第56話 這い寄る静寂、終わりの門。バケモノの名は―。
一歩踏み入った瞬間、森のざわめきも、風の揺らぎも、まるで分厚い鉛の壁に遮られたかのようにプツリと途絶えた。
私の触角にまとわりつくのは、空気を撫でる感触ではない。生温かくて重たいヘドロの底に沈められているような、おぞましい息苦しさ。
空の光が赤紫色に歪んでいる。
脚を踏み出すたび、ぐちゃり、と嫌な感触がした。
匂いで、わかる。
巨大なヤスデの仲間。カマキリの同胞。森の覇者であるはずの強大な恐竜たち。
彼らが、無残に引き裂かれ、半端に喰い散らかされて腐臭を放っているのだ。
命を繋ぐための匂いじゃない。
ただ、目障りだから噛み砕き、飽きたから吐き出したような……気まぐれで、無意味な暴力の残骸。ここは、この奥に陣取る『何か』が、命をオモチャのように蹂躙して放り投げた、この世の果てのゴミ捨て場だ。
恐ろしい。自分たちの命が、得体の知れない巨大な生き物の胃袋の中で、ゆっくりと溶かされているような錯覚に陥る。
だけど、私たちの列は止まらない。前を泳ぐ『白銀のおねえさま』から漂う、甘く力強いフェロモンが、私たちの心を恐怖の濁流からギリギリで繋ぎ止めてくれているからだ。
***
……吐き気がする。
私は、ピカちゃんを背に乗せながら、この異常な大気を慎重に数十枚の側泳鰭で掴み、ホバー機動を維持していた。
空を飛んでいるというより、完全に『焼けた鉛のゼリーの中を泳いでいる』感覚だ。大気の密度と粘性(レイノルズ数)が根本から狂い切っている。
それに、この赤黒く脈打つ奇形の植物相。
自重で折れるはずの巨大シダが折れず、環境そのものを歪めながら、天を覆うほどのグロテスクな血管網へと育ってしまっている。息を吸うたびに、超高濃度酸素の息苦しさと、濃密な死臭が呼吸器を犯す。一歩でも気を抜けば、見えない重圧に思考が押し潰されそうになる。
私はフェロモンを通じた群れの繋がりで、蟲たちのフォーメーションを微調整しながら、静寂の底を慎重に進んだ。
やがて――分厚いシダの臓物を切り裂いた先に、空間が開けた。
この世の果て。
そこには、周囲のわずかな光すらも吸い込む、天を突くほど巨大な漆黒のモノリス――『終わりの門』がそびえ立っていた。
そして、その門の前に。苔むした小山のような、巨大な『黒い岩塊』が、死んだように鎮座している。
***
おねえさまの背中で、ぼくの『ピット器官(赤外線センサー)』と舌(ヤコブソン器官)がそれを捉えた瞬間。
全身の竜鱗が総毛立ち、血液が冷たく凍りついた。
「……おねえ、さま……っ」
ぼくは震える手で、おねえさまの甲殻にすがりついた。
終わりの門の前に転がっている、あの巨大な山。
違う。あれは山なんかじゃない。
ぼくのピット器官は、分厚い岩のような装甲の奥深くで、『巨大な熱源』がいくつも脈打っているのを視覚化していた。
さらに、おねえさまの甲殻を通してぼくの蛇腹に直接伝わってくる、おぞましい振動。
――ズグンッ。ベチャッ。……ドゴンッ!
不規則で、おぞましい震え。ひとつじゃない。
あの山の内側には、生命の理から外れた、恐ろしいほど強靭で、かつ『バラバラのリズム』を刻む不協和音が、複数同時に鳴り響いている。頭から、胸から、そして腰の奥底から。
生き物の音じゃない。地獄の底で、無数の命がすり潰されているような、呪いの震え。それが、ただ生きているだけで周囲の空間を歪めるような、あの巨体を生かしている。
「動いちゃ、だめ……っ! あれは、絶対に、目覚めさせちゃいけない『世界の終わり』ですぅ……っ!!」
***
ピカちゃんの絶望に満ちた悲鳴が、永遠に続くかと思われた死の静寂を切り裂いた。
――直後、空が「落ちて」きたのかと錯覚した。
『――――、――――――ッッ!!』
鳴き声すらない。ただ、空間の空気が物理的に「破裂」するような異常な重低音と共に。
黒い岩塊が、星の骨組みを軋ませるような地鳴りを上げて、ゆっくりと持ち上がった。
その光景は、あまりにも理不尽だった。
三十メートルという規格外の質量。本来ならば自重で内臓と骨が圧壊するはずのその異形を、この空間の『狂った物理法則』が強引に成立させてしまっているのだ。
アンキロサウルスの分厚い骨の鎧を全身に纏いながら、獣脚類の凶悪な骨格を持ち、三十メートルという圧倒的な質量で二足歩行で立ち上がる悪夢。その分厚い装甲の隙間からは、どす黒く変色した巨大な臓腑が、一つの生き物とは思えないほどバラバラの狂ったリズムで拍動しているのが透けて見えた。
大自然の摂理を無視し、ただ存在しているだけで生命の定義を汚す、神の傲慢な失敗作。
重たい大気が、バケモノが放つ熱量と瘴気によって歪む。
私は目の前の存在を理解しようとして――思考停止した。
無理だ。生化学的に計算できない。あんなもの、生きていていいはずがない……!
生態系の頂点として覇気を放っていた蟲たちの陣形は、その姿を見た瞬間に文字通り崩壊した。
あんなに獰猛だった大ヤスデが、触角を丸めて腐葉土に顔を埋め、ただ死を待つ石ころのように硬直する。ハナカマキリは自らのカマを震わせ、泡を吹いて気絶した。
群れを統べる私ですら、全身のキチン質装甲が内側から凍りつき、逃げるためのフラップを一枚として動かすことができない。
ズンッ……!
バケモノが、一歩、前に足を踏み出した。
それだけで、空間の密度が『ドクン』と収縮し、私たちの内臓が雑巾のように絞り上げられる。
「あ、がっ……ぉ……」
ピカちゃんが喉を掻きむしり、呼吸を忘れたようにひきつけを起こした。
暗殺サソリのプルちゃんも、二本の毒尾を力なく泥に落とし、カタカタと震えるハサミをただ見つめている。
終わりの門の絶対的守護者。
暴虐竜ディアボロドン。
泥と腐肉と、死臭を撒き散らしながら、バケモノの頭部にある縦に裂けた四つの赤黒い目玉が、ギョロリ、と動いた。
そして、その四つの瞳が、足元の私たちを完全に見下ろした。
そこにあるのは、捕食者の飢えでも、獣の怒りでもない。路傍の塵を眺めるような、ただ息をするように『すべての命を終わらせる』という、底知れぬ虚無。
私たちは今、本当の絶望と目を合わせたのだ。
……って、ちょっと待ってよ。
あのポンコツ神先輩……こいつのこと、たしか『ディアボロちゃん』とか呼んでなかったっけ!?
「ちゃん」付け!? 嘘でしょ!?
どこをどう見たら、複数の臓器が不協和音を奏でてるこんなグロテスクなバケモノが、可愛い子ちゃん枠になるわけ!?
マジでふざけんな! 神先輩の美的センス、圧倒的に終わってるんですけどォォォッ!!
――私の震えが、ピタリと止まった。




