第54話 怪物になっちゃった☆ダーウィン先生、ごめんなさい!
――私は、母たる女王を失い、ただ死を待つだけの矮小な羽アリだった。
過酷なこの最上層において、群れを持たない弱い蟲など、冷たい泥にまみれ、いつ巨大な顎に砕かれるかと怯え続けるだけの無価値なタンパク質の塊だ。
しかし今、私の複眼に映る光景はどうだろう。
無敵の要塞と思われた重装甲恐竜の極太の骨が、我々の手によって美しくも凶悪な『槍』へと姿を変え、パステルブルーの蛇尾を持つ『美しき竜の姫』の手に握られている。
巨大なタマムシの顎が骨を削るたび、重厚な音が響く。
漆黒の同胞が放つ超音波の刃が、私の触角をビリビリと震わせながら、狂いなき流線型を成形していく。
私が分泌した【高分子生体接着液】は、恐竜の腱と骨を分子レベルで強固に結合させ、決して折れることのない絶対的な『芯』を創り上げた。
そして、その傍らには、我々すべてを統べる偉大なる『白銀のおねえさま』がいる。
あぁ……我々は、なんと恐ろしく、神々しい群れの『細胞』になれたのだろう。
大気中に満ちるフェロモンを受信するたび、私の神経節は歓喜に震え、分泌される脳内麻薬が全身の痛みを甘い陶酔へと変えていく。この絶対的な『超個体』のためならば……我々は喜んで、自らの命を捧げよう。
***
完成した巨大な『竜騎槍』を、十八歳に成長したピカちゃんが軽く手首を返して振るう。
圧縮された空気がヒュンッと鋭く鳴き、周囲の落ち葉が竜巻のように舞い上がった。
完璧なビジュと、生態系の頂点を狩るための物理火力が完成した、その時だった。
――ズシンッ……! ズシンッ……!
辺りの空気がビリビリと震え、強烈な腐肉の混じった獣の匂いが感覚毛を突く。
樹齢数百年の木々を、まるで小枝のように無惨に薙ぎ倒して姿を現したのは、体長十五メートルを超える超巨大な肉食恐竜、ギガノトサウルス。
全身に歴戦の傷跡を刻み、肉を切り裂くノコギリ状の牙が並ぶ巨大な顎から、粘り気のある涎を滴らせている。先日の大乱闘で溢れ返った莫大な血の匂いに釣られてやってきた、この最上層の【通常生態系の頂点】である。
ピカちゃん。少しだけ離れていて。……おねえさま、ちょっと本気でズルをするから。
私は冷静に計算する。
十八歳に成長したピカちゃんと、あの超重量の骨槍。今の私の二・五メートルの体では、彼女を背に乗せて超音速機動を行うための推進力が、根本的に足りない。
私はフェロモンで蟲たちを安全圏へ下がらせると、体内に蓄積してきた莫大なバイオマス(余剰栄養)のすべてを、ミトコンドリアの炉心へと一気にぶち込んだ。
ブワァァァァッ!!
体表から、異常な熱量によって白い蒸気が噴き出す。
――がっ、ぎ、ああああああっ!!?
全身の細胞が沸騰するような、想像を絶する激痛。古い甲殻の内側で肉がミチミチと異常増殖し、限界を超えた圧力が全身の神経を容赦なくすり潰していく。
痛い、痛い痛い痛いッ!! 殻の中で体が爆発するゥゥッ!
ミシッ……バキバキバキッ……!!
私の身体を覆っていた白銀の甲殻が内側からの圧力に耐えきれず、激しい音を立てて砕け散った。
だが、一回じゃない。終わらない。
――【連続急速脱皮】!!
痛みにのたうち回りながら、殻を脱いでは細胞分裂し、数秒で硬化してはまた脱ぐ。身を引き裂かれ、体液を吐くような激痛の無限ループ。
別の種へと進化するんじゃない。最強の濾過摂食者たる【アエギロカシス】のフォルムと構造を完璧に保ったまま、ただひたすらに、純粋に『巨大化』していく!
周囲の木々を圧し折り、大地を削りながら、私の巨体は瞬く間に『十メートルを超える怪物(超弩級アエギロカシス)』へと成長を遂げた。
流体力学に最適化された、巨大な白銀の流線型ボディ。左右に展開する数十枚の分厚い側泳鰭は、ひとたび波打てば暴風を生み出す、超大型のステルス母艦だ。
あああっ、偉大なる我が神、チャールズ・ダーウィン先生! 本当に、本当に申し訳ありません!
『種の起源』で示された、途方もない時間をかけて紡がれる美しき自然選択のプロセスを……あろうことか『気合と根性』で完全にすっ飛ばしてしまいました!
節足動物の開放血管系と外骨格の重量限界(二乗三乗の法則)を考えれば、陸上でこんなサイズになるなんて生物学に対する許されざる冒涜です!
でも、でも先生の名言にもありますよね!『最も強い者が生き残るのではなく、最も変化に敏感な者が生き残る』のだと!
私は今、この迷宮という強烈な選択圧に対し、自らを強制的に書き換えるという『極限の変化』で応えたのです!
どうか「私の理論が物理的に壊れた」と頭を抱えないでください! これも愛する相棒を守るための、一途な信徒の『生存戦略』としてどうかお許しをォォォッ!
さあ、ピカちゃん! 乗って!
「……は、はいっ! ですぅ!」
***
十メートルという見上げるほどの大きさになっても、ぼくには分かる。
ぼくを優しく撫でてくれる、世界で一番温かくて大好きな『おねえさま』だ。
ぼくはギガノトサウルスの咆哮を前にしても一切躊躇うことなく跳躍し、おねえさまの広大な背中へと着地した。
熱い。急速脱皮を終えたばかりのおねえさまの甲殻からは、命の熱気が陽炎のように立ち上っている。
ぼくは、太く長く成長した大蛇の下半身の筋肉を総動員し、背中の甲殻の溝に沿うように、自身の身体を幾重にも巻き付けて強固に固定した。
大蛇の筋肉がギリギリと収縮し、装甲と完全に一体化する。音速を超えても、どんなG(重力加速度)がかかっても絶対に振り落とされない、生きたシートベルトの完成だ。
ぼくは、分厚い竜鱗に覆われた腕で、巨大な竜騎槍を真っ直ぐに構える。
「おねえさまの背中は、ぼくが守るのです!」
行くわよ、ピカちゃん! 私たちの力、あの巨大トカゲに思い知らせてやりましょ!
周囲の重く粘度の高い大気が、おねえさまの巨大なヒレによって『ガチッ』と物理的に掴み上げられる感覚。
次の瞬間、無音の世界と共に、ぼくたちは超音速の領域へと跳躍した。
***
――我はこの最上層における、生態系の王だ。すべての命は我の肉となるために存在する。
むろん、あの最奥に陣取る、忌まわしき異形の縄張りにだけは決して近づかない。あれは理から外れた出来損ないだが、我の本能が、あれとだけは戦ってはならないと告げている。
だが、あの縄張りから離れたこの森においては、我が絶対の覇者である。
目の前にいる、脱皮を終えたばかりの奇妙な甲殻生物など、我が顎で噛み砕き、ひと飲みに――。
威圧の咆哮を放とうと、肺に空気を吸い込んだ瞬間だった。
白銀が、視界から『消失』した。
我が、その現象を理解するより早く。
音の壁を破る衝撃波が遅れて森を吹き飛ばし、視界から消えたはずの白銀の背に乗っていた「小さな餌」が突き出した『白い槍』が、我が胸元に迫る。
メチャァッ……!!
痛みすら、なかった。
生態系の頂点たる我が皮膚と分厚い筋肉の層が、容易く紙のように貫かれ、肋骨が砕け、その奥にある心臓が物理的に完全粉砕される。
理解不能。我が、なぜ、あんな――。
我の巨体は、断末魔を上げる間もなく、盛大な地響きと共に崩れ落ちた。
***
圧倒的な完全勝利。
私たちはフェロモンで警戒を解くと、蟲たちと共に、討ち取ったばかりの頂点捕食者の極上のお肉で血祝の宴を開いた。
「もぐもぐ……おねえさま、このお肉、すごく美味しいのですよぉ!」
顔を血まみれにしながら、ピカちゃんがふんわりとした笑顔で嬉しそうに肉を頬張っている。
野生動物のような豪快な食事風景と、相変わらずあどけない声。そのギャップのある光景を眺めながら……。
いやいや……待って。
ピカちゃんはすでに、骨端線が完全に閉鎖する『十八歳相当』まで骨格が成長しきっている。つまり、これ以上「身長」が伸びることは生物学的にあり得ない。
では、今彼女が摂取しているこの莫大な頂点捕食者のエネルギー(余剰バイオマス)は、一体どこへ向かっているというのか?
熱として放出されているわけではない。なら、細胞はどこで増殖している?
答えは、目の前でぷるんと揺れていた。
……バ、バストと、ヒップラインだ。
十八歳という成熟した大人の骨格はそのままに、恐るべき代謝効率によって生み出された余剰脂肪と高密度の筋肉が、女性らしいプロポーションの豊満さへと全振りされている!
莫大なバイオマスが、重力に逆らうような弾力を持った胸の膨らみと、大蛇の下半身へと繋がる滑らかで肉感的な腰回りへと、驚異的な速度で再分配されていくのだ。
汗と血に濡れた強靭な『竜鱗の腕』と、その対極にあるような、弾けんばかりの豊満な果実。そして額に生えた艶やかな竜角。
エネルギーの分配効率どうなってるの!? 質量保存の法則が、ダイレクトに『美しさ』に変換されているじゃないの! 私を魅了するための進化論的適応だとしたら、あまりにも完璧すぎる!
あああっ、あの華奢だったピカちゃんが、とんでもない色気とパワーを放つ【完璧な半竜蛇の美女】に育ち切っちゃったんですけど!?
いますぐ細胞組織の再サンプリング(ボディチェック第二弾)を要求するわ!!
……あれ? 私は、いつ人間に戻れるんですかぁぁぁ!!




