第49話 健気なフェロモンを生合成した結果、群知能の濁流でシナプスが死亡!?
ふぅ。とりあえず、一番デカいやつは排除できたとして……問題は。
私が安堵の息を吐くと、背中から降りていたピカちゃんが、警戒しつつも周囲を見渡して声を上げた。
「お、おねえさま、ここ凄いです……! 外のこわい森とは全然空気が違いますし、あっちにもこっちにも、見たことない大きな蟲がいっぱい……!」
「カチャカチャッ、シュシュッ!」
プルちゃんも、私の装甲にピタリと寄り添いながら、困惑したようにハサミを鳴らしている。
たしかに、異常な空間だ。
シダの葉の裏で震える極彩色のタマムシ。蘭の花に擬態した巨大なハナカマキリに、オオミズアオまで。
本来なら生活圏も食性も違う蟲たちが、一つのドーム内で身を寄せ合っている。生態系のセオリーを完全に無視した、奇跡の相利共生モデルだけど、みんな一様にパニックを起こして、何かを恐れてるわね。
「あ……おねえさま! 見てください、あの子!」
不意に、ピカちゃんが私の下を指差した。
大ヤスデをねじ伏せている私のすぐ真下。巨大なアリの死骸の横で、一匹の『産毛の小虫』が丸まっている。
『チィィ……、チィィィ……』
「なんですか、あのモフモフした白い子……。ブルブル震えて、すっごく怯えてますよ……っ」
ピカちゃんの言う通りだ。
私は化学受容体で、この『樹林のドーム』に充満している化学物質の分子構造を、ガスクロマトグラフィーのように脳内で分離・解析していく。
一つ目は、上半身を食い千切られた巨大アリの死骸から漂う匂い。
それは多種多様な蟲たちの本能を完璧に結びつけ、種族の壁を越えた【相利共生の超個体】を形成するための、極めて高度な高分子フェロモン。
二つ目は、その生態系を一瞬で崩壊させた、死と絶望の『警報物質』。
そして三つ目は……必死に触角を震わせている『産毛の小虫』の匂い。
なんて、悲痛な匂いなの……。
解析結果が眼前の惨状と結びつき、一つの残酷な食物連鎖の【結果】が見えてきた。
そうか。外のバケモノ達に、群れの中枢(女王)を殺されたんだ。
生き残った蟲たちは本能のままに母の死骸をここまで運び込んだけれど、絶対的な指揮者を失ったことでパニックを起こし、自壊しようとしている。
そして、この未熟なモフモフの白虫は。
未発達な分泌腺から透明な体液を滲ませて、命を削るようにして匂いを放ち続けている。自分が一番弱くて、一番怯えているはずなのに……死んだ母親の代わりに、次代の女王(姫アリ)として、崩壊寸前の群れをたった一匹で必死に繋ぎ止めようとしていたのだ。
なんて健気なの……っ!
尽きせぬ探究心と、それを遥かに上回る『どうしようもない庇護欲』が、私の心室を鷲掴みにし、全身の細胞のミトコンドリアを爆発的に沸騰させていく。
よし。ピカちゃん、プルちゃん。念のため周囲の警戒をお願い。ちょっとこの子の生態系に干渉してみるから。
「えっ? は、はいっ! プルちゃん、一緒にまわりを見るですよっ!」
私の指示に、ピカちゃんはコクリと頷くと、自身の長い蛇尾でプルちゃんと、腐葉土の上で震える姫アリをそっと包み込むように庇った。
「だいじょうぶ、ですよぉ……。ぼくのおねえさまは、とっても優しくて、すっごく強いのですぅ。……もちろん! ぼくもとっても強いのですよっ!」
ピカちゃん自身も、未だ得体の知れない周囲の巨大蟲たちに少し身体を震わせている。それでも彼女は、かつて絶望の中で私に救われた時のように、今度は自分が『お姉ちゃん』として小さな命を必死に守ろうと背伸びをしていた。
ピカちゃん、震えながら一生懸命お姉ちゃんしてる……尊い。
ほっこりとした気持ちを抱えながら、私はホバー移動の高度を静かに下げ、腐葉土で丸まっている小さな『姫アリ』へと視線を落とした。
私が巨大な複眼のピントを合わせ、大付属肢を近づけると、姫アリは絶対的な上位捕食者への本能的な恐怖に、六本の小さな脚をガタガタと震わせた。
だが、それでも彼女は逃げなかった。
震える産毛を逆立てながら、群れの繋がりを取り戻すための『鍵』を託すように……自分から必死に背伸びをして、私の頭部の感覚毛へ、その小さな触角を擦り合わせてきたのだ。
『チィ、チィィ……』
私は、姫アリが懸命に放出し続けている微弱な『鎮静フェロモン』の化学構造を、自分の受容体で完全にサンプリングする。
未熟で弱々しいけれど、すごく優しい匂い。自分の命すら風前の灯火なのに、ただ『みんな、落ち着いて。争わないで』と祈るような……悲痛なフェロモン分子。
こんな微弱な濃度では、パニックになった蟲たちの受容体には届かない。
私は自分の体内にあるフェロモン分泌腺細胞を駆動させた。
彼女から受け取った『優しい祈りの匂い』の分子構造を鋳型に、パラメーターXを触媒として掛け合わせる。それをドーム中の蟲たちへ強制的に結合するよう、爆発的な濃度へと生合成していく。
心配しないで、小さな姫君。私はあなたの群れを奪ったりなんかしない。
私は姫アリの頭を、優しく撫でた。
あなたが立派な女王に育つその日まで。私があなたのフェロモンの【媒介者】になって、この群れを全部守り抜いてあげる!
次の瞬間。
私の背面の分泌腺から、姫アリの匂いを何万倍にも増幅・最適化した【統率フェロモン】が、エメラルドグリーンの燐光を伴ってドーム中に爆散した。
――ピタッ。
空間の空気が、完全に凍りついた。
狂乱状態に陥っていた大ヤスデが。シダの葉の裏で怯えていた極彩色のタマムシが。オオミズアオが、巨大なハナカマキリが。
ドーム内にひしめくすべての巨大蟲たちの複眼が、一斉に、私と姫アリへと向けられる。
『死の警報』が完全に上書きされ、消え去っていく。
彼らの遺伝子に深く刻まれた、種族の壁を越えた共生関係の絶対的な『中枢』。崩壊していた超個体が、姫アリの匂いをマスターキーとして、私の強大な分泌器官をハブに、再び完全に結合したのだ。
成功した……! これで群れは落ちつ――。
私が安堵の息を吐こうとした、まさにその時だった。
――――ッッ!?!?
突如として、私の脳髄を『未知の激痛』が殴りつけた。
いや、痛みではない。これは……【感覚刺激】だ。
タマムシの複眼が捉えた光の波長。
オオミズアオの触角が捉えた空気の湿度。
ハナカマキリが感じている微細な振動。
ヤスデの無数の脚が捉える腐葉土の温度。
ドーム内にいる何百、何千という巨大蟲たちの『視覚』『聴覚』『嗅覚』『触覚』の活動電位(電気信号)が、超個体の中枢神経となった私の脳髄へ、一切のフィルターを無視して濁流のように流れ込んできたのだ。
ぐ、ああああああっ!? なに、これ……!? 脳神経の処理限界が、シナプスが、焼き切れる……ッ!
ちょっ、やばいやばいやばい……。
一個体の情報処理能力を遥かに超えた、群知能による【感覚のオーバーフロー】。
『お母さん……』
無数の蟲たちの視点と繋がり、自己の境界線が溶け落ちていくほどの圧倒的な情報量に、私の意識は真っ白なノイズに呑み込まれていった――。




