第66話 【第一部完結】「いってらっしゃい、私(おねえさま)」――魂を完全に溶かし合い、新しい私が歩み出す光の世界!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
迷宮の最奥、赤黒い焦土の果てにそびえ立っていた巨大な『終わりの門』。
暴虐竜ディアボロドンの消滅という条件を満たしたことで、門に刻まれていたシステムロックの紋様が次々と光を失い、解錠されていく。重々しい地響きと共に、巨大な漆黒の扉がゆっくりと、左右に開かれ始めた。
門の隙間から、眩いほどの『外の世界』の光が差し込んでくる。そして、新しくて、どこか懐かしい乾いた風が、私たちの体を撫でた。
開いた。ついに、地上への扉が……。
私は三十センチのアノマロカリスの姿で、その光を見つめた。
勝ったのだ。大自然の理不尽にも、神の作った理にも。
『ギ、チィィィィィッ!!』
「シャリリリリッ!!」
崩れ去った灰の向こう側から、プルちゃんや姫アリ、生き残った蟲たちが、一斉に門の光へと向かって駆け出していく。
長く過酷だった迷宮のサバイバル。この扉を越えれば、新しい世界へ行ける。そう信じて疑わなかった。
――だが。
先頭を走っていた姫アリとプルちゃんが、門の境界線を越え、外の光と風を全身に浴びた、その瞬間だった。
『チィィ……ッ!? チ、ギギギギギッッ!!』
突如、姫アリが激しくもがき苦しみ、その場に倒れ伏した。
漆黒の重装甲を誇るプルちゃんまでもが、まるで目に見えない巨大な壁に押し潰されたかのように泥に這いつくばり、激しく痙攣し始めたのだ。
えっ……? プルちゃん!? 姫ッ!!
私は慌てて二人のもとへ駆け寄り、感覚器官でバイタルをスキャンした。
細胞の圧壊。そして、重度の酸欠(低酸素症)。
そうか。そうだった。なんで、こんな基本的な生物学の常識を忘れていたの……っ!
この『神立迷宮ガラパゴス』は、巨大な蟲たちが生きられるよう、意図的に調整された【超高酸素・高魔力・高気圧環境】だ。対して、扉の外――地上の世界は、極めて標準的な【通常酸素・低魔力・標準気圧】。
気門や書肺といった原始的な受動呼吸器官しか持たず、外骨格だけで体を支えている巨大無脊椎動物たちは、外の世界の薄い空気と重力の下では呼吸が追いつかず、自重を支えきれずに自壊してしまう。深海魚を急に海面へ引きずり出せば、水圧の変化で浮き袋が破裂して死んでしまうのと同じだ。
この迷宮の環境に過剰適応しすぎた彼女たちは、外の世界では一秒たりとも生きられないのだ。
全員で生き残るという私の願いを打ち砕く、あまりにも冷酷で、残酷な『物理的自然選択』の壁。絶対に越えられない『見えない檻』。
……ッ。ごめん、ごめんね……。気付いてあげられなくて……っ。
私は前部付属肢で、苦しむプルちゃんたちを強引に境界線の内側(迷宮側)へと引き戻した。迷宮の濃密な空気を吸い込み、プルちゃんたちの痙攣がゆっくりと収まっていく。
……外の世界へ行けるのは。
脊椎動物の祖先と同化し、強靭な内骨格(背骨)だけでなく、低酸素にも対応できる『高度な呼吸器官と閉鎖血管系』を手に入れた、私だけ。
蟲たちも、本能でそれを悟ったようだった。姫アリが、悲しげに触角を下げ、私を見つめている。
『……チィィ……』
私は、ポロポロと涙をこぼしながら、道中でずっと大切に甲殻の隙間に隠し持っていた『ピンクの花(最古の種子植物エルキンシア)』を取り出した。そして、それを姫アリの頭へと、優しく結びつける。
あなたたちは、この迷宮で生きて。……私が繋いだこの群れを、あなたが立派な『新女王』として束ねていくのよ。
姫アリは、頭の花を誇らしげに揺らし、コクリと頷いた。
「シャリッ」
そして、私の前に進み出たのは、漆黒の変異種サソリ――プルちゃんだった。
彼女は、欠けたハサミを高く掲げた。私も、白銀の前部付属肢を振り上げる。
ガキィィィンッ……!!
私の前部付属肢と、プルちゃんのハサミが、力強く交差した。
言葉は通じなくても、これまでの死線を共にくぐり抜けてきた絆が、すべてを物語っている。種族を超えた最高の『敬礼』。
……ありがとう、みんな。さようなら。
私は涙を拭い、家族たちに背を向けて、光が差し込む門の境界線へとただ一人、踏み出した。
――その時だった。
『おねえさま……』
門を越え、迷宮の加護が完全に薄れた瞬間。私の中で、ピカちゃんの声に不気味なノイズが混じった。
『ぼく、なんだか……すごく、眠いです……』
えっ……? ピカちゃん?
『眠くて、とても眠くて……おねえさまの輪郭が、ぼくの輪郭と……混ざって、わからなく、なって……』
ドクン、と私の心室が重く跳ねた。
暴虐竜を倒すため、私たちは魂と肉体を重ね合わせる『完全なる細胞内共生』を果たした。それは、能力を貸し借りするだけの繋がりではない。生物学における同化。それは、「二人で一つになる」ということ。
つまり――『ピカちゃんという個の意識』が完全に消滅し、一個の私として完全に溶け切ってしまうのだ。
嫌だ。蟲たちと別れたばかりなのに。私の一番大切な、たった一人の相棒まで、本当にいなくなってしまうの……!?
だめっ、ピカちゃん! 寝ちゃだめ! 私に話しかけて! ずっと、ずっと、私の中でうるさいくらいに笑っててよぉ……っ!
私は精神の深奥の海で、消えゆくパステルブルーの光の輪郭を、必死に抱きしめようとした。
『泣かないで、おねえさま』
ノイズに塗れながらも、ピカちゃんの声は、どこまでも優しく、そして温かかった。
『ぼくは、消えるんじゃないです。おねえさまの心の、全部に、なるんです』
『だから、さよならじゃ、ないですよ……っ』
痛覚も、熱さも、愛情も、すべてを半分こにしてきた。その境界線が、今、完全に一つに溶け合おうとしている。
ええ。それはわかってる。わかってるわよ……。
私は、精神の海で、溢れる涙を拭い、目の前の光に力強く微笑みかけた。
あなたの優しさも、強さも、全部私が生きて証明する。……ありがとう、ピカちゃん。愛してる。
『ふふっ……ぼくも、愛しています。――いってらっしゃい、私』
最後に、世界で一番大好きなあの無邪気な笑顔が、ふわりと弾けた気がした。
完全に声が途絶え、二つの魂は極めて綺麗に融合し、一つの新しい存在へと昇華された。
***
乾いた風が吹き抜ける。
私は、すべての殻と別れを背負い、脊索と命を宿した新時代のアノマロカリスへと至った。そして、地上の光の中へと這い出した。
そこは、見渡す限りの広大な青空と、未知なる植物が生い茂る、新しい世界。
もう、頭の中でピカちゃんの声は聞こえない。だけど、私の胸の奥には、彼女のくれた深い慈愛と、陽だまりのような温かさが、確かに脈打っている。
かつての私は、ただの理屈っぽくて尖った生物部JKだった。でも、今の私は違う。
さて。新しい世界の生態系、ゆっくり愛してあげましょうか……。
「きゅい!」
ふいに、自分の口から出た愛らしい鳴き声。それに驚き、私は小さく吹き出した。
なんだ……ちゃんといるじゃない。私の中に。
私はポロポロと涙をこぼしながらも、満面の笑みを浮かべ、眩い光の彼方――王道ファンタジー世界へと、力強い一歩を踏み出した。
『E1⬛︎#Yちゃ⬛︎……! お⬛︎⬛︎!!』
声が聞こえた気がした。
(第一部・完)




