第62話 二人で一つの理になる。――時の止まった深淵で、私たちは初めて『本当の自分』で抱き合った。
冷たい。暗い。重い。
ピカちゃんの炭化した身体を抱きしめたまま、私の意識は果てしない泥沼の底へと沈んでいった。
五感が完全に消失していく。光も、音も、匂いも届かない精神の深淵。
エントロピーが増大し、生命活動が完全に停止したという物理的な絶対法則が、私からあらゆる希望を剥ぎ取っていた。
……このまま、私も消えてしまおう。
ピカちゃんがいない世界で、ただ一人地上に出たところで、何の意味もないのだから。
そうやって、自己の境界線すら泥に溶けかけ、完全な無へと還ろうとした――その時だった。
トクンッ……。
暗黒の精神の海に、小さな、けれど確かな波紋が広がった。
『――おねえ、さま』
……え?
『泣かないで、おねえさま』
それは、幻聴などではない。
過酷なサバイバルの中、私とピカちゃんは何度も『栄養交歓』をし、互いの魔力を分け合う『他者治癒』を繰り返してきた。その行為は、ただの物理的な接触ではなかったのだ。
極限状態での命のやり取りは、私たちの遺伝子(DNA)の奥深く、そして魂の根源レベルで、決して切れることのない強靭な【パス】を構築していた。
肉体の死という絶対的な壁すらも超越した、精神の特異空間。
真っ暗な泥沼の底が、ふわりと温かいパステルブルーの光に包まれる。そして、暗闇の中にひとつの小さな光が浮かび上がった。
それに手を伸ばそうとした私は、ハッと息を呑んだ。
光に照らされた私の『腕』。
それは、白銀の巨大な甲殻でも、網目状の大付属肢でもなかった。見慣れた指定のカーディガン。制服の袖から覗く、華奢で小さな、ただの『人間の女の子』の手だったのだ。
肉体という殻を失った精神の深淵だからこそ、私自身の魂が、一番最初の姿の形を取っていた。
そして、私のその小さな人間の両手に、ふわりと。
パステルブルーの光を放つ、体長わずか数センチの小さな小さな命が舞い降りた。
ピカ、ちゃん……?
そこにいたのは、ラミアの姿ではなかった。
私が最初に出会った時の姿。すべての脊椎動物の祖先である【ピカイア】の形をした、美しく純粋な魂の光だった。
『おねえさま……』
ピカイアの姿をしたピカちゃんは、私の手のひらの上で、ふわりと温かく揺れた。
そして、初めて見る私の『人間の姿』を見上げて、心の底から嬉しそうに、弾むような声を出した。
『それが、おねえさまの本当のお姿なんですね……!』
え……。
『ふふっ。ずっと、どんなお姿なんだろうって思ってました。……すごく、すごく綺麗で、可愛いですぅ』
物理的な表情はないはずなのに。その光の瞬きからは、私に向けられたどこまでも純粋な愛と、無邪気な笑顔がはっきりと伝わってきた。
手のひらに乗った小さな光から、じんわりと。まるで、春のぽかぽかとした『陽だまり』のような、優しくて無償の温もりが伝わってくる。
絶対の死を突きつけられ、絶望で氷のようにカチカチに凍りついていた私の心が、その陽だまりの熱に触れて、ゆっくりと、けれど確実に溶かされていくのが分かった。
冷たい泥の底で、永遠に止まってしまおうとしていた私の思考。そこに、ぽわぁっと春風のような感情が広がり、諦めかけていた鼓動を優しくノックする。
馬鹿ね……。ピカちゃんの方が、ずっと綺麗で可愛いのに……。
私は、手のひらの上の小さなピカイアを、こぼれ落ちないように両手でそっと包み込んだ。
凍りついていた私の感情が完全に決壊し、頬を伝う涙が、精神の海にポロポロと光の雫となって落ちていく。
『ぼくのからだは、もう壊れちゃいました。でもね、肉体がなくなるだけで、ぼくはおねえさまの一部になるんです』
ピカちゃんは、私の手のひらの温もりを感じるように、小さく身をよじった。
『これは死じゃない。ぼくたちの、永遠の共生ですぅ』
――共生。
その言葉が、私の解けかけた理系脳のシナプスを、バチィィンッと激しく弾いた。
『二人で、一つの理になるんです。ぼくのぜんぶをおねえさまにあげます。だから……一緒に、あいつを倒して、地上へ行きましょう?』
ピカちゃんの深く、どこまでも無償の愛。
五感のない精神の海で、人間の私と、小さなピカイアの二つの魂が、二重螺旋を描くように深く、深く交じり合っていく。
そうだ。
遠い昔。古細菌がミトコンドリアという別の生命を取り込み、完全に一つの強大な生命(真核生物)へと進化を遂げた『細胞内共生説』。
それは喪失でも、死でもない。大自然が命を繋ぎ、より高みへと昇るための、最も美しく力強い【進化の形】なのだ。
……ええ。そうね、ピカちゃん。
私の心から、絶望の澱が完全に消え去った。涙の膜が蒸発し、私の瞳に、鋭く強い光が戻る。
私たちは、終わらない。私があなたを……私たちの命を、次の次元へ連れていくわッ!
私の意識が、猛烈な速度で現実世界へと急浮上していく。泥の底から、光の差す水面へ向かって、圧倒的な生命力と共に弾き出されていった。
***
おねえさまの意識が現実世界へと帰還し、精神の深淵に再び静寂が訪れた。
パステルブルーのピカイアの姿を保ったピカちゃんの魂は、上昇していく大好きな人の気配を、愛おしそうに見送っていた。
カツン、カツン……。
時の止まったはずの無の空間に、場違いな足音が響く。
ピカちゃんが振り返ると、そこにはヨレヨレの白衣を羽織り、偏光ガラスの眼鏡をかけた人物――この迷宮の創造神(神先輩)が佇んでいた。
「……今は、ピカイアだったな。直接会うのは、君が生まれて以来だね」
神先輩は、いつも天界のモニター越しに見せていたふざけた態度を消し去り、どこか寂しげな、慈愛に満ちた瞳でピカちゃんを見つめた。
『……かみさま』
ピカちゃんは驚くことなく、空中で静かに揺れた。
そう。ピカちゃんの魂の根源――それは、この過酷な箱庭を管理する神先輩が、自らの魂の一部を切り離して生態系に落とし込んだ【分体】だったのだ。
「……私の愛しい分体よ。君には、最初から残酷な役割を背負わせていたんだ」
神先輩は、ゆっくりと歩み寄り、空中に浮かぶ小さなピカイアの光を、指先で優しく撫でた。
「君は最初、すべての背骨の起源たる最弱生物『ピカイア』としてあの海に落とされた。私が組んだ本来の『予定調和』では……君は種田……君のお姉さまに出会った瞬間、ただのDNAのパーツとして、何ひとつ感情を交わされることもなく、彼女に【捕食】されるはずだったんだ」
最強の守護者を打ち破るための『鍵(迷宮の契約資格)』を、自らの分体という形でシステム内に餌として忍ばせておく。それが神の描いた、冷酷で最短の、完璧な生存競争プログラムだった。
「……だけど、あのバカは君を食べなかった」
神先輩は、ふっと自嘲するように笑い、どこか清々しい顔で本音をこぼした。
「彼女は君を食べるどころか、名前を与え、魔力を分け与え、共に生きる道を選んだ。まさか最弱のピカイアだった君が、あんなに可愛いラミアの姿にまで進化し……最後は、あの子を守るために自ら命を投げ出すなんてな。私の演算は、君たちの前でとっくに破綻していたのさ」
神の予定調和は、彼女たちの絆の前にあっさりとバグを引き起こしたのだ。
「予定外の連続で、本当に驚かされっぱなしだったよ。……すまなかったね、私のせいで、君に痛い思いをさせてしまって」
しかし、ピカちゃんは小さく、けれど力強く瞬いてみせた。
『あやまることなんて、ないのですよぉ』
ピカイアの魂は、一点の曇りもないパステルブルーの輝きを放っている。
『だって、そのおかげで……ぼくは、おねえさまに出会えました。おねえさまに優しくしてもらって、いっぱい美味しいものを食べて……人間の本当のお姿まで見せてもらえて……。心の底から、おねえさまを愛することができました』
神の予定調和から外れたからこそ。紡がれた絆と、おねえさまに向けた愛情は、紛れもなくピカちゃん自身の『本物』になったのだ。
『だから……ぼくをうみだしてくれて、本当にありがとうございます、かみさま』
その純粋すぎる感謝の輝きに、神先輩の目が見開かれた。そして、困ったように眼鏡のブリッジを押し上げ、最高に誇らしげに笑う。
「……まったく。本当に君は、私にはもったいないくらい、美しく育ってくれたね」
ピカイアの魂の輪郭が、光の粒子となって現実世界へ溶け込もうと薄れ始めていく。
「行きなさい、ピカちゃん。彼女と共に……私の作ったつまらない理を、君たちの愛と腕力で、最後までめちゃくちゃに自然淘汰してきなさい」
『はいっ! 行ってきます、かみさま!』
パァァァン……ッ!
眩い光と共に、ピカイアの魂は完全に深淵から消失した。
あとに残された神先輩は、ポツンと一人、誰もいなくなった静寂の海で、空を仰ぎ見て静かに微笑んでいた。
***
ゲーミングチェアに深く腰掛けていた創造神が、ゆっくりと目を開けた。
精神の深淵からの通信を切り上げると、偏光ガラスの眼鏡の奥から、ひとしずくの涙が頬を伝って落ちる。
すると、横からスッと、無機質な手によって『高級保湿ティッシュ』の箱が突き出された。
『――告ぐ。創造神の眼球より、塩分濃度〇・九パーセントの液体漏出を確認せり。ひどく見苦しきにつき、早急な清掃を要求す』
タイトスーツに身を包み、バインダーを小脇に抱えた山”口ちゃんが、氷のように冷たい事務的な声音で言い放つ。
背格好や纏う空気こそまるで違うものの、その冷徹で端正な顔立ちは、ゲーミングチェアで涙を拭うヨレヨレの神先輩と、まるで鏡写しのように『瓜二つ』であった。
「うるさいなぁ、もう……。目から、ちょっと汗が出ただけです」
神先輩は苦笑しながらティッシュを引き抜き、自分と同じ顔を持つ山”口ちゃんの冷ややかな視線から逃れるように、前方――眩い警告の光を放ち始めたメインモニターへと向き直る。
そこには、泥の海で炭化したピカちゃんを抱きしめたまま、うつむく白銀のアエギロカシスの姿が映し出されている。だが、その生体データはすでに、これまでの常識を覆す異常な数値を叩き出し始めていた。
『――さらに、告ぐ。対象個体の精神波長およびDNA配列に、規格外の【細胞内共生】の兆候を検知せり』
山”口ちゃんは、無機質なトーンのまま。しかし、ほんのわずかにその口角を吊り上げて、力強く告げた。
『どうやら本当に……あなたの作った理不尽な箱庭が、物理的にぶっ壊される時間のようです』




