第69話 最弱テイマー、空から降ってきた血まみれ妖精さん(?)と出会う。
冷たくて、暗い。
這い寄る足音と、生臭い息遣いが、絶望の淵にいる私を囲んでいた。
背中には、そそり立つ冷たい山の断崖。右足を無残に砕かれた私に、逃げ場はどこにもない。
ズキリ、と骨の髄まで響く激痛が走る。
『おい無能女。罠解除も満足にできねぇ荷物持ちの分際で、足手まといになりやがって。……まぁ、お前みたいな魔力ゼロのゴミでも、ゴブリンの注意を引くデコイくらいにはなるだろ? そこで喰われて、俺たちの役に立てよ』
私をここまで連れてきた中堅パーティ『黒狼の牙』のリーダー、ザックさんが、歪んだ笑みを浮かべる。私の右足を躊躇なく蹴り折った、その冷酷な感触が脳裏に焼き付いて離れない。
魔術師のゲイルさんが鼻で笑う。その横で、軽装の革鎧を着た小柄な男――本来なら索敵や罠解除を担うはずの斥候のボラさんが、ヘラヘラとした卑屈な愛想笑いを浮かべながら私の荷物を漁っていた。
『いやぁ、悪いねクロエちゃん。どうせ死ぬんだし、水と薬草は俺たちが有効活用してあげるよ』
そう言って、私が必死に集めたわずかな水筒と薬草を奪い取る。仲間だったはずの彼らは、誰一人として私を庇うことなく、足早に暗い森の奥へと消えていった。
痛くて、怖くて、涙が溢れる。助けを呼ぶ声すら出ない。
でも、心のどこかで「やっぱり、こうなるんだ」と冷めた自分がいた。
この世界では、生まれつき【魔力】と【スキル】を授かるのが当たり前だ。
神の理から完全に外れて生まれた私は、物心ついた頃から『欠陥品』と呼ばれ、親に捨てられ、スラムの路地裏で泥水をすすって生きてきた。
幼い頃、ボロボロの絵物語(絵本)で読んだ英雄や、優しい仲間にいつか出会えると、馬鹿みたいに夢見ていた。だけど現実は残酷だ。ただ生きるためだけに、彼らのような悪徳パーティの雑用係になるしかなかった。
自分の背丈より大きな荷物を背負わされ、本来ボラさんがやるべき罠の解除や、魔物の囮として使い潰される日々。生き延びるために、全身に泥を塗って匂いを消し、岩の隙間で息を殺して朝を待つしかなかった。
いつか誰かに「クロエ」と名前を呼んでほしくて、誰かの役に立ちたくて、必死に耐えてきたのに。
――結局、私には何の価値もなかったんだ。
足を砕かれたことで撒き散らされた血の匂いに引き寄せられ、暗がりの中から数十匹のゴブリンたちがにじり寄ってくる。
もう、息を潜める生存本能も湧いてこない。
「……どうせ私なんて、生きている価値のない欠陥品だから……」
私がここで死んでも、世界中の誰も悲しまない。
そうやって死を覚悟し、ふと空を見上げた、その時だった。
ザァァァァッ……!
薄暗い森の木立を切り裂いて、はるか上空から『一筋の光』が真っ直ぐに落ちてくるのが見えた。
淡い桜色と水色が混ざり合った、美しいグラデーションの光。それはまるで、死ぬ間際に一瞬だけ見せた、神様からの残酷で美しいおとぎ話の幻のようだった。
「……あぁ、綺麗……」
その美しい光景を網膜に焼き付け、私は迫りくるゴブリンの牙を前に、今度こそギュッと目を閉じた。
パンッ……!!
空気を鋭く劈く、異様な破裂音が響き渡った。
恐る恐る目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
私に飛びかかろうとしていた先頭のゴブリンの頭が、見えない何かに弾き飛ばされたように、跡形もなく消し飛んでいたのだ。
パァンッ!! パンッ! パンッ! パンッ!!
魔法の詠唱も、光もない。ただ、乾いた音が鳴るたび、屈強なゴブリンたちの肉体が、いとも容易く破裂し、赤い肉塊へと変わっていく。数十匹いたはずの凶悪な群れが、たった数秒で血の海へと沈んでしまった。
静まり返った空間。
赤い血の雨が降り注ぐ中、それは私の目の前に『浮いて』いた。
さっき、死ぬ間際に見たおとぎ話の光。空を泳ぐようにヒラヒラと波打つ、ひだ飾りのような羽。顔の半分ほどを占める、宝石のようにキラキラと輝く、つぶらで丸い瞳。
幻じゃなかった。
圧倒的な力でゴブリンを粉砕した存在とは到底思えないほど、愛らしくて、儚げな妖精さん。
その小さな生き物は、へたり込む私の目の前へとゆっくり降り立つと、頭から生えたくるんとしたリボンのような手で、まるで「もう大丈夫だよ」と言わんばかりに、私の頬へそっと触れた。
あぁ……なんて綺麗で、優しい生き物なんだろう。
私が思わず手を伸ばそうとした、その時。
『チッ……まだ生きてやがったのかよ、その役立たず。どうせゴブリンのオヤツになってくれりゃ、手間が省けたのによ』
森の奥から、聞き覚えのある舌打ちが響いた。
戻ってきたザックさんやゲイルさんたちの視線は、私ではなく、私を助けてくれた小さな妖精さんに向けられていた。
『あ……? ゲイル、アレは高く売れるレアな魔物かもしれねぇ! おい、あのゴミごと燃やして捕まえろ!』
『ちっ! しゃあねえなぁ……。炎よ、矢となりて敵を穿て「ファイヤーアロー」』
無慈悲な指示と共に、炎の魔法が放たれた。
「だめっ……!」
私の体は、考えるよりも先に動いていた。
砕かれた右足を引きずり、私は無防備な妖精さんに覆い被さった。
ドスッ、と。背中に焼け焦げるような激痛が走る。
痛い。息ができない。意識が遠のきそうになる。
だけど、不思議と心は温かかった。誰からも必要とされなかった私が、生まれて初めて、自分の意志で「誰か」を守ることができたのだから。
「大丈夫? ……っ、怪我、してない……?」
私が薄れゆく意識の中でそう呟いた瞬間だった。
私の胸の奥から、今まで感じたことのない熱い何かが、妖精さんへと流れ込んでいくのを感じた。
『――きゅんっ♡』
妖精さんが不思議な声を上げた次の瞬間。
目にも留まらぬ速さで跳躍した妖精さんがザックさんの顔面に張り付き、凄まじい音と共にその鼻骨を無残に粉砕した。
『ギャアアアアッ!? な、なんだこの化け物ォォッ!!』
『ひっ……ひぃぃぃッ!? ザック、逃げろ逃げろ逃げろ!!』
這々の体で森の奥へと逃げていくザックさんたち。
妖精さんは、再び私の元へ戻ってきた。その体は、ゴブリンとザックさんの返り血で真っ赤に染まっていた。周囲には、目を背けたくなるような血だまり。これらはすべて、この小さな生き物が引き起こした凄惨な結果だ。
怖い。本能がそう告げている。
だけど……私を守ってくれたこの子を、怖がりたくなんかなかった。
「ふふっ……妖精さんの『魔法』で、悪い魔物も、ザックさんたちも……みーんな、どこかへ行っちゃったね」
私は、震えを誤魔化すように微笑みを作り、その血まみれの体をギュッと抱きしめた。
「こんなに血だらけになって……私のために、一生懸命戦ってくれたんだよね。……まるで、おとぎ話に出てくる騎士様みたい。……私を助けてくれて、本当にありがとうっ」
ずっと誰の役にも立てなかった私を、守ってくれた。その不器用な優しさが、どうしようもなく愛おしかったのだ。
『っていうか妖精じゃないし!』
「――えっ!? なに、今の女の人の声……! 私の頭の中に!?」
驚く私に、頭の中に響く元気な女の子の声が、難しくて聞き慣れない言葉を一生懸命に喋り始めた。『サンヨウチュウ』とか『カンブリア』とか、正直何を言っているのかは全然わからなかった。
でも、ごまかすように早口で喋るその声が可愛くて、私は自然と心の底からの笑顔になっていた。
「んーとっ、アノマロちゃんね! 私はクロエ! よろしくね、アノマロちゃん!」
私がそう名乗った瞬間だった。
私とアノマロちゃんを繋ぐ、目に見えない温かな糸のようなものが『カチッ』と結ばれた。
震える指で空中に触れ、ステータス画面を呼び出す。相変わらず、魔力はゼロのまま。だけど、【従魔】の欄には読めない文字で、確かに新しい刻印が刻まれている。
私は、もう独りぼっちじゃなくなったんだ!
「――痛っ……!」
嬉しさのあまり動いたせいで、背中の火傷と、砕かれた右足に激痛が走った。
すると、アノマロちゃんが慌てた様子で私の右足に張り付いた。足の皮膚にチクリとしたわずかな刺激を感じた直後――不思議なことに、右足の痛みが嘘のようにスッと消え去ったのだ。
「えっ……? 痛みが、ない……?」
私は自分の足を見て、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……ありがとう。私、誰かに助けてもらうの、初めてで……すごく……嬉しい……」
アノマロちゃんは今度は私の背中の火傷にも冷たいゼリーのようなものをペタペタと塗りつけてくれた。すると、焼け焦げていたはずの肌が綺麗に治っていく。
さらにアノマロちゃんは、自分の体から「淡いパステルカラーの糸」のようなものを勢いよく吐き出し、私の右足にグルグルと巻き付け始めた。それはあっという間にカチカチに固まり、私の足をぴったりと包み込む可愛い色のブーツのようになった。
『【生体外骨格】形成完了! 甲殻類の殻と同じ成分で作った特製ギプスよ! 足の裏から膝下までの荷重をすべて外側の殻に逃がす構造にしてあるから、折れた骨には一切体重がかからないわ!』
私は恐る恐る立ち上がってみた。
本当だ、全然痛くない。それどころか、魔法のブーツが勝手に足を支えてくれているみたいに、羽のように軽く歩けるのだ!
「わぁ……! これ、すごく綺麗……! まるで……おとぎ話のガラスの靴みたい……!」
痛みを忘れて、視界がきらきらと輝いた。
「アノマロちゃんが作ってくれた靴……ずっと大事にするね……!」
『だからオカルトじゃなくて、ガチの生化学と高強度のキチン・キトサン樹脂による荷重分散構造だってば!』
アノマロちゃんは私の頭の上にふわりと乗り、なぜかブルブルと幸せそうに身をよじらせた。
足の痛みがすっかり消えた私は、ボラさんが見向きもせず残していったボロボロの麻袋と、護身用の錆びたナイフを取り出した。アノマロちゃんが倒してくれたゴブリンさんたちの残骸から、ギルドで換金できる『魔石』と『右耳』を切り取って集めるためだ。
「ふふっ。これを街に持っていけば、少しはお金になるかもしれないからね」
血まみれの作業なのに、ちっとも嫌じゃなかった。頭の上でアノマロちゃんが見守ってくれているだけで、胸の奥がぽかぽかと温かかったからだ。
この日から。
世界中から「無能な欠陥品」だと見捨てられていた私と、絶望の淵に空から降ってきた不思議で優しいアノマロちゃんとの、誰にも邪魔されない温かな日々が始まったのだ。




