものが、木陰の濃い闇の中からヌルリと滲み出してきた。
「……冗談、でしょ」
歴戦のAランク冒険者であるエルザさんの顔から、すべての血の気が失せていた。
木陰から姿を現した輪郭は、馬を凌駕するほどに巨大な黒豹。だが、それはもはや獣などではなかった。
闇夜を切り抜いて固めたかのような漆黒の毛並みには、魔素(瘴気)が赤黒い斑紋となって蝕むように脈打っている。両目は、理性を焼き尽くされた絶望の泥沼。
――ピク、と。
黒豹の漆黒の尾が、わずかに揺れた。
音は、なかった。ただ、ザシュッ……と、空気が薄くスライスされるような不快な振動だけが鼓膜を撫でた。
次の瞬間。
四方八方へ散り散りに逃げようとしていた百頭のウルフたちが、一切の悲鳴を上げる間もなく、一斉に『サイコロ状の肉片』へと変わって崩れ落ちたのだ。
不可視の、あまりにも巨大な風の刃。太い森の木々ごと、先ほどまで私の命を脅かしていた強者の群れを、瞬きする間に惨殺してみせた。
ドサドサと血と肉の雨が降り注ぎ、むせ返るような鉄の匂いが森を支配する。
「闇と風の属性を統べる暗殺獣、『影渡りのフェルナイト』……! しかも、濃密な魔素を取り込んで突然変異したカラミティ(厄災)指定個体。……完全に、脳を魔素に焼かれてるわ」
――影渡りのフェルナイト。
本来なら音もなく獲物の首を刈る不可視の暗殺獣が、魔素に狂わされたことで隠密という概念すら捨て去り、ただ全てを破壊する【歩く災害】へと変貌していた。
『グルルルルルルルルアァァァァァッッッ!!!』
大気が、割れた。鼓膜を破壊し、三半規管を直接揺さぶるような、地獄の底からの咆哮。
エルザさんが私を庇うように大剣を構えた、その次の瞬間――。
フェルナイトの漆黒の巨体が、己の足元にある『影』へとズブズブと沈み込んだ。
影に隠れたのではない。平らな地面の影の中へ、あの巨大な質量が跡形もなく『消失』してしまったのだ。
「どこから来るかわからないわ……! クロエ、絶対にママの後ろから離れないでッ!」
エルザさんが悲痛な声を上げ、四方を取り囲む木々の影へと大剣を構える。
けれど――私の頭の上で、アノマロちゃんだけはパステルカラーの複眼をギラリと輝かせ、不敵に前部付属肢を鳴らしていた。
『……へぇ、影への二次元潜行? 物理法則を無視したふざけた隠密スキルじゃない』
『でも残念だったわね、巨大ネコちゃん! 三次元の視覚に頼らないカンブリア紀の索敵網から、逃げられると思わないことね!』




