第51話 りゅうたいりきがく?……よく分からないけど。おねえさまの背中はぼくが守るのです。
ぼくの『おねえさま』は、世界で一番優しくて、世界で一番強くて、そして――少しだけ、理屈っぽい。
巨大な樹林ドームの中。
先ほどまでパニックに陥っていた恐ろしい蟲たちは、今や完全に毒気を抜かれ、宙に浮かぶ白銀のおねえさま(アエギロカシス)の周囲に恭しく傅いている。
おねえさまは、ぼくの腕の中でスヤスヤと眠る白く柔らかな『姫アリ』に向けて、大きな濾過網(大付属肢)を静かに震わせた。
次の瞬間、空間に特殊な匂いが満ちる。
それは炭化水素やエステル類で構成された、極めて複雑な『高密度・情報伝達物質』。おねえさまの意志が、化学物質に書き換えられて空間に放たれたのだ。
言葉を持たない蟲たちには、ただの本能への命令として処理されるかもしれない。
けれど、おねえさまと『繋がり(エンパシーパス)』を持っているぼくには、その匂いの奥にある、おねえさまの熱い想いがはっきりと分かった。
「……みんなのお母さまを殺した恐竜たち。あんな悲劇を、もう二度と繰り返させないんですぅ」
ぼくは、腕の中で身じろぎした姫アリを優しく抱きしめ、おねえさまの『想い』を言葉にする。
「わたしたちはただ怯えて隠れているだけの弱者じゃない。いつかまた群れが壊されてしまうかもしれない。だから、私たちが新しい頂点になるんです。そのために、この生態系の頂点に居座る『暴虐竜ディアボロドン』を引きずり下ろす……。そうすれば、わたしたちの絶対安全な『お家』ができる。だから……ぼくに、その力を貸してくださいですよぉ」
ぼくの言葉と、おねえさまのフェロモンが完全に融合する。
ドーム内にひしめく巨大なタマムシ、オオミズアオ、ハナカマキリ、そして大ヤスデ。古代蟲たちは一斉に触角を震わせ、絶対的な標的と真の安息の地に向けて、種族を超えた『完全な目的の同期』を果たした。
――これが、ぼくたちの新しい家族。最強の群れ(スーパーオーガニズム)なのですぅ!
***
意思を統一した私たちは、安全圏だった樹林ドームの外へと足を踏み入れた。
ドームの外も中も変わらず、体が鉛のように重く感じるほどの強い重力と、ねっとりとまとわりついてくるような粘り気のある大気に支配されている。
でも、今の私なら大丈夫。この水みたいに重たい空気を利用すれば、高レイノルズ数の流体力学がそのまま適用できるわ!
私は数十枚の側泳鰭を、エイのように波打つ逆位相で駆動させた。
重く粘度の高い大気を「水」のようにガチッと掴み、私の巨体は一切の空力騒音(羽音)を立てることなく、飛翔する。
私の広く平らな背中は、今や姫アリを護る安全な揺り籠であり、この蟲の軍勢を束ねる『空中空母(母艦)』だ。
空気の層に身を隠す【大気境界面ステルス(光学迷彩)】。
その圧倒的な速度と静音性に、私の放つフェロモンで統率された蟲たちも、一糸乱れぬ隊列で迷いなく続いていく。
ザザッ……!
だが、ここは最上層。危険な肉食恐竜たちが闊歩する過酷な世界だ。
前方の茂みから、高い知能を持ち、群れで死角から獲物を狩るラプトルたちが、私たちを取り囲むように姿を現した。
恐竜の一匹が、死角から私へ向けて跳躍する。
私は巨体を波打たせ、流体力学の極致とも言える超機動でそれを完璧に回避する。
みんな、防衛陣形! 姫ちゃんを守って!
私の感覚毛から発せられた化学指令を受信し、大ヤスデが土煙を上げて肉の城壁を築く。ハナカマキリが牽制の鎌を振るい、オオミズアオが鱗粉で視界を奪う。
私は司令塔として群知能のネットワークを駆使し、ラプトルたちを完璧に包囲・制圧していく……!
けれど――もどかしい。
敵の動きを封じることはできても、決定打が足りない。
蟲たちの牙や顎では、恐竜の分厚い皮膚を素早く貫けない。そして私自身にも、致命傷を与える物理的な『手』が、いまのアエギロカシス形態にはないのだ。
盤面を支配する『母艦』には、敵陣を的確にブチ抜く絶対的な『エース』が必要なのだ。
誰か、トドメを……!
***
その戦況の膠着を、遊撃部隊として陣形の外に展開していたぼくは見逃さなかった。
おねえさまの完璧な指揮と蟲たちの鉄壁の防御。そこに唯一足りない『決定打』。
「キチチチッ!」
ぼくの隣を走っていた漆黒のサソリ――プルちゃんが、スッと前へ進み出た。
プルちゃんのハサミや体表に生えている微細な『感覚毛』が、ピンと逆立つ。
陣形から逃れようと、一匹の恐竜がプルちゃんへ向けて跳躍した。
だが、遅い。
プルちゃんの感覚毛は、恐竜の筋肉が収縮する際のわずかな『震え(振動)』を完全に読み取り、敵が動く直前の軌道を【完全な先読み(カウンター)】で把握している。
『ギチィィッ!!』
プルちゃんの関節に蓄積された超弾性タンパク質が解放され、筋肉のタメを一気にバネとして撃ち出す『超音速の刺突』が放たれる。
「ギャ……ッ!?」
空中で動きを封じられた恐竜の頸部に、正確無比に毒針が突き刺さった。
――そして、ぼくも続く。
「おねえさま! ぼくが、おねえさまの『エース』になりますっ!」
ぼくは陣形によって完全に動きを封じられた恐竜の死角へと潜り込み、パステルブルーの太い蛇尾を容赦なく叩き込み、次々と息の根を止めていった。
***
さすが、完璧な連携!
私は上空からフェロモンを散布し、群れの警戒態勢を解いた。
ナイス、ピカちゃん! プルちゃん! さあ、栄養補給よ!
あっという間に制圧された恐竜の肉を、大ヤスデや姫アリたちにも分配する。そして、まだ生温かく血の滴る最も良質な部位を、私たちのエースであるピカちゃんへと差し出した。
***
おねえさまから受け取った良質なタンパク質を喉の奥へ飲み込んだ瞬間――ぼくの胃袋の底で、マグマのような『熱』が爆発した。
「あ、が……っ、あぁぁっ……!」
迷宮第二の契約者としての権能と、体内に宿る【全能性幹細胞】が、恐竜の莫大な生命力を強制的に取り込み、暴力的なまでの細胞分裂を励起させる。
全身の血液が沸騰したかのように熱を帯び、細胞内のミトコンドリアが狂ったようにATPを産生していく。
ミシッ……メキメキメキッ……!
骨端線が強引に押し広げられ、骨格そのものが急激に延長していく生々しい骨擦音が、自分の体の中から響き渡る。
幼く華奢だった手足の骨が伸びるのに合わせ、薄い皮膚が限界までピンと張り詰める。筋肉の繊維が一度ブチブチと千切れ飛んでは、超回復によってより太く、より高密度でしなやかな筋繊維へと強引に編み直されていく。
内臓が肥大化し、血管が拡張する。急激な成長痛に息が詰まり、全身からじっとりと熱い汗が噴き出した。
激しい心臓の早鐘に合わせ、平坦だった胸元が内側から押し上げられるようにわずかな丸みを帯び、女性らしい曲線と肉食獣のバネを併せ持つ、十代前半の少し大人びた体つきへの【急成長】。
パステルブルーの蛇尾もまた、古い鱗をパラパラと剥がれ落としながら、より分厚く、艶やかで硬質な装甲鱗へと生え変わっていく。
「ハァッ……ハァッ……」
細胞の熱狂が収まり、荒い息を吐きながら水たまりに映る自分の顔を見た。
網膜の構造が作り変えられたことで、視界がチカチカと明滅する。やがてピントが合ったその瞳孔は、光を鋭く絞り込む竜の『縦孔』へと変貌していた。
さらに、額の皮膚の下からは、頭蓋骨を押し上げるようにして隆起した、小さな角の芽のような硬い『芯』が生え出ている。
えっ、ウソ!? あのちっちゃくて華奢だったピカちゃんが、ちょっとキケンな香りのするクール系美少女に急成長してる……!?
待って待って、いくら迷宮の権能があるからって、数回の捕食で数年分の細胞分裂と骨格形成を完了させるなんて一体どういう生化学反応なの!?
あああっ、その急速な代謝による汗ばんだ肌と成長過程! エッッ……尊いよぉぉぉぉぉっ!
いやいや、おちつけー。ピカちゃん大丈夫!? つらい?
太く開通したパス越しに、おねえさまの限界オタクな感情と心配が、濁流のように流れ込んでくる。
ぼくは熱い息をふぅっと吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。
「ふふっ……おねえさま、大丈夫ですよ。ただの、少し激しい成長痛ですから」
自然と紡がれたその声は、自分でも驚くほど落ち着いていて、どこか涼やかだった。思考のピントが、冷徹なほどクリアに合っていくのを感じる。
「それに……なんだか不思議ですね。世界が、今までよりずっと高い解像度で見えるんです。おねえさまの知識が、ぼくの頭の中で綺麗に組み上がっていくのがわかります」
身体が成長したことで、脳の神経網も一気に拡張されたのだ。
流体力学、生体力学、材料工学、物理法則……。おねえさまの叡智が、明確な『輪郭』を持ってぼくの脳髄に定着していく。
そして、その冷徹な叡智に触れたことで、ぼくは先ほどの戦闘を、一つの残酷な事実として論理的に結論づけてしまった。
おねえさまは司令塔(母艦)として群れを動かす天才だ。でも、アエギロカシスという水棲生物に最適化されている以上、その美しく完璧な流線型の体には、敵の装甲を砕く『物理的な干渉力(決定打)』だけが決定的に不足している。
ぼくは、新しく編み上げられ、しなやかな筋肉を宿した自分の両腕を見つめた。
ぼくは『人間』の上半身を持っている。人間の最大の武器は、その知性で【道具】を作り、自然界の法則をねじ伏せること。
(おねえさまには、手がない。だったら、ぼくがおねえさまの代わりに『武器』を持てばいい)
恐竜の分厚い皮膚を貫き、おねえさまの盤面支配に確殺の火力を添えるための強靭な矛。それを扱うための知性と筋力は、今のぼくには十分に備わっている。
ぼくは顔を上げ、恐ろしい肉食恐竜たちがうろつく深い森の奥を見据えた。
探さなきゃ。おねえさまの超機動に釣り合う、どんなバケモノの装甲も貫くことのできる『最強の素材』を持つ獲物を。
――ズズンッ……。ズズンッ……!
その時、はるか前方の腐海の奥から、森の木々を薙ぎ倒す重たい地鳴りが響いた。
鋭敏になった嗅覚が、むせ返るような血の匂いと共に、鋼鉄よりも硬く分厚い『極上の素材』の匂いをはっきりと捉える。
小さかったラミアの少女の胸に、エースとしての冷徹な知性と、おねえさまの隣に立つ『竜騎士』としての確かな覚悟が芽生えた瞬間だった。




