第61話 世界で一番大切な妹。
熱線の余波が過ぎ去り、鼓膜が破れるような轟音は、不気味なほどの静寂へと変わった。
泥の大地に蛇尾を深く沈め、私と蟲たちを守るために立ち塞がってくれた、美しい背中。
直撃したプラズマブレスの圧倒的な熱量の前に、彼女が回転させていた竜騎槍は跡形もなく灰と化し、『竜鱗の大盾』はドロドロに溶け落ちていた。
ピカちゃん……ッ!
凄まじい熱線を真正面から受け止めきり、ついに限界を迎えて、焦土と化した地面へと力なく崩れ落ちようとするその身体。
私は慌てて這い寄り、顔の下から伸びる網目状の大付属肢で、壊れ物を扱うようにそっと抱きとめた。
熱い。
触れた瞬間、絶望的な温度が伝わってくる。透き通るようだった白磁の肌は、無残にも黒く炭化して深くヒビ割れていた。
私の感覚器官を通して、ピカちゃんの生体データ(バイタル)を強制的に読み取っていく。
血圧、低下。
脈拍、微弱。
細胞の炭化率、八十パーセント超え。
待って。待って待って待って。
ヒドラから受け継いだ『全能性幹細胞』があるでしょ!? あれが発現すれば、どんな致命傷だって細胞分裂で――。
だが、ピカちゃんの体内から、あの力強い細胞のざわめき(リジェネ)は一切聞こえてこなかった。
細胞の設計図(DNA)はおろか、再生の要となる幹細胞そのものまで完全に焼き尽くされてしまっていたのだ。
ATPの生成量、ゼロ。
生化学的に、完全な『修復不可能』。
う、嘘でしょ……? ピカちゃん、ねえ、嘘って言ってよ……!
私の震える思念に反応して、ピカちゃんは泥にまみれた腕の中で、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その重い瞼を開けた。
サファイアのように美しかった瞳は、ひどく濁って、光を失いかけている。
「お、ねえ、さま……。ごぶじ、ですか……?」
口を開くたび、ごぼり、と赤い血がこぼれ落ちる。
自分の身体が崩れ去ろうとしているのに、この子は真っ先に私の心配をしているのだ。
私は無事よ! 私なんてどうでもいい!
私は、網目状の大付属肢からピカちゃんへと繋がるエンパシーパスを全開にした。かつて、私が巨大サソリの猛毒で死にかけた時、ピカちゃんが私にしてくれたように。
だめよ、死なせない! 今度は私が助けるから!『ヒール・パス』! 私の全部を送るからッ!!
私は、体内のミトコンドリアを暴走させ、己の命のエネルギーを強引にパス越しに注ぎ込んだ。淡いパステルブルーの光が、ピカちゃんの炭化した身体を包み込む。
だが――。
シュゥゥゥ……。
注ぎ込んだはずの魔力と生命エネルギーは、炭化した皮膚の隙間から、まるで『底の抜けた器』から水がこぼれ落ちるように、虚しく空気中へと霧散してしまった。
細胞が受け取りを拒否しているのではない。エネルギーを受け取り、定着させるための「細胞」そのものが、すでに物理的に存在していないのだ。
嘘でしょ……なんで!? 治ってよ! 治りなさいよォォッ!
何度魔力を注ぎ込んでも、光は空しく消えていく。
「だめ……ですぅ」
炭化したピカちゃんの右手がわずかに持ち上がり、私の甲殻にそっと触れた。
「おねえさまの、まりょくは……あいつを、たおすために、とっておいて……」
何を言ってるの!? あんたが死んじゃったら、そんなの何の意味も……っ!
「おねえ、さま」
ピカちゃんは、血塗れの顔で、ふんわりと。
出会った時と同じ、あの無邪気で、最高に可愛い笑顔を浮かべた。
「ぼくを……たべて、ください」
――え?
私の思考が、完全に停止した。なにを……言ってるの?
「ぼくのからだには、まだ、たくさん……『DNA』と、まりょくが、のこってます。おねえさまの、その……まあるくて、おおきなおくちで、ぼくを、たべて……ぼくの『ピース』を、ぜんぶ、もっていって、ください……」
ピカちゃんの言葉は、残酷なまでに『論理的』だった。
私がこれまで、スライムを、ゾウリムシを、オニイソメを喰らって、その能力(DNA)を水平伝播してきたことを、彼女は一番近くで見てきたのだから。
自分の炭化した肉体がもう助からないと悟った彼女は、残された最後のバイオマス(自分自身)を私に託そうとしているのだ。そうすれば、私が契約者としての権能を獲得し、さらに新しい進化を遂げて、あの絶対物理障壁のピースを埋められるかもしれない。
「ぼくの、ぜんぶ……おねえさまに、あげます……。だから、いきて……」
それは、大自然の冷酷な『弱肉強食』のルールにおいて、最も美しく、最も合理的な【最適解】だった。
――だけど。
――だけど、そんなの!!
ふざけないでよッ!!!
私の絶叫が、静まり返った絶望の森に響き渡った。
食べられるわけないじゃん!! ピカちゃんは……私の一番大切な家族は、食べられるわけないじゃん! できるわけないでしょォォッ!!
これまで、生き残るためにどんなゲテモノでも躊躇なく貪り食ってきた。進化するためなら、生態系のルールだって利用してきた。私は、冷徹な【特定外来生物】として、この世界を蹂躙してきたつもりだった。
でも、違った。私の本質は、ただの『人間の女の子』だ。
最適解? 合理性? 生存戦略?
そんなもの、全部クソ食らえだ。
ピカちゃんがいない世界で、私だけが生き残って、地上に出たって……そんなの、何の意味もない!!
「おねえさま……なかないで……」
ピカちゃんの声が、かすれて、風に溶けていく。触れている指先から、ポロポロと炭化した皮膚が崩れ落ちていく。
「ぼくは、おねえさまに、であえて……とっても、しあわせ……でした、から……っ」
いやっ! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!! お願い、置いていかないで! 一緒に、美味しいものいっぱい食べるって、約束したじゃんッ!
私の悲痛な叫びを置き去りにするように。
ピカちゃんの瞳から、すっと、最後の光が抜け落ちた。私の甲殻に触れていた手が、力なく泥の海へと滑り落ちる。
ピカちゃん……? ねえ、ピカちゃん……ッ!!
返事はない。
泥の海に座り込む私の腕の中で、パステルブルーの美しい相棒は、ただの冷たい骸へと変わってしまった。
嘘でしょ……? 起きてよ、ねえ……っ。まだ、一緒に美味しいもの食べるって……お外の景色、一緒に見るって約束したじゃん……ッ!
炭化した頬を、大付属肢でそっと撫でる。いつもなら「くすぐったいですぅ」と花のように笑ってくれるはずのその顔は、触れたそばからパラパラと黒い灰になって崩れていく。
進化なんて、もうしないから……! 地上になんて、出なくていい! ずっとこの泥水の中でもいいから……だから、目を開けてよォォッ!
いくら叫んでも、どれだけ私の体温を押し付けても、熱力学第二法則(エントロピーの増大)は覆らない。生命活動を停止した有機物は、ただ冷たい炭素の塊へと還っていく。
私が誰よりも知っている残酷な知識が、この死が『絶対の不可逆』であることを嫌というほど突きつけてくる。
神様ッ……! なあ、神先輩ッ!! あんた上で見てるんでしょ!?
届かないと分かっていても。私は、理不尽な空に向かって泣き叫んだ。
余興だなんだって笑ってないで、この子を助けなさいよッ!! 私がどうなってもいいから……ッ、お願いだから……っ、私から、一番大切なものを奪わないでよぉ……っ!!
それでも世界は、残酷なまでに沈黙を貫く。
なあ、ポンコツ女神ッ!! あんたも聞いてるんでしょ!?
私は、最初に私をこの地獄へ突き落とした存在に向けて、血を吐くように叫んだ。
私をこんなところに突き落とした時に言ったじゃない! システムエラーの私は、すぐに死ぬって! 自然淘汰されるのは私でしょ!? なら、私を殺しなさいよぉッ!!
どうして。どうして。どうして、一番優しくて、一番頑張ったこの子が死ななきゃいけないのよォォォッ!!
返ってくるのは、無情な泥の海の静寂と、暴虐竜が再びプラズマをチャージする不気味な明滅音だけ。
どんなに進化論を極めても。どんなに物理法則をハックしても。
大自然の『死』という絶対のルールの前では、私はただの無力で、ちっぽけな女の子に過ぎなかったのだ。
崩れゆく彼女の身体を抱きしめたまま、獣のように泣き叫ぶ。だが、どれほど叫んでも、失われた命の熱が戻ることはない。
やがて、悲鳴を上げる気力すらも擦り切れ、私の身体から急速に熱が奪われていく。甲殻の奥深くまで氷のように冷え切り、生きる意志すらも完全に凍りついて。
果てしない絶望の暗闇が、私の意識を、深く、深く……冷たい泥沼の底へと引き摺り込んでいった。




